夜の始まり
オリヴィアが登校拒否を始めてから30日程して無事復学をした。
最初の20日程は実家に籠っていたのだが、居場所をノヴァエスに移してからは復学に当たり10日ほど徹底してノヴァエス式勉強法を叩きこまれていた。
オリヴィアはその年で学院に入れるくらいレベルが高かったのだが、レオンハルトではそこに入るまでの実力しか学んでないようだった。
よって今現在。
普通の生徒と何ら変わらない程度かつ少し優秀な能力しかなかった。
オリヴィアの年齢の中に入ればだんとつとした知識なのだが、学院の中に混ざってしまえば同レベルの普通。
それと判りきった事だが、オリヴィアは致命的なまでの体力不足が足を引っ張り勉学が少し疎かになりかけていた所だった。
体力的な所はアルトが使用人に命じて技術でカバーするように、そしてまた別の使用人が徹底して勉学を教え込んでいた。
唯一の救いはテーブルマナーを始めとした社交的なマナーも含めてオリヴィアは家令にそのまま精進するようにとの言葉だけで終わらせてみせた事だ。
そこにはアルトもジルもブレッドも感心したが、その部分を苦手とするランはそーっとその場を逃げようとした所でティルルに掴まり、オリヴィアを見習ってしっかりと学ぶのよと無言のまま睨みつけられるのだった。
あまり知られてない事だがティルルはヴィン同様おっかないご尊顔をしているがれっきとした女の子だ。
そう言う所は妖精の知能の高さゆえに気になるらしい。
もっとも知識の部分はブレッドによって過剰なまでに叩きこまれているが、知識は荷物になるわけでもないので周囲は微笑ましくだまって見ているにとどまっている。
オリヴィアの生活で変わったと言う所は我が儘が通用しなくなったと言うのが一番の違いだろう。住いが変われば仕方がないと言う物なのだろうが、それでも朝はベットで起きる前には部屋の片隅に世話係がすでに待機しており、夜はベットに入って明かりを消すまで世話係が部屋の片隅に控えている。
最初こそ何もそこまで監視しなくてもと辟易していたオリヴィアだったが、あまりのハードな日々の繰り返しに、もう世話係が居ようが居ないが構わないようになった。
慣れたとも言う。
ちなみにレオンハルトの家ではメイドはオリヴィアと一緒の部屋にいる事は出来ず、専属の執事のみがオリヴィアに直接の世話係となっていた。
着替えとて専属の世話係、俗にいうばあや(と言っても既婚女性なだけだが)が世話をするのみ。ノヴァエスであてがわれた専属の世話係はいわば監視と護衛を兼ねた世話係なのだ。俗にいうメイドではない為拒否権はオリヴィアにない。
「次期当主にメイド如きが声を直接かけれるわけないだろう。
そんな事をする者は即刻クビだ」
「メイド如きが当主相手に姿さえさらす事も許されるわけないですわ。
そのような教養の低いメイドを雇うお家なみっともなくて知り合い何て言えないわ」
アルトもオリヴィアもメイドと言う地位をそう評価する。
対面できるのはメイド長のみ、もしくはメイド長を挟んでの対面のみ。勿論直接の会話は許されるはずもない。
世間一般に広まる物語に描かれているメイドとご主人様の甘いラブロマンスは厳格な社会の中では伝説の出来事のようでこの家はそう言う世界だった。
もっともそこまで徹底できるのはよほどのお家の話しなのだが、悲しい事にこの二人はそんな家に生まれ、実行するだけの資産と地位を持つ代表格。
ランはへーとその話を聞くも、小間使いとして働いているブレッドの家での自分の立場はどんな立ち位置なのかと考えていたようだが
「ランは立場上はうちの使用人だが、食客として扱っている。
使用人になるのは学院を卒業してからだ」
「卒業後はどのような立場に?」
「俺の護衛で充分だろ」
「私とヴィンがいて過剰防衛になりませんか?」
