後:「世界」と「セカイ」と「せかい」
またも日が空いてしまい申し訳ありませんでした。
《9月12日》
ぼーっとしていた俺の鼻を、焦げ臭さが遠慮がちにくすぐる。
「うわっ、と……」
トースターからもくもくと立ち上る黒い煙に気付き、慌ててトースターを切る。危うく火災報知器が鳴るところだったが、どうやらギリギリ間に合ったらしい。
が、当然のようにトースターの中身は黒焦げ。火が出るに気付いて本当に良かったが、そもそも普通ならトースターを使ってパンを黒焦げになんて出来ない。タイマーのセットすらまともに出来ていないということだ。
「はぁ……」
安堵とうんざりした気持ちが混ぜ合わさった溜息を、調理台に向けて深々と吐く。
飛鳥が感情の片鱗を見せてから数日。危ういところで形を取り戻せた俺の心は、今は深い重圧に押し潰されている。
結局あの後──思いの切れ端を口にした後、飛鳥は泣いたまま眠ってしまった。どうやら寝不足だったようだし、思い詰めていた疲れもあったのだろう。止血と手当を一通り終えた後にベッドに寝かせておいた。
翌日になれば、かつてのようにとまではいかないまでも俺の声に応えてくれるようになった。これで事態の悪化は食い止められた、と言えるだろう。
……しかし、当然このままで良い筈もなく。
あの一幕は、言ってしまえば破滅を遅らせるブレーキでしかない。飛鳥はまだ自分のことを責めたままだし、このまま放っておいてはまたいつ自分を追い詰め始めるかもわからない。
そうならないためにも、どこかで飛鳥ときちんと向き合い心に巣食ってるものを取り除いてやる必要がある。
今飛鳥と向き合ってやれるのは俺しかいない。つまり、俺が飛鳥を救ってやらなければならないのだ。
が。
「……はぁ……」
再び、溜息。
俺は、飛鳥と向き合うのを憂鬱に思っていた。
飛鳥の唯一にして最大の理解者である俺が、だ。
「情け無ぇな、俺……」
口をついて、自分に向けた悪態が出る。
例えるなら、「クラスメートへの告白に失敗した翌日」みたいなものだ。明日もそのクラスメートと会うのかと思うと憂鬱になるような、そんな気分だ。
つまりは、飛鳥と向き合うのが怖いのだ。飛鳥の深い所に触れた結果出てくるもの、それが何かわからないが故に恐ろしいのだ。
──ガキっぽい。
今まで幾度繰り返したわからないこの言葉。いつまで経っても逃れられないこの言葉が、とても鬱陶しく思えた。どこまでも付きまとってくる──あるいはどこまでも深く根を張っている亡霊。その手から逃れられず、俺は未だ煩悶し続けている。
相変わらずベタつく階段を、俺はひたひたと登る。この階段を含めいずれ家の掃除はしなければと思っているが、どうにも億劫で仕方がない。掃除用具もどこにしまったか忘れてしまったし、家に誰を招く予定も無いため必要も無いだろうとつい思ってしまう。
ちらちらと床や壁際を見ながら歩いているうちに、飛鳥の部屋の前に着いた。
コンコンとノックし、ゆっくりとドアを押し開く。
「……おはよう、プロデューサー」
「ああ。おはよう、飛鳥」
アイドルとプロデューサーの関係だった頃から続いているこの挨拶に、俺は一先ずの安心を得た。これは飛鳥と俺の関係が崩れてはいないことの証拠であり、俺を支える柱が生きていることの証拠だ。
声こそ多少弱々しくなってしまったが、間違いなく飛鳥はそこにいて「セカイ」を取り戻しつつある。やはりこれは今までの飛鳥の様子を間近で見ていただけに嬉しいことであり、しかし同時に俺の中で脈打つ憂鬱を思い出させるものでもあった。
「……雨、か」
窓の外を眺めていた飛鳥が、ぽつりと漏らす。
「ん?ああ……そういえばそうだったな」
ぼんやりと自室の窓からの光景を思い出す。記憶の中とでしとしとと反響し続ける雨の音が、やけに不気味に感じられた。
「飛鳥は、雨が嫌いだったか」
会話のきっかけにでもなれば、と口を開く。少し声が震えていた気がしたが、大丈夫だろうか。
「嫌いではない……けど、好んでもいないよ」
飛鳥は静かに──どこか疲れたようなトーンでそう返す。
「湿度で髪がベタつく。折角整えた髪も、台無しになるからね」
言葉と言葉の間に、ほんの僅かな迷いが浮き出た。まるで歯車が空回りをするかのように、飛鳥の言葉が空を切った。
「そうか」
沈黙。
「……」
「……」
また、これだ。
あれからというもの、俺と飛鳥の会話はかなり──以前と比べても相当ぎこちないものになっていた。
片方が口を開いて、もう片方が反応する。その反応に上手く応えられないまま、会話がフェードアウト。まるで運動音痴が組体操をしているかのような不安定さだ。
加えれば、会話こそ多少はするようになったが、飛鳥は俺と目を合わせようとしない。飛鳥も飛鳥で迷っているのだろう。飛鳥も俺と同じような感じなのだろうとはわかってはいるのだが、やはり距離感は拭えない。
(どうしたらいいんだ……)
うっすらと暗さが差した飛鳥の横顔を眺めながら、俺はただ焦ることしか出来なかった。
俺たちの運命を定める岐路は、じわじわと近付いてきている。なのにこの意気地無しは、しゃがみこんだまま動けずにいる。
──情けないな。
心の中で、もう1人の俺がそう責めたてる。
わかってる。情けないよ。本当に情けない。
心がざわざわと波立つ。まるで波が岩肌をじりじりと削り取ってゆくかのように、俺の心をもう1人の俺の手が撫ぜてゆく。
──お前みたいなヤツが飛鳥の隣にいるなんて、俺は許せないな。
それもわかってる。みっともなく飛鳥に縋りつくだけの男に、飛鳥の隣に立つ資格なんて無い。それがわかってるから辛いんじゃないか。
──なら、行動の一つでも起こしたらどうだ。
……。
──簡単に言うな、なんてのはナシだ。これはお前にしか出来ない事だ。
……うるさい。
──本当に飛鳥が大切なら、するべきことがあるだろう?逃げてたって、コトは悪くなるばかりだ。
黙れ。そんなことは解ってるんだ。
──本当に理解してたら、こんなところで悩んでねえよ。
「ッ、……」
俺の心を、俺自身の言葉が深々と抉る。
自然と、俺の視線が飛鳥の左腕へと向く。寝巻きの袖から覗くのは、手首から肘にかけて巻かれた包帯。あの時以前からも少しずつその腕に刻まれていたであろう傷。
そうだ。あれは、俺が飛鳥から逃げ続けていたせいで出来てしまった傷だ。もう二度と飛鳥を辛い目に遭わせないためにも、俺が何とかしてやるしか無いのだ。
俺しか、いないのだ。
俺しか……
──……。
──結論から言えば、飛鳥との会話はどれも長続きしなかった。
昼も、夜も、身の回りのケアをする時も、同様に。
