第20話・はじめてのほう助
タモツさんと約束した日がやってきた。私はいつものようにランの車に乗り込み、彼の家に再びやってきていた。玄関を開けても以前のようにゴミの臭いは漂ってこず、リビングへつながる廊下を見ても掃除した日のままだった。汚な過ぎるのも困るけれど、生さえも寄せ付けない清潔な状態をこれほど恨んだ日も無かった。
私たちがリビングに向かうと、タモツさんが寝息を立てていた。私はまだ命があることに安堵すると同時に、自分がこれから彼に下す行為に胸が締め付けられる。私の心臓の音でも感知したのか、タモツさんはゆっくりと瞼を開けた。
「なんだ、来てたのかい」
「今日、約束の日だから」
「そうだな……。どうだ、ちゃんときれいにしてるだろ? 言いつけも守ったぜ」
「わかったわ。それじゃ、準備をするから」
ランは肩にかけていたバッグから、タイチのときと同じく小さい箱を取り出していく。ランは私を呼び、手伝うように指示を出してくる。
「いい、まずは手袋をして。それとマスクにエプロンを着けて。……それから、箱からものを出す際は必ずテーブルの上で行うこと。そうね、あのテーブルを借りましょ。そう、そして必ず小瓶から出して、その後に注射器を出す。
で、まずは瓶の周りを消毒シートで拭いてね。それから注射器の針のガードを外して、小瓶に刺して一気に薬を吸い上げる。最後にちゃんと液体が出ることと針の具合を確認してね。ここまでの作業を終えたら、念のため針にガードを付けておく。この行程を絶対に破らないように。
特に最後は注意してね。何かトラブルがあって不意に針が刺さるなんてことも考えられるから」
私は最後の言葉を聞いて、こくりと頷く。どんなに途中の作業を間違ったとしても、針のガードだけは必ず付け忘れない。
液体の入った針が自分やランに刺さるのも想像したくないけれど、依頼者の人に誤って刺さる事態も私にとっては避けたかった。しばらく注射器に注意を取られている間、ランも私と同じような恰好に着替え、カルテを持ってタモツさんの側に近づいていた。
「それじゃ、タモツさん。最後の確認をするわ。あなたは今回の自殺において、誰からも強制されていませんね?」
「もちろんだ」
「この自殺はあくまで自分で決定したことだと断言できますか?」
「ああ」
「あなたは自殺をして、後悔することはありませんか?」
タモツさんは初めて返答に詰まる。ランはじっと彼の解答を待っていると、彼はゆっくりと言葉を発した。
「ケイコは、あいつは今どんな生活をしてんだろうな」
ランは彼の言葉を受け、膝を折って彼と同じ目線に立った。
「正直に話すわ。私、あなたのことを調べてケイコさんに会ってきたの。そしたら、彼女はあなたから毎月お金をもらってることを話してくれた」
「あいつ、幸せになっていたか?」
ランのお金に関することに触れず、
タモツさんは真っ先にケイコさんの
人生について質問した。
「……ええ。ちゃんと結婚して、子供もいるみたい」
「そうか、そうか……」
タモツさんは私たちの前で、はじめて涙を流して見せた。彼は通帳のことについては何も触れず、ケイコさんの結婚報告を聞いて涙を流している。
「ランちゃん、ありがとう。そっちの嬢ちゃんも、一緒に行ってくれたのかい?」
「あ、その……。はい、私もケイコさんにお会いしました」
そうか、を繰り返しながらタモツさんは何度も涙を拭おうとする。しかし、すでに腕が動かないのかうまく涙を拭けずにいた。
「わかった。じゃあ、決断が鈍らないうちに早くやってくれないか」
ランはこくりと頷き、私に合図を送ってくる。私は薬を入れた注射器を持ち、タモツさんの元に歩いていく。たった五。六歩なのに、永遠に辿り着くことができないほど彼のベッドを遠く感じた。私は彼の前に立ち、深々とお辞儀をする。
「それじゃ、タモツさん。最後にこの書類にサインだけしてもらえるかしら」
差し出された契約書にサラサラッとサインをする。ランはすべての手続きを終えたことを告げ、私にそれじゃ初めて、とバトンを渡してくる。注射器から針を外そうとするも、いつまでも糸が通らないように手が針先に触れたがらない。自分が自殺するときよりも歯が鳴り、自分の心拍音だけが私の世界を包んでいた。
「嬢ちゃん、名前は?」
震える手にふわっと優しいぬくもりが伝わってくる。その手はタモツさんのもので、はじめて会ったときのように彼はひょうきんな笑顔を見せていた。
「わ、私は! サクラ、です」
「サクラちゃんか。今日がはじめてなのかい?」
「はい、その……。すみません、手際が悪くて」
「いいよ。誰にだって初めてはある。むしろ、俺はサクラちゃんのはじめてに選ばれて嬉しいよ」
そう言いながら、タモツさんは自分で注射器の針を取ってしまった。
「いいかい、これは俺が望んだことだ。決してあんたのやったことじゃない」
タモツさんは私の手を取り、自分の腕近くに注射器を近づける。彼の腕に自分の手が触れるが、一切震えを感じられなかった。私は彼の腕に同調される形で、自然と震えが無くなっていった。
「よし、後はあんたがその注射器を刺すだけだ」
彼は完全に死を望んでいる。もう自分はここにいる必要がない。タモツさんの目には、三日目のような迷いが見られなかった。タモツさんに支えられる形で私はタモツさんの腕に針を刺し、考えるよりも先に私の手はグイとシリンダを押し込んでいた。
私の力に比例してどんどんシリンダが短くなり、一息ですべての液体が無くなった。タモツさんは私の方を見ながら、すべてから解放されたような顔で見つめてくる。
「ありがとうな」
「え」
「サクラちゃんがいたから、一人で最後を迎えずにすんだよ」
タモツさんはどんどん意識が遠くなっていくのか、目がとろんとし始める。私は彼の言葉を聞いて、思わず手をギュッと握りしめる。
「タモツさんは一人なんかじゃない!
あなたがしたことだって間違いじゃない!
ケイコさんは、ケイコさんは
あなたがいたから幸せになれた!
今も生きている!
だから、そんな悲しいことを言わないで……」
私はベッドにかぶりつき、彼の前で嘆願をするように膝をついて話しかけていた。私の手を覆いかぶさるようにランの手が触れる。
「よくやったわ。サクラのおかげで、タモツさんは後悔のない最期を迎えられたわ」
タモツさんを見ると、彼は眠っているのと変わらない顔つきだった。でも、私にはひょうきんな笑顔のまま亡くなったように見える。
それは私の後悔や後ろめたさからやってくる幻覚ではない。彼が自分で選択をした結果だ。私はしばらくタモツさんの手をギュッと握りしめ、その寝顔を目に焼き付けていた。