「護衛は一番使い勝手がいいんだ。
それに当面はブレッドの世話係でも十分だろうし」
「ブレッドの巣での飼育係なんて、一番過酷な環境じゃないですか」
「まぁ、それをこなせる才能はあるみたいだから適材適所だろ」
「お前ら、人を何だと……」
お茶を囲みながらオリヴィアはこの環境を学び、慣れるように努めている。
使用人が同じテーブルでお茶をするのはどうだろうと最初こそ思ってはいたが、同じテーブルを囲むのはこのメンツのみ。
そこにオリヴィアも混ぜてもらっていると言う状況だから文句は言えない。
「所で、学校で噂を聞くようになりましたが戦争……が間も無く起きるとか……」
オリヴィアの呟きに明るい食卓は一気に沈黙が広がった。
今きりだすタイミングじゃなかった。
どう言う事なのとランはアルトの顔を見るが
「まぁ、まだ心配する事はない。
ウェルキィ襲撃の一件についてレオンハルトがガーランドと交渉をしていると言う物だ。
ガーランドが一々喚くのは今に始まった事ではない」
「そうでしょうが……」
オリヴィアの心配はそこにはなかった。
初めて権力らしい権力を持った父が、それを玩具のように振り回すのをここ数日の学校生活であまりに目撃をする機会に出会ったからだ。
その力は軍部にまで及んでいて、軍が来ての訓練の中それを見た。
レオンハルトの力が及ぶ部隊だろう。
ランを囲んでの数人による訓練と言う名の暴力を。
剣を構えさせて攻撃を許さずひたすら耐えろと言う物。
もう訓練でも何もない。
助け出そうとしようとして押さえつけられている者もいるし、目を背けて涙を流している者もいる。
これはもう訓練ではないと言って訴える者もいるし、見て見ないふりをする教師もいる。
それにラン自身も下手に口出してとばっちり来るといけないからと言って黙って耐えろと言う始末。
レオンハルトに戻る事に危険を伴う為に馴染の出入りの商人に祖父に手紙を渡るように頼むも、祖父から来たのは既に当主の座は譲られた。何も力になってやれなくてすまないとの謝罪。
「学院も地に落ちた物だな」
「そうですか?学院なんてこんな程度でしょう」
学院の闇を知り尽くしているジルはアルトに直訴したオリヴィアに今更簡単に変わるわけありませんよとのほほんと述べるも、その視線は今まで見た事ない暗い鋭い物。
誰もが闇を抱えているように、人のよさそうな顔の内側には計り知れない闇を抱え込んでは全く人に気づかせない辺りアルトに恐ろしいと言わせるゆえんだ。
ここ数日の物騒な会話が学校に異常な空気を孕ませ、街中もどこか剣呑とした空気が流れていた。
世間がこんな状態の中沈黙のまま腕を組んで部屋の片隅にいる男の静かさが不気味だが、オリヴィアはランと学校の帰り道で別れてシェムエルの森に行っている。
あの三人組が一緒だから心配はしないが、最近学年をまたいでランと一緒に森に足を運んでいた連中は静かにこの異状過ぎる状況に見守る体勢に入ってしまった。
つい先日までランとオリヴィアの話題で湧き上がっていた学院も今は鳴りを潜めて不気味なくらい静まり返っていた。
「で、今日のランの怪我の具合は?」
「そんなの1つでも残しておけるわけじゃないだろ。
暴力だって、一応痛みはないように術は掛けてるし、体にダメージはない」
「そう言う問題じゃない。
そう言う目にあってるのを見て良く黙ってられるな」
「ああ、まぁ、ランからも訓練だからって目立った場所に出てくるなって言われてるし、腹は立っても今は手は出すなってシュネルからもうるさく言われてるしよ」
獣の姿なら耳とひげとしっぽをしょぼんとさせているだろう男は今は耐えるしかないだろとぶちぶちと言う。
「お前らの言いたい事も判るが、今の俺はランの言う事が絶対だし、シュネルの言う事の方が優先順位が上だ。