結局俺は何も出来ないまま、1日を終えた。
「……こんなヤツ、俺は許せない……」
ベッドに寝転がった俺の口から、ぽつりとそんな言葉が流れ出た。
ああ、そうだ。
俺は、こんな情けないヤツは許せない。
《9月12日 セカイの内側から》
「はぁ……」
また、ダメだった。
プロデューサーが心に抱えているものに気付いてから数日。ボクはプロデューサーの心のうちを聞こうとしていたのだが、どうしてもそれを口にすることが出来ずにいた。
ボクが彼の抱える闇に気付いたのは、つい先日──ボクの心が限界を迎えた日だ。
情けない話だが、ボクは自分のことを責め立てるあまり周りが全く見えていなかった。やり過ぎではないかと思えるほどに自分を責め続ける姿を見て彼が何を思うか、それに気付けていなかったのだ。
あの時、予想以上の痛みと出血でパニックになった時。ボクの手当をしてくれたのが彼なのだが、その時の彼は今までに見たことがないような顔をしていた。
一言で言えば、ひどい表情だった。
例えるなら、我が子を悪魔に連れ去られる瞬間の親。──まるで冗談のような表現だが、少なくともボクにはそう見えた。
その瞬間、ボクはまた再び過ちを犯していたことを覚った。
──ああ、またボクは彼に十字架を背負わせてしまったのか。
ボクは自らの行いをそう悔いた。
一時は、再び腕に刃を突き刺そうかと真面目に考えていた。一度渡った橋だ。本来なら躊躇する理由なんて無かった。
……しかし、その気持ちは左腕を見るたびに泡のように消えていった。
すっかり細くなってしまった左腕と、お世辞にも綺麗とは言えない様子で巻かれた包帯。そして、その下でジクジクと痛む傷。それらの存在を思い出す度に、彼のあの表情がフラッシュバックするのだ。
何度も何度も痛みを求め、何度も何度もそれ以上の痛みを思い出す。安易な「痛み」に逃げるという選択肢は、この状態のボクにとって薬物中毒者に於ける麻薬のような物だった。痛みに溺れてる間は他のことを考えなくて済む上、それだけでボクが罪を購えていると錯覚出来る。だが、そんなものは虚構──自分と向き合うのを恐れていたボクが昔使っていた言い訳でしかない。
既に切り捨てた筈のその言葉に再び縋っていたボクを自覚したボクは、鎖された扉を破って新たな1歩を踏み出す決意を固めた。幾度も弱さと理想の狭間に揺れ動いた末にようやく、もうこれ以上彼を傷付けるようなマネは出来ないと決意したのだ。
──が、どうやらボクは覚悟一つで変われるほどわかり易い存在でもなかったようだ。
実際に彼の声を聞いた瞬間、心臓が引き絞られるかのような感覚を得てしまった。まるで死刑宣告を受ける直前の囚人のような気持ちだった。
「恐怖」──つまりボクは、彼と言葉を交わすことにはっきりと「恐怖」を感じたのだ。
「ボクは何がしたいのだろう」。そんな事を思わず考えてしまうほどに、矛盾した思考。
ボクが彼を救いたいと思っているのは事実だが、その彼と触れ合うのが怖いと思ってしまうのもまた事実。
どうしたらいいのだろうか。
ボクは何を怖がっているのだろうか。
倦怠感に圧される体をベッドに預けながら、窓を叩く雨粒の音に耳を傾け続ける。
「──はぁ……」
何度目かわからない溜息が、妙に冷たいエアコンの風に流された。
《9月15日》
雨がぱたぱたと窓を叩く。
いい加減どうにかしなければと思い続けて約1週間。
進展は無い。
「……」
目の前では、相変わらずの暗い顔で飛鳥が箸を動かしている。
日に日に食欲が落ちているのか、最近は食べ残しが多い。
──もしこれすらも俺のせいだったら?
そう考えると、胸の奥から怖気の混ぜ込まれた苛立ちが浮かんでくる。
「──、……」
口を開こうとして、失敗する。
まるで声帯が溶接されたかのように、声が出なかった。
「……はぁ」
飛鳥がため息をひとつ吐く。
びくりと、俺の肩が震える。
箸が動かなくなる。
沈黙が降りる。
──また、俺はこうやって怯えて。
惨めだった。飛鳥の目の前で情けない姿を晒し続ける俺が、とてつもなく惨めだった。
どうしたらいいのかはわからない。けど、どうにかしなければいけない。
すっかり冷静さを欠いた頭で、取っ掛かりの無い思考を巡らせる。わかってはいる。こんな状況では何を考えたって無駄だ。半ばパニックの状態で何かを考えたって無駄でしか
「──ぁ、……」
「……え?」
俺の目には、ゆらりと倒れ込む飛鳥の姿がスローモーションで映った。
膝の上に乗っていたプレートが、壁とぶつかりがちゃんと鳴る。
「飛鳥……?」
すーっと、俺の背中を冷や汗が伝う。
床から立ち上がり、恐る恐る飛鳥の顔を覗き込む。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きながらぐったりとする飛鳥。よく見たら顔も赤く、尋常ではない量の汗がだらだらと流れている。
「飛鳥!?大丈夫か、飛鳥!?」
思わず肩を揺さぶってから、ハッとなる。
もしこれが何かの発作だったら──
「大丈夫、だよ……プロデューサー」
「!飛鳥!!」
弱々しくはあるが、はっきりと飛鳥が言葉を口にした。
「ちょっと目眩がしただけさ……大丈夫だよ」
「目眩だけか?」
「いや……少し、寒気がする」
「熱があるのか?」
「そうかもしれないね……」
明らかに飛鳥の目は泳いでいる。汗といい火照った顔といい、高熱にうかされているのはまず間違いないだろう。
「でも、何で……」
「少なくとも、空調のせいではないよ……寒くはなかったし、熱中症になるほど、暑くもなかった」
「そうか……」
つまり、風邪や脱水などではないという事だ。となれば、理由は何だ。飛鳥に持病は無いし、病原体を持ち込むような事をした記憶も無い以上は感染症でもないだろう。だとしたら──
思案を巡らせる俺に、飛鳥が遠慮がちに話しかける。
「──ところで……何故か左腕が痛むんだ。診て、くれないか……」
左腕。恐らくは、左腕の傷の事だろう。
「……っ、ああ……」
いつぞや目の当たりにした痛々しい傷。思わずあの光景を思い出し、少し息が引きつった。
包帯を固定していたテープを剥がし、ゆっくりと包帯を解いてゆく。
するするという布擦れと共に、飛鳥の白い肌が徐々に露わになってゆく。
「……これは……」
包帯が完全に外れて傷口にあてがっていたガーゼが出てきた瞬間、俺は息を呑んだ。
ガーゼが気味の悪い黄色に滲んでいたのだ。
──膿だ。
「ッ、化膿してたのか……」
恐らく、熱もこれが原因だ。傷口から入った細菌が原因で、このような病状が引き起こされたのだろう。
「、ああ……道理で……」