それにまだおっかない奴らだって動いてないし、俺達はまだ様子見の状態を保つしかないんだよ」
「おっかない奴って一体……」
「知らねー方がいいって言う奴らだ。
まぁ、命に関る事にはさせないだろうし、ランは助けを求めないけど、今度は容赦なく介入するつもりだ」
「助けを求めないって、ランは何故貴方達に助けを求めないのです?」
オリヴィアの言葉に、彼女との森での一件でもそうだった事を思い出してきけば
「ランが育った場所は特殊すぎる場所でよ。
助けを求めれば弱者として切り捨てられるそんな場所だったんだ。
生まれた国自体不安定な場所で民は産まれながらに国の奴隷って言う場所なんだ」
奴隷。
その言葉に誰もが言葉を失う。
「まぁ、感覚では平民なんだが、国は民を面倒見る事が出来なくて、戦争で奪われ奪い、奴隷は金銭の代わりに差し出されたり奪われたり、牛や馬程度の労働力なんだ」
何てこと……
オリヴィアの絶句に誰もが息を呑みこんでその話に黙って耳を傾ける。
「大人の男性は総て労働として奪われ、残された女子供は小さな集団を作って生き延びていく。
その中での男は労働力として片道数時間の水場まで水を取りに生かされたり、狩りに行かされたり、大人の男性と同様の労働を求められる。
女は家で食事の準備をしたり、戦争で犯されて生まれた子供を育てたり、やがて労働力になる子供を面倒見たり、年頃の少女をいつでも生贄じゃないけど自分達の命の代わりに差し出せれるように育てたり、わずかな食糧の為の交換物資として面倒見たり、そりゃこの国で過ごしてればびっくりな所だったんだ」
さすがに唖然とする。
ランからどんな国かは聞いた事あったがそこまでは話を聞いていなかったから。
「じゃあ、ランも危ない目に?」
聞いてもいいのかと思うも思わず口に出したオリヴィアにフェルスは当然とした顔で
「男児が成長できるのは女児に比べても数は少ないんだ。
つまりは何度だって殺されかけた事もあるし、生きる為に殺しても来た。
そりゃひどい目にもあったし、ぼろ雑巾みたいになって転がっているのを何度だって拾ってきたさ。
そんな国で育ったから、まぁ、あの『訓練』とやらはまだ生ぬるい所なんだと考えてるんだよ俺のご主人様は」
言って手にしていたグラスを握りつぶして床に叩き付ける。
当時を思い出してかフーッと息を零しながら
「10才で成人の国だ。
10才になって国に取り上げられて採掘場で仕事を与えられて一日二回の食事にようやくましな環境、床の上で寝る事が出来るようになって、どれだけ俺達がホッとした事かお前らは理解できるか?」
「も、申し訳ありません」
想像もつかない恐怖にオリヴィアは身をふるわせるなかフェルスの表情はそれでも少し和らぐ。
「採掘場の連中とランとの馬が合ったんだ。
親方がランを気に入ってあれこれ世話をしてくれるようになった。
当然それを面白くないと思う奴もいたが、なんていうか、ランは目がいいって言うのか、仕事場ではランは謎なくらいの才能を発揮してな。
想像以上の働きぶりをしてくれて貴重がられたんだ。
それを理解できない奴らがランを苛めようとするが、当然親方達は先回りしてランを保護にあたる。
俺達も感心してる中、続く嫌がらせに親方の方からそいつらに報復に出たんだ。
採掘場ならでわの落盤事故に巻き込んでそいつらを洞窟内に閉じ込めて放置したって言うおっかない方法でな」
ぞっとしつつもそれでいいのかとアルトが呻く中
「あんな危険な仕事で足を引っ張る奴はいらないって方針の親方だった。
ランのおかげで楽をしながら儲ける事が出来るなら重用するのはどっちか考えるよりも簡単な話だろ?ランも働けば待遇が良くなるって事を理解して一生懸命働いて親方たちの家族……達も集団で助け合って暮らしてるんだが、その中にランも招き入れられるようになったんだ。
もちろん子供の頃過ごしたクズの連中の中じゃなく、ちゃんと一日に二回、しかも大人並みに食事を出してもらえるようになった挙句、家の中に寝床を用意してもらえたんだ。
ランだって休みの日は積極的に手伝いをして、怯えたような顔をしなくなったのはその頃になってようやくだ」
ここでは笑ってる顔しか見た事が無いと言うように笑っているランしか知らない顔ぶれはフェルスの言葉に眉間を潜めてしまえば
「ああ、ああ見えてランだって友達が欲しいんだよ。
友達が欲しかったらいつも笑顔でいろってアドバイスした奴がいてな、あれでも一生懸命笑顔でいるつもりなんだよ」
俺達はそうやって笑ってられる環境を整えるのが仕事なんだとフェルスはいう。
所々複数形になる所にシュネルとフェルス。後は何だと思う中、ノヴァエス家の家令がノックをして返事を待つことなく慌ただしくアルトに一通の手紙を差し出した。
騒がしい。
不愉快気に眉間を寄せながらも黙ってその手紙を見てアルトは席を立ちあがった。
「一体レオンハルトは何を考えてる!」
その叫びにオリヴィアは肩を震わせ、アルトから差し出された手紙をブレットもジルも覗きこんで机に握り拳を叩き付けるのだった。
机の上に広げられたまま置いてあった手紙をオリヴィア拾い上げて、読み上げるも途中からもう声にならなくなってしまった。
「お父様、なんて事を……」
力なく床に座り込んで机にもたれて涙を流した。
手紙には先日の事の顛末が書いてあった。
―――捕虜として返還された兵の遺体には目を疑うような傷の数々、
とても戦闘で付いた傷とは到底思えないその処遇、ガーランド国はレオンハルトに抗議を決行する事とした。
そう始まった書き出しに、多少の擦過傷は在れど、争った中で負った傷もジルが治療にあたった事は各軍、騎士団の誰もが見て、確認して知っている事だった。
それからのウェルキィの一件の後、その捕虜の面倒を見たのはレオンハルトで、あの後想像を絶する事があの領地の中で起きていた事を今になった知る事になった。
「敵味方両方ともに死者はなかったんだぞ……」
家令に命じて騎士団の制服を用意させる。
そしてオリヴィアを見てから、家令に
「ランは今日ここに寄る事になってる。
オリヴィアと二人をこの屋敷で保護しろ。
当面の安全を兼ねて学院には行かせる必要はない。
暫く俺達は帰る事が出来なくなるだろう」
「承知しました」
執事に命じて三人の準備をさせ、メイド達にランの部屋の準備をさせる。
「フェルスはレオンハルトの動向に注意してランを守ってくれ」
「言われなくても」
その返事を聞いてあるとはこの部屋に入る面々の顔を見て項垂れる。
「どうやら俺はウェルキィの力に目がくらんでいたらしい。
保護してたつもりだったが、相当の怒りを買ったようだ。
この戦争の発端はレオンハルトだが、ノヴァエスが生贄に差し出される事だろう。
総ての責任を押し付けられて、この屋敷にいる人間も総てどうなるかわからない状況になるかもしれん」
「そんな、いくらなんでもお父様がそんなこと……
お爺様もまだ健在ですし」
言いよどむオリヴィアにブレッドが口を開いた。
「伝えようか悩んだがお前の所の家令が不慮の事故に遭ったそうだ。
お前の専属の馭者がいたよな。そいつの馬車に乗っていた所を賊に襲われたと言う。
レオンハルトでは家令とは言え専属の馭者がいて、それ以外に乗る事はない。つまりはそう言う事だ」
「嘘よ……」
「ティルルがラフェールのウェルキィから聞いた話だそうですが、あの家は今相当危険な状態だと。
先代レオンハルトを北の塔に幽閉したそうです」
「お爺様をなんで!」
「前に言っただろ?当主になりたければ弑してもその座を奪えと。