飛鳥が苦しげに呻く。
「ここ暫く、何故か左腕の傷が疼いていたんだ……妙な感触もあったし、変だと思ったんだ……」
「そうなのか!?その時に何故言ってくれなかった!!」
思わず俺は、上擦った声で叫んでしまった。
叫んでから、後悔した。
「……言えなかったんだ。プロデューサーの、あんな顔を見ていたら……」
「あんな顔……?」
俺は、いつの間に飛鳥の口を塞ぐような顔をしていたのか。飛鳥の口を閉ざさせるような表情なんて、いつしていたのか。
「──だって、プロデューサー……泣きそうな顔をしていたじゃないか」
「──ッ!!」
言葉も無かった。
飛鳥の心を掻き乱さないようにしていたつもりなのに、まさかそんな所で飛鳥を傷付けていたなんて。
俺の悲痛な表情に気付いたのか、飛鳥は言葉を続けた。
「ああ、そうじゃないよ……キミは、ボクをカケラも傷付けちゃいない……」
「なら、何で──」
「──怖かったんだ。ボクがキミを傷付けていたことを認めるのが、怖かったんだ」
──。
「飛鳥……」
飛鳥は苦しそうに喘ぎながら、続ける。
「弱い人間だろう……?ボクは自分の過ちを公に認めるのが怖かったんだ……自分の中ではその事に気付いていても、ボクの感情的な部分がそれを認めなかった……キミと言葉を交わしたら、否が応にも自分の過ちを目にすることになると思うと、怖くて口が開けなかったんだ……」
そうだったのか。
飛鳥もまた、同じように苦しんでいたのか。
尚も続けようとする飛鳥を制し、立ち上がる。
「……プロデューサー?」
「話は後だ。とにかく、今はお前の手当をしてやる必要がある。必要なのは替えの包帯、ガーゼ、消毒液か……すぐ取ってくるから、少し待ってろ」
漸く回り始めた頭で、俺はするべきことを纏めてゆく。一応全て救急箱に入っていた筈だ。前使った時も残りがある事を確認したから、大丈夫だ。
──ふと、飛鳥がこちらを見て微笑んだ。久しぶりに見た、飛鳥の笑顔だ。
「──ありがとう」
「……」
この言葉に、俺は何も返せなかった。元はといえば、全て俺のせいだというのに。
黙って寝てろ、とだけ返し、俺は部屋を出た。
「い"、ッ──!!」
「もう少しだ、我慢してくれ……」
「ハァ……っ、づ……」
触れるだけでも激痛が走るのだろう。呻く飛鳥を宥めながら、化膿してしまった傷口を消毒してゆく。当然ながら俺に医療知識など無く、この状態の傷を消毒するのが是か非かを判断する術はない。ただ飛鳥をこのまま放置する事が出来ず、思い付いたことをやっているだけなのだ。
果たしてこれがどういう意味を持つのか。考えるだけで冷や汗が流れるが、放っておいても悪化するだけなのは分かりきっている。それならば出来ることをしてからの方が、取り返しがつくだろう。
「──っ、終わったぞ、飛鳥……」
「ハァッ、ハァッ、っ、ああ……」
息をこれ以上ないくらいに荒らげながら、飛鳥は頷く。あとは傷口を乾燥させ、ガーゼを巻いて保護するだけだ。
ただでさえ意識が朦朧としているのに、これ程までに体力を消費させて良かったのか。ふとそんな不安が過ぎるが、今更気にしたって仕方が無い。
「──……ところで、プロデューサー」
息を整え終えた飛鳥が、若干掠れた声で話しかける。
何故か、理由もわからない不安が湧き上がってきた。
「何だ」
「──キミは、話す気は無いのかい?」
──その言葉に、俺はまるで銃口を突きつけられたかような恐怖を覚えた。
「……何をだ?」
飛鳥はふらふらと起き上がり、俺に言葉を投げかける。
「誤魔化さないでくれ……言っただろう、キミが泣きそうな顔をしていたって。ボクは、その理由が知りたいんだ……」
俺は、黙り込むことしか出来なかった。
元々は俺のせいでこんな事になっている。それなのに飛鳥をこれ以上引きずり込むなんて、俺には出来なかった。
「……逃げるのかい?」
飛鳥が嘲るような笑顔でこちらを見る。
「……違うさ」
「なら」
「これ以上、飛鳥に何かを背負わせるわけにはいかない」
飛鳥の言葉を遮り、俺はそう言った。
飛鳥は、表情を変えないまま問う。
「……何故、ボクが『何かを背負う』と?」
「飛鳥は俺のせいで自分を責め始めたんだ。これ以上何かを伝えて飛鳥が傷付く材料を増やしたくない」
「……それは、ボクにもう『傷付く材料』とやらの存在が伝わっている、というのを解った上で言っているのかい?」
「……当たり前だ。飛鳥をかすり傷で助けられるのなら、安いものだ」
そうか、と飛鳥は言う。
笑いは消えない。
「じゃあ、ボクからも一つ言わせてもらおう」
「……」
一瞬瞑目し、腹を決めたように再び目を開く。
「──これ以上ボクをバカにするのはやめてくれないか」
思わぬ言葉に、手がぴくりと震える。
飛鳥は目を泳がせながら、しかしこちらをしっかりと見据えながら言う。
「バカに……?」
「そうだ。今のキミは、明らかにボクに対して軽蔑の目を向けている」
「そんなこと──」
「あるんだ。もしキミがボクの言葉を否定するというのなら、答えてくれ。何故キミはボクを弱者だと決めつける?」
「っ、それは……」
目に微かな怒気を認め、俺はたじろいだ。こんなに真っ直ぐ怒りを向けてきたのは、飛鳥と出会って以来初めてのことだ。
「答えられないのなら、代わりに答えてやろう。キミはボクのことを『弱い』と思っているんだ。ボクのことを、『真実を知ったら傷付いてしまう程度の人間』だと評価しているんだ」
「……」
「確かに、かつては傷付きはしたさ。いや、今も恐らく話を聞いたら傷付くかもしれない」
「だったら──」
「何故ボクが『傷付く』だけだと考える?」
「ッ──」
言葉もなかった。
飛鳥はさらにまくし立てる。
「人間は成長するものなんだよ、プロデューサー。痛みを知ればその痛みを糧にするし、喜びを知ればまたその喜びを求める。ボクだって例外じゃない。……ボクが自分を責めれば責めるほどキミが追い詰められるということくらい、一度経験すれば学ぶよ」
「……」
そこまで言うと、飛鳥の瞳から怒りの色がスッと引いた。飛鳥はこちらを見据え、言う。
「だからさ、プロデューサー。ボクに全て話してくれ。ボクはこれ以上、キミが追い詰められるところを見たくないんだ」
──ああ、そうか、と。
俺は漸く理解した。飛鳥もまた相手のことを見て傷付いていたんだと、理解した。
俺が自分を責め立てる飛鳥を見て思い詰めていたのと同様に、飛鳥もまた俺の姿を見て思い詰めていたのだと。
「今すぐにとは言わない。けれど、ボクはキミが話す気になるまで尋ね続ける。絶対に、キミをこれ以上傷付けさせはしない」
だからさ、と飛鳥。