どの家の当主の座よりも深く血を吸ったレオンハルトなら当然と言う物だ」
「お爺様……」
バレット
アルトは家令の名前を慎重に呼んだ。
何でしょうと無言のまま、その体ごと向けた顔を暫くの間眺めながら
「考えが変わった。
ランをこのノヴァエスから解放しろ。
学院にもいますぐ退学届けを出せ。
暫くの間の金を持たせて、そうだな。
まずはイエンティにある隠れ家に身を潜めるように伝えろ。
あそこならいざとなったら隣国のウィスタリアも近いしさすがにレオンハルトもそう簡単には手出しは出来んだろう。
ラン一人の足ならどこにでも逃げれるし、今はフェルスもいる。ここにいるよりもよっぽど安全だ。
状況が酷くなるようならその前にランを連れてウィスタリアの方に逃げてくれ。あっちにも隠れ家があるから、そこを使ってもらえると嬉しい。
最近シュネルを見かけてないが、まぁ、契約してる以上ランを見つけられない事はないだろう。巻き込んですまないと謝っておいてくれ。
オリヴィアには悪いがランを逃がす為の時間稼ぎをお願いしたい。
俺の婚約者と言う形でこの屋敷に留まっているのが一番自然だし、ラフェールが狂ってるとは言えども最悪はないと信じたい。
最悪の手だがアレグローザに手紙を書く。早馬で手紙を届けてくれ。
オリヴィアの命だけは助けてもらえるよう助力を願おう。
戦争では女の子が一番ひどい目を見る。どう言う事かわかるだろ?
下手に逃げるよりもここで堂々としてる方がオリヴィアには安全だ。
レオンハルトと言えどもアレグローザなら簡単には手は出せないだろうから。
ブレッド、お前からも一筆頼む」
「私の父と兄の凶行、私でよければいくらでもお手伝いします。ですが!」
「ランには笑っていて欲しい。
友達なら、家族ならそう願うのが当然じゃないのかな?
それがどこに居ようとも、どれだけの距離を置こうとも、そう言う物だと俺は思う」
つい数分前に聞いたランの生い立ちと、友達が欲しくて懸命に努力していたという笑みを思い浮かべて涙が零れ落ちる。
友達の故郷を見たくて故郷を捨てて、物を知りたくて毎晩遅くまで勉強をして、練習した笑顔でもやっとできた友達の為に自然に笑顔が出来るようになったのに。
総て戦争が奪い去ってしまった。
「ランが帰って来るまでには少し時間があるだろう。
別れを言うつもりはないから準備出来次第行くぞ」
「はい」
「ああ……」
「バレット、悪いがランを逃がすために後を頼む。
総ての恨みをあんな小さな体に受け止めさせない為にも」
殊更ランを大切にしていたブレッドは唇を噛みしめてこの展開に怒りを静かに拳に貯める。
それから半刻もしないうちに三人は馬車に揺られてノヴァエスの屋敷を後にしてしまった。
あまりにあっけない別れにオリヴィアは泣き崩れ、この元凶でもある父と兄を呪い、そしてこの屋敷で働く者達に謝罪の言葉を述べ続けるのだった。
ここにきてわずか10日と少し。
レオンハルトではついぞ感じる事が無かった家庭的な安らぎを知ったオリヴィアは、この家の使用人がどれだけ主に愛されているかを身を持って知った。
当主たる姿も目の当たりにして何度も足を止めてハッとする場面にも遭遇した。
自分の出来る事はほとんどなく、代償に差し出されるものはこの身一つでも安い物。
泣き崩れている間に何も知らないランの大きな声明るい声が「ただいま」と屋敷に響き、その声を聞いてオリヴィアは自分と変わらない身長のランの胸に飛び込んで事の顛末を総て打ち明けるのだった。
「うそ……」
顔を真っ白にして、躍動に満ちた瞳は虚ろなまでに何も映さず、確認するために伸びた手はフェルスの服を掴むも、沈黙を守る事でオリヴィアの説明が真実だと告げた態度を見て、ランは踵を返す。
「僕行かなきゃ。
アルト、ジル