「ボクにも、キミを助けさせてくれ」
「──すまなかった、飛鳥」
数秒の沈黙の後、俺はそう切り出した。
「……おや」
俺の言葉を聞き、飛鳥は少し意外そうな顔をした。
それには構わず、俺は続ける。
「俺は飛鳥がまたこの間と同じような状況になるんじゃないかとビクビクしていた」
「……」
「すまなかった。考えを改める。──飛鳥、俺を助けてくれ」
その言葉を聞くと、飛鳥はフッと笑った。
「──当然だよ、プロデューサー。ボクはキミの担当アイドル、言ってみれば阿吽の対像なのだから」
「……助かるよ」
「それじゃあ、話してくれるんだね?」
「ああ、今すぐにでも」
「それはいい。この世には流れと勢いというものがあるからね……それを逃すのは得策じゃない」
違いない、と俺は笑う。
それじゃあ、と口を開こうとしたが、何故か飛鳥にそれを制された。
「その前に──」
「?何だ?飛鳥」
飛鳥は力無く笑うと、再びふらりとベッドに倒れ込む。
「……水を、くれないかな」
《9月20日》
ぜぇぜぇという荒い息遣いを聞きながら、俺は飛鳥の寝顔を眺めていた。
熱が出てから六日目の朝。飛鳥は未だ持ち直さない。
「……」
先ほど計った体温は、およそ37.8度。熱は特別高い訳ではない──比較対象は他の感染症にかかった場合だ──が、ただでさえ体力が落ちている飛鳥にとって連日の熱はかなり堪えるだろう。
一応氷枕と冷却シートを使ってはいるが、どこまで効果があるかはなかなかに疑問なところだ。ひょっとしたらこのまま、と悲観的になるくらいには飛鳥の症状は良くないのだ。
「……頼むぜ、飛鳥。俺はまだ、お前と一緒にいたいんだからな……」
祈るような気持ちで、熱く火照った飛鳥の手を握る。
何故だか心の奥がちくりと痛み、俺は誰に向けるともない苦笑を浮かべた。
(──一緒にいたい、か)
思い返してみて「一緒に生活をしたい」「一緒に仕事をしたい」といった具体的な希望が出なかった事に気付き、俺は再び苦笑する。
俺が何を求めているのかはわからない。けれど、何となく俺達の未来がそう明るいものではないのは分かる。
目を閉じると目の前に広がる無機質な砂漠。そのあまりの平坦さに、俺は少し笑いたい気分になった。
『──なるほどね』
五日前。
俺の話を聞き終えた飛鳥は、ぐったりと澱んだ目で天井を撫でる。
『つまりはキミも、ボクと似たような思いを抱いていたという事か……』
『そうなのか?』
俺は思わず聞き返す。何となく分かっていたことではあるが、実際に本人の口から聞くと少し意外感がある。
『そうだよ……自傷行為なんて、やる理由が限られているだろう?』
『まぁそうだろうけど……』
だろう?と飛鳥は笑う。
『ボクだって、それなりに人間らしい生き方をしてきたつもりさ……方向性はどうあれ、ボクだって立派に人間だ。人間として産まれた以上、どうあっても「義務」「権利」、そして「責任」という言葉は知らずにはおれないからね。賢しらぶった思春期のガキが「責任」という言葉をどう捉えるか……下手をしたら、悲劇と言うも生ぬるいことになると思わないかい?』
『それが飛鳥って訳か……?』
『まぁ、そういう事さ……でも、ボクだって好きで「責任」という言葉に付き纏われてるわけじゃない。伊達や酔狂は嫌いではないけれど、それでも自分を追い詰めるようなマネは好まないよ』
『じゃあ何で……』
ハァ、と息を吐く飛鳥。その顔には、はっきりと苦々しさが刻まれていた。
『……人間の思考回路ってものは不便なんだよ。一度「ひょっとしたら」という疑念に取り憑かれたら、パニックになった頭ではそれを振り払えないんだ。妄執的に「ひょっとしたら」を突き詰め続けることしか出来なくなるんだよ』
『……なるほどな』
言われてみれば、そうかもしれない。
俺も俺で根拠の無い罪悪感に犯され続けてきたわけだから、飛鳥の言葉がストンと腑に落ちる思いだった。
『もっと成熟した精神があれば、こんな思いもせずに済んだろうに……蠱毒も過ぎたればただの毒だ』
──成熟した精神、ね。
『……だとしたら、俺はどうなるんだ。20代も折り返しを過ぎたいい大人がお前と同じ理由で悩んでたんだが』
『……さぁ?』
少しの間考えた飛鳥だったが、あっさりと結論を放棄した。酷いやつだ。
渋い顔をする俺に、飛鳥は言葉を続けた。
『少なくともボクは、そういうタイプの人間は好ましく思えるよ。まっすぐで、素直で、潔白。ボクにとってのひとつの理想とも言える』
『こんな奴のどこが潔白なんだよ。飛鳥を騙して誤魔化してたんだから、真っ黒もいいところだろ』
その言葉に、飛鳥は何故か眩しそうに笑う。
『そういう所だよ、プロデューサー。キミは自分の過ちを認め、それを糧とする事が出来る。……ボクとは大違いだ』
そういうもんか、と俺は頬をかいた。
──その時に飛鳥が見せた少し悲しげな笑顔。今ならその意味が分かる気がする。
「……ぁ、」
ベッドに背中を預けてうっつらうっつらと舟を漕いでいた俺を、飛鳥の小さな呻き声が揺り起こした。
「……起きたか、飛鳥」
まだ頭がふらふらするのだろう。怪しい挙動で上体を起こす飛鳥に、俺は控えめに声をかけた。
「……ああ、プロデューサー……おはよう……」
「体調は?」
「良くはない……まだ意識はぼやけるし、倦怠感も取れない……」
「そうか……まぁ、そうだよな……」
体温通りの体調に、俺は溜息を吐く。
今までに比べれば体調は良さそうだが、それでも今の飛鳥は見ているこっちも辛くなる程だ。
「ほら、飲み物だ」
傍らに置いておいたコップにスポーツ飲料を注ぎ、飛鳥に手渡す。
「ありがとう……」
飛鳥は危なっかしくコップを受け取り、こくこくと中身を飲み干してゆく。
一息にコップを空にした飛鳥はふうと息をつき、額を押さえて頭を振った。
「……今日は、晴れなのか」
ぼんやりとしていたら、不意に飛鳥が口を開いた。それに釣られ、俺も窓の外に目を向ける。
「……ああ、そうみたいだな」
体感的には、かなり久しぶりに見た晴れ間だった。
数字にすれば、およそ1ヶ月ぶりに感じられる晴天だ。この1ヶ月1日たりとも晴れの日が無かったのかと言われれば、まぁそんな事は無いのだろう。地理的にも統計的にも1ヶ月丸々雲に覆われることがあるとは考えにくい。
けれど、こうやって「ああ、今日は晴れなのか」と改めて思えたのは本当に久しぶりな事だ。ここしばらくは他の事に気を取られてばかりで、天気の事なんて殆ど頭に入ってこなかった。
「……こうやって晴れの日だって思えるのも、何だか久しぶりな気がするよ」
どうやら飛鳥も同じ気持ちだったようで、どこか感嘆と安堵を滲ませた声でそう漏らした。
「本当にな……俺も買い物以外で外に出ることは無かったし、天気なんて気にする余裕も無かったよ」
「……おや、外に出る用事が『買い物だけ』と言ったかい。キミは社会人なんだろう?労働の義務があるんじゃないのかい?」
珍しいことに、飛鳥が茶々を入れてくる。以前のような口ぶりでは無いが、それでも以前の状態が戻りつつある。良い傾向だ。
「うるせ。仕事なんてもう怖くてできねーよ」
「そうか……これで立派に反社会的存在だね」
「おい待て、ヒトを勝手に社会の敵にするな。っつーかお前も仕事辞めてるだろ。人のこと言えんのかよ」
「ボクかい?忘れているなら教えておくが、ボクは未成年なんだよ?労働の義務は無いどころか、本来なら労働を禁止されている立場なんだ。ボクが労働をしないのは自然な流れであり、仕方のない事でもあるんだよ」
他にも理由はあるけどね、と飛鳥。
その顔に、悲しみは無い。
「……屁理屈こきやがって」
「屁理屈も立派な理屈さ。それに、付け加えればボクは小さなレジスタンスだ。社会の敵とされたところで本望でしかないよ」
「物騒なこと言うなぁ」
「キミも既に立派なレジスタンスだよ。労働の義務を放棄した、明白な社会の敵だ。この家にいる人間は漏れなくレジスタンスだ」
「おい、俺を巻き込むな。俺はただ心因的な理由で仕事の継続が困難なだけで──」
「──気に入らないかい?」
何やら含みがある言葉と共に、窺うような目でこちらを見る飛鳥。その瞳は熱のせいか少し潤んでいた。
「──んな訳あるか。最高だよ」
迷うことなく、俺は二つ返事で答えた。
俺のハラなんてとっくに決まっている。俺は飛鳥といられればそれでいいんだから。
「──そうか」
即答されて少しの間目を瞬かせていた飛鳥だったが、その後直ぐに反応を示した。
その表情はどこか吹っ切れたような、そんな晴れやかな顔だった。
ジィジィという蝉の大合唱を聞きながら、俺は桜の並木を歩く。
春には綺麗な花を咲かせるこの木も、夏ともなれば喧しい奴らのたまり場だ。物事には表裏がある、と語る飛鳥の真面目くさった表情を思い出すと、自然と笑いがこみ上げてきた。
「……何を笑っているんだい?」
と、背後にいる当の御本人サマから鋭い言葉が飛んできた。
「いやぁ、何でもないさ」
「何でもないようには見えないんだが?」
「本当に何でもねーよ。なんてことの無い日常を懐かしんでただけだ」
今飛鳥は俺の背に背負われている。
この外出を言い出したのは他でもない飛鳥だ。「たまには外に出てみないか」という飛鳥の誘いを断る理由には俺には無かったし、家にいてもソワソワするだけだったので丁度よかった。今日は比較的体調が良いとはいえ、飛鳥は衰弱した体だ。本当なら車椅子が欲しいところだが、生憎と必要に駆られなかったが故家にそんなものは無かった。下半身に力を入れられない飛鳥を背負うのはなかなかに難儀なものだが、そう長い時間歩き回ることも無いだろうから問題は無いだろう。
「今更だが、夏だなー」
物珍しそうにキョロキョロと見回しながら、俺はぽつりとこぼす。
「本当だね……文句の付けようがないくらい、『夏』だ」
首筋にエクステが触れるこそばゆさに身を竦める。飛鳥も飛鳥であちこち目線を巡らせているのだろう。
「家の中だと蝉の声も遠いしな。こうやって直接蝉の声を浴びてやっと実感できる」
「ボクの最後のライブも7月だったが、こうも暑くはなかったし蝉も鳴いていなかった……風物詩ってやつは、どうしてこうも大きな力を持つんだろうね」
「さぁ……俺たちのDNAの中にでも組み込まれてるんじゃねーの?『蝉=夏』『夏=花火』みたいな感じで」
「随分と大雑把な等式だな……『π=3』の方がまだマシじゃないか?」
「ほっとけ。ゆとりバカにすんな」
「バカになんてしていないさ。ただ、円を正六角形と同じ形と宣うその精神が好ましかっただけさ。フフッ」
「何も変わってねぇから。『あんたバカぁ?』と『いい脳神経外科を紹介しましょうか?』くらいの違いしか無ぇから」
やいのやいのと言いながら、俺たちは並木を下ってゆく。結構な距離があるが、終端まで歩くのも吝かではない。緩い傾斜に身を任せながら、俺は気の赴くままに歩き続けた。
途中にあったベンチに腰掛け、一息つく。
「ホレ、飛鳥」
「ありがとう、助かるよ」
近くの自販機で買ってきたお茶を飛鳥に渡す。飛鳥はペットボトルから手を伝う水滴に目を細め、何かを慈しむかのように微笑んだ。
「ところで、プロデューサー」
「何だ」
俺の肩に体を預ける飛鳥が俺に声をかける。飛鳥はふうと息を吐き、穏やかな声でこう言った。
「……事故があってからボクが目覚めるまでにあったことを、教えてくれないか」
「……」
まぁ、そう思うのも当然な事だろう。今更隠したってしょうがない事だし、もう隠したところで何の意味もない。
「いいよ」
そう俺が答えると、飛鳥は少し驚いた。
「……もう少し嫌がるものかと思っていたが」
「もう隠す理由もねーしな。そのうち話すことにはなるだろうと思っていたし、何も怖がる理由なんて無い」
木の葉の隙間から見える遠い空を眺めながら、俺はそう答えた。
「……なるほどね」
飛鳥はまた別の空を眺めているのだろう。肩に触れる感触が少し左へズレた。
「……」
「……」
重くはない沈黙が流れる。何から話そうか、とぼんやり考えながら、俺は蝉の声を聞いていた。
「──事故の後、飛鳥は昏睡状態だった」
「……へぇ、それは初耳だ」
「だろうな。今まで言っていなかったし、それを気付かれたくないがためにカレンダーから何から引っぺがしたんだからな」
「道理でボクの部屋が無機質な訳だ」
「まぁな。出来ればラジオも渡したくなかったが、流石にそれすらも拒んだら不自然に思われるかと思ってな。飛鳥が日付に気付かなかったのは幸運とも言えるな」
「じゃあ聞くが……ボクはどのくらいの間起きなかったんだ?」
「……今日が何月かわかるか?」
「8月だと思うが……」
「残念、9月だ」
「……そういう事か」
「ああ。およそ1ヶ月、飛鳥は眠ったままだったんだ。このまま起きないかもしれないと思うと、足が震えたよ」
「それは……すまなかった」
「お前のせいじゃねーよ。ありゃ事故なんだ」
「そうか……」
「……すまない、続けてくれ」
「ああ。飛鳥が眠っている間、いろんな奴が見舞いに来たよ。ちひろさん、蘭子、志希、巴、悠貴、ありす、文香、周子、杏、美玲、莉嘉、小梅……思い出せるだけでもこれだけ来た。俺は顔を合わせるのが怖くて病室から逃げていたが、部屋に戻る頃には見舞いの品がどっさりだった」
「……」
「まぁ、ちひろさんとは会話しなきゃいけなかったんだがな。仕事を辞めた後の引き継ぎだとか、見舞い品の扱いだとかを話したよ。保存が利くものは貰っておいたが、そうじゃないものは事務所で配ってくれって言っておいた。他にも色々話したが……ちひろさんは最後まで俺の面倒を見てくれたな。飛鳥をこっちで引き取るって話した時も、何も言わずに励ましてくれた」
「……ずっと鬼だ何だと言っていたのに、どういう心変わりだい?」
「そりゃ仕事の間だけだ。あの人は仕事に関しては厳しいが、素は優しい人だ」
「そうか……知らなかったな」
「で、その後あの家を借りた。大きさの割に家賃が安かったからな。飛鳥を預かるにあたって金が必要だったから、俺の荷物は殆ど売っぱらった。貯金はそこそこあったが、少しでも足しにしたかったからな。前の家も借りっぱなしだから、飛鳥の私物は触れずに置いてあるぞ」
「……何故住処を移したんだい?」
「……辛かったんだよ。『アイドル』としての二宮飛鳥が過ごしていた空間で飛鳥を養うのが、ひどく辛かったんだ。まぁ、お決まりの理由だな。笑いたきゃ笑ってくれ」
「笑えるもんか……ボクには、キミを笑うことは出来ないよ」
「そっか……で、後はご存知の通り。飛鳥が目覚めるまでの間は病室で過ごしてもらって、目覚めてからはすぐにこっちで暮らしてもらってる。言ってみれば、俺は自分の都合で飛鳥を振り回してるってこった」
「……」
「酷い奴だろ?自分のために方方に手を回して飛鳥を騙して……自分でも、これほどまでに酷い奴は知らないよ」
「……そうか」
喋り続けて乾いた喉にお茶を流し込む。ふうと一息つき、俺は飛鳥の方をちらと見る。
「さて、飛鳥に伝えるべきことはこれで終わりだ。他に訊きたいことは?」
飛鳥は何かを考えるように目を伏せている。何を考えているかは、鈍い俺には察することが出来ない。
「──キミは」
暫くの後、飛鳥は小さく口を開く。
「キミは、後悔しているかい?ボクに関わったことを、ボクに巻き込まれたことを後悔しているかい?」
後悔。
飛鳥の口から出てきたのは、そんな言葉だった。飛鳥は俺を巻き込んでしまったことを悔いている。飛鳥がしきりに俺が後悔しているか気にするのは、そういった面からの罪悪感によるものなのだろう。
「……してねぇよ。死んだってするもんか」
俺の回答に、飛鳥はまた目を伏せた。
「──死んだって、か」
「ああ。死んだって後悔なんかしてやらねぇよ」
小さく繰り返す飛鳥に、俺は言葉を重ねる。飛鳥と出会った事を、俺は後悔なんかしない。今までだってしていないし、これからだってしない。
絶対に、後悔なんかしてやらない。
「……酷いやつだな、キミは」
俺の肩にもたれる飛鳥が、そうこぼした。
「だろ?俺は酷いやつだ。覚えとけ」
その言葉に、飛鳥はフフッと笑った。言葉とは裏腹の、満足そうな笑顔だった。
「ああ……キミは、酷いやつだ」
いつ見ても引き込まれるような笑顔。久しぶりに見たその笑顔に、俺もまた釣られて笑顔を浮かべた。
帰り道。ぼんやりと周りを眺めながら、俺は背中の飛鳥に声をかけた。
「ところで、不思議だと思わないか?」
「何がだい?」
飛鳥が少し姿勢を変えたのがわかる。肩ごしに俺の顔を覗き込むような姿勢になったのだろう。
俺は飛鳥の方を振り返りながら言葉を続ける。
「空さ。こうやって葉っぱに透かして空を見ると、何故だか空が凄く遠くて小さいものに見えるんだ。普通に空を眺めている分には何の変哲もない空なのに、こうやって葉っぱが見えるだけで物悲しく感じられるのは何故なんだろうな」
俺の言葉に、飛鳥は少し考え込む。
「さぁ?さっぱりだ」
続いて出てきた言葉に、俺は肩透かしを喰らったような気分になった。
「……随分と早い白旗だな」
「ボクにだって分からないことは沢山あるよ。他人のセカイを覗き見ることなんて出来ないし、ボクのセカイを完璧に共有することなんて出来ない」
「まぁ、そりゃそうか」
けど、と飛鳥は笑う。
「キミの求める答えでは無いのかもしれないが、間違いなく言えることは一つある」
何だ、そりゃ。
目でそう訴える俺に、飛鳥はそっと囁いた。
「簡単なことだよ。──『ボクの見る空とキミの見る空は繋がっている』。それだけさ」
……。
「──違いない」
全てを見透かしたかのような飛鳥の言葉に、胸の奥に引っかかっていたナニカが露と消える。
相変わらず、凄い奴だ。
解ってるようで解ってない、けれど分かってないようで分かっている。本当に不思議だけど、凄い奴だ。
──こんな奴、離れたくなくなるに決まってるじゃないか。
とある決意を胸の中に抱えながら、俺はいつまでも蝉が喚き続ける桜並木を上ってゆく。
もうすぐ秋だというのに健気に喚き続ける蝉たちが、俺の目には何故か眩しく見えた。
《同日 夕方》
「風呂に入りたいんだが」
帰ってきて早々玄関で飛鳥が口にしたのは、そんな言葉だった。
「……風呂?」
「ああ、風呂だ」
事故で怪我をして以来、飛鳥は半身不随だ。当然風呂に入れる訳もなく、普段は体を拭くのに留めていたのだが……
「……それは、俺も一緒に来いって事?」
「?確認するまでの事かい?」
「で、俺に体を洗えって?」
「他に誰に頼むんだい?ボクには背中は洗えないし、一人で服を脱ぐことも出来ないんだよ?……ああ、ついでにボクを湯舟の中で支えてくれると嬉しいな。この体で一人お湯に浸かるのは些か不安だからね」
さも当然であるかのように宣う飛鳥。その顔には何の気負いも恥じらいも無い。
「いや、待て待て……勘弁してくれよ、何かの冗談か?」
「何故冗談だと思うんだ……汗もかいたし、この気候だ。空調のある部屋ならまだしも、この蒸し暑い島国で外に出たら肌がベタベタして仕方がないだろう?ボクはそれが気に入らないから、風呂に入って汗を洗い流したいんだ。外に出たら風呂に入り、汚れ穢れを洗い流す。一種の儀式であり様式、禊や行水みたいなものだよ」
何を言っているんだ、という目でこちらを見る飛鳥。そう言いたいのは俺の方だというのに。
「いやいやそこじゃない。問題はそこじゃない。何故さも当然であるかのように俺がお前と一緒に風呂に入ることになってるんだ?」
「他に頼める人間はいないだろう?」
「そういう問題じゃないんだ……そもそも何でお前は『風呂に入ろう』と思ったんだ。俺と一緒に入らなきゃならなくなるって分かってて尚風呂に入ろうとするのは何でなんだ」
「分かってはいたが、キミも面倒くさいヤツだな……」
何故か憐みの目でこちらを見る飛鳥。これは俺が悪いのか?そうなのか?
「何かボクとキミが一緒に風呂に入ることに問題があるのか?」
「あるわ!大アリだわ!」
何でったってこいつはこうもすっとぼけてるのか……俺はからかわれているんだろうか。
「いいか飛鳥、思い出せ。お前は女性であって──」
「性別なんて曖昧なモノは理由にならないだろう」
「うるせえ分かったよ言い直すから黙って聞け。いいか、お前はいいか生物学上の分類としては雌雄の番のうちの前者、人間でいう『女性』にあたるんだ。そこまでは良いか?」
「……極めて遺憾ながら、まぁそうだな。遺憾ではあるが」
「何で悔しがっているんだ……何となく理由は解るから良いんだが……とにかく、続けるぞ。翻って、俺は『男』だ。『女性』と対をなす種類の人間だ。つまりだな、男と女が一緒に風呂に入るなんてことは問題であってだな……」
ここまで話したところで俺はどもってしまった。
その様子を見て、飛鳥は浅く溜息を吐く。
「キミの説明を聞く限りでは何の合理性も見えないな。ボクのことを馬鹿にしてるのか?」
半眼になる飛鳥。どうやら俺が言いたいことは伝わっていないようだ。
「違う。何というか、常識的にアウトというか、社会的にアウトというか……」
「そんなもの気にする必要は無いだろう。ボクたちを縛る十戒は、決してモーセがふんぞり返って投げつけたような薄っぺらなモノじゃないだろう?」
「さらっと宗教の大事な部分を否定しやがって……ああもう、そうじゃなくてだな……」
ああでもないこうでもないと俺が頭を巡らせていると、飛鳥がふと何かに気付いたかのようにはたと手を打った。
「……ああ、そういうことか」
こいつ……。
「……おい、勝手に納得するな。俺は決してお前をだまくらかそうとしている訳ではなくてだな……」
誤解されては困ると弁解を試みる俺。しかし飛鳥は俺の言葉は聞かずにこう漏らした。
「──照れているのか」
この言葉に、俺は咄嗟に反論することが出来なかった。
「……」
あ、だの、う、だのといった音しか発せなくなった俺を見て、飛鳥はフフッと笑った。
「やっぱりそうか……キミも不思議なヤツだな。普段はやたらとクールで達観したところがあるくせに、こういうところだけはどうにも初心だ。全く、ボクの肌なんかは見慣れているというのに、何でそうも恥ずかしがることがあるのか……」
やれやれ、と肩を竦める飛鳥。図星を突かれた俺は、何と反論することも出来なくなってしまった。
「……うるせ。それとこれとでは話が違うんだよ」
反論を諦め、俺は開き直ることにした。
だってこう、マズいだろう。いろいろと。
「おや、認めるんだね。全く、それならそうと先に言ってくれれば良かったんだが?ボクだって君の気持ちを汲んだ行動をとったというのに……」
「ちなみに訊きたいんだが、もし俺が先にそんな素振りを見せてたらどうしてた?」
「何も言わず洗面所まで連れて行ってもらい、その場でキミを引ん剝いた」
「やっぱり逃がす気無ぇじゃねえか!お前はサメか何かか!?」
「一度喰らいついたら離さない、というのを例えたかったのなら他の例えでも良かったね」
「冷静に分析してんじゃねぇよ!?」
あまりの理不尽に俺は頭を抱える。
いろいろと言いたいことがあるが……やはり、頭が良い奴というのも困りものである。
「はぁ……つまり、俺が飛鳥と一緒に風呂に入るのは確定事項だと」
「言っただろう?ボクは風呂に入りたいんだ。何ならこのまま這いずってでも風呂に向かってやるぞ」
「一人でか?」
「そうだ。当然の結果として、ボクは浴槽で溺れ死ぬ。それでもいいというのなら、キミは着いてきてもらわなくても結構だよ」
「さらっと恐ろしい事言ってんじゃねえよ。風呂に入るための決意が悲壮すぎるわ」
またもやいやい言いあう俺たち。何日も会話が出来ていなかったのが嘘のような光景だった。
その後、俺は飛鳥を背負って風呂場に向かった。どうやら抵抗しても無駄なようだし、それならしっかりと飛鳥のことを見ていてやらなければならない。俺は諦めて飛鳥の体を洗ってやることに決めた。
──もう、いいのだろうか。
「はぁ……やはり、風呂に入ると気持ちがいいね……」
「……」
「浮力というのは不思議なものだ。F=ρVgという方程式で導き出される力以上に、浮力というものには特別な力があるように感じられるよ」
「……」
「ひょっとしたら、『体に重力以外の力が働いている』という感覚自体が人間にとっては新鮮なものなのかもしれないね。普通に生活していると、こういった感覚を得ることはまず無いからね」
「……」
「ボクたちが浸かっているのがお湯であるというのも、理由のひとつかも知れないね。古くから伝わる医学では、体を温めることが万病の薬であるとされることもあるくらいだ。温度というのもまた見逃せないファクターなのかもしれない」
延々と達者な口を動かす飛鳥の声を聴きながら、俺は努めて無心でいるようにしていた。
俺は今、湯舟の端に背を預け浴槽の縁に手をかけて上半身を起こしている状態だ。ごく普通の入浴の姿勢を思い浮かべてくれれば概ねそれで合っているだろう。俺の胸元あたりには、俺と同じ方向を向いている飛鳥の頭がある。飛鳥は今、背中を俺に預け両手を俺の膝に置いて体を支えるような姿勢だ。要するに、俺と飛鳥は湯船の中で密着した状態だという訳だ。
──俺の心臓がどんな動きをしているかは、言うまでもないだろう。
「……?どうかしたのかい?何だか随分静かじゃないか」
じっと無言でいる俺を訝しんだのか、姿勢は変えないまま飛鳥がこちらに声をかけてくる。
「……そういうお前は、何時にも増して饒舌だな」
若干疲れた声で吐き出された俺の文句に、飛鳥は少し笑ってから応える。
「それはそうだろう。何せ久しぶりにいい気持ちなんだ。これで頭痛と怠さが無ければ最高なんだけどね」
「ホントに体調悪いのか?お前……」
「何なら後で体温を計ってみるかい?かなり高い温度が出るはずだよ」
「そりゃ風呂入った後だからな。当たり前だろ」
そうだね、と飛鳥は再び笑う。本当に、ご機嫌な様子だ。
「で?いつ出るんだ?」
鼻歌でも歌いだしそうなくらいに機嫌の良い飛鳥にそう声をかける。
正直なところ、このままでは俺が先にのぼせてしまいそうだ。俺がのぼせてしまったら二人そろって命の危機なのだから、一応伺いは立てておくべきだろう。
「ん?そうだな……いっそ、このまま二人でのぼせるまで一緒にいようか」
不思議なくらい明るい声で言う飛鳥。
その語調は、誰かを買い物に誘うくらいの軽い調子だった。
「冗談じゃねえ。二人してのぼせてたら誰が助けに来るんだ?」
ややげんなりした声で俺がそう問うと、飛鳥は真面目なトーンでこう返してきた。
「誰も、だね」
──飛鳥は笑いながら続ける。
「……でも、それも悪くないね」
「……そうか」
特に何も言うことなく、俺はそう答えた。
「……」
「……」
あれだけ言葉が反響していた浴室が不意に静まり返る。
ぽたぽたと垂れる水滴の音だけが心地よく響く。
「……なぁ、プロデューサー」
饒舌さを仕舞い込んだ飛鳥が、神妙な調子で切り出す。
「……何だ?」
特に緊張することもなく、俺は返事をする。
「──プロデューサーはどう思う?」
どう思う、とは……まぁ、聞くまでもないだろう。
軽く鼻からふっと息を吐き、俺は適当にこう返した。
「いいんじゃねえの」
「……」
その言葉には反応を示さず、飛鳥は再び黙り込んだ。
後ろ姿からは様子を窺えない。が、俺の膝を掴む飛鳥の手はほんの少しだけ強張っていた。
……俺は下手を踏んだのだろうか。
「……プロデューサー」
俺が内心焦っていると、暫く黙っていた飛鳥がふと振り向いた。
「──ありがとう」
その表情はとても穏やかで、満ち足りたような──罅割れた表情だった。
「……おう」
……どうやら俺は、間違えなかったらしい。
暫くの間ぼんやりとしていたら、いつの間にかそこそこ時間が経っていた。このままだと本当にのぼせてしまいそうなので、俺は風呂から上がることにした。
「……さぁ、そろそろ出ようぜ。長風呂も体に良くないからな」
立ち上がるため、足の間にいる飛鳥にそう声をかける。
──飛鳥は、無言だった。
「……」
「……飛鳥」
もう1度声をかけると、飛鳥は少し遅れて反応を示した。
「……ああ、そうだね」
「……」
返ってきた微妙な反応に、俺はふうと息を吐く。どうしたものか。
ともあれ、このまま放っておいてものぼせるだけだ。とりあえず飛鳥にも風呂から出てもらおう。話をするなら
そう考え、立ち上がろうとした時だった。
「──ボクは……キミに寄り掛かってばかりだ」
飛鳥が、どこか悲しそうに呟いた。
──ああ、そういう事か、と。
俺はその一言で、飛鳥が言わんとしていることを、飛鳥が求めているものを察した。
──今の今まで飛鳥が確認し続けた俺の意思を、ここで明確に言葉にしてやらなければならないのだと。
俺は、そう理解した。
俯いたまま──とうとう隠しきれなくなった澱みを瞳に映しながら、飛鳥は言葉を続ける。
「……ケガでキミに頼りっぱなし、というのもある。何をするにもキミの助けが必要で、キミがいなければ風呂に入ることすらできない。……けど、本当にボクが『寄り掛かってばかりだ』と感じるのは──キミの優しさに甘え続けている点だ」
──甘え続けている、か。
俺は何も言わず、続きを待つ。
「ボクはキミがいなければ何かに立ち向かう事も出来ないし、キミがいなければ死ぬことも出来ない。本当に、弱いヤツだと思う。これからボクのわがままにキミが巻き込まれるのかと思うと、情けなくてたまらない」
独白を続ける声は、震えていた。
俺がよく知ったナニカに、震えていた。
「だって、おかしいじゃないか。ボクが弱いせいでキミまで巻き込まれるだなんて、ボクのわがままのせいでキミまで巻き添えにするなんて、おかしいじゃないか」
──ああ。俺は、この思いを知っている。ついこの間まで、俺と飛鳥が二人して苛まれ続けていた思いだ。
何があろうと消せない、「罪の意識」だ。
「ボクは、やはりボクを許せない。今までキミにしてきてしまった事、キミに強いてしまった不幸を思い出す度に途轍もない後悔に襲われるんだ。『何故ボクがキミに関わってしまった』『何故キミを巻き込まなければならなかった』、とね」
恐らく今日の外出などは全て、「心残り」を消してゆくためのものだったんだろう。これから死のうとしている人間が歩く、死出の旅路だったのだろう。
「でも、いくら自分を責め立てたところで腐りきった根はどうしようもなかった。言ってみればこの結末は運命に定められた『必然』なんだ」
──やはり、飛鳥も俺と同じだ。
俺と同じで、相手から受け取るある一言を求め続けているのだ。
肩を震わせながら、飛鳥はこちらへと向き直る。自由の利かない体を無理やり捻り、こちらへと体をすり寄せる。
俺の腕に、胸に、柔らかな感覚が生まれる。
「──ボクはもう、この世界で生きたくない。このまま罪の意識に身を灼かれながら生きるなんて、ボクには無理だ」
これは──「懺悔」だ。
自らの罪を告白し、赦しを求めるための儀式だ。
「償いを放棄するなんて、と謗られるかもしれない。けど……ボクにはもう、無理だ。限界だ……──」
ボロボロと涙を流しながら、傷だらけになってしまったセカイを抱えながら。
飛鳥は。
「──プロデューサー、……──」
俺の頬に手が伸びる。
細い指先が、俺の顎をなぞる。
「このボクを──」
耳元に寄せられた唇が、かすかに戦慄く。
震えた息が耳を撫でる。
「……、どうか──」
飛鳥が息を引き攣らせる。
ひぐっ、と、堪えきれなくなった嗚咽が響く。
一瞬躊躇う飛鳥。
俺は何を言うでもなく、続きを待つ。
「──どうか、この……ボクを──」
「──殺して、くれないか──」
その言葉を絞り出した飛鳥は、糸が切れたかのように泣き始めた。
「─────ぅ、あ、ぁ……はぁぁぁ、ぐずっ、ああああぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁぁぁ────────ッッ!!!」
──俺に出来たのは、飛鳥の背中を撫でてやることだけだった。
二ヶ月前に刻まれた消えぬ傷跡を残すその背中は、セカイに裏切られた少女が背負ってきた「罪」を受け止めるにはあまりに小さすぎるように思えた。
年相応に泣きじゃくる14歳の少女を腕に抱きながら、俺は言葉をその耳元で囁いた。
「頑張ったな、飛鳥……」
「──飛鳥の願い、受け取った」
「その代わり……俺の願いも、聞いてもらえないか」
「──」
首肯。
「そうか……ありがとう」
「──飛鳥。どうか、お前の手で──」
「──俺を殺してくれ」
「──」
──首肯。
「──、ありがとう、飛鳥……」
俺達は、分かっていた。
飛鳥が/俺が、「殺してくれ」と願っていることを。
俺達は、知っていた。
飛鳥が/俺が、自分自身を許せずにいる事を。
お互いがお互いに依存しあい、そして傷付けあって。
離れたいけど、離れたくなくて。
そんな葛藤に心を押し潰され、何も出来ない雁字搦めになっていることを、俺達は知っていた。
ならば、求めることは一つだろう。
これは、予定通りの──運命通りの結末だ。
無機質な砂漠が、世界の果てまで広がっていた。
どちらに進んでも同じ景色が広がる世界は、俺達の行く手にのっぺりと広がる。
覚悟なんていらなかった。
覚悟するまでもなかった。
予め分かっていた必然なのだから。
──これは、俺達が望んだ景色なのだから。
ちゃぷん、とぬるくなったお湯が音を立てる。
時折思い出したように滴る水滴の音を聞きながら、俺はぼんやりと宙を眺める。
「なぁ、飛鳥──明日は、何をしようか」
飛鳥は俺に縋り付きながら、細く呟く。
「──何でも良いよ。キミとなら、何でも」
俺は、そうか、とだけ返した。
死出の旅路は、もう少しだけ続く。
(終章へ)
三部構成、ですよ。
劇は三部構成です。……カーテンコールは、物語に必要でしょう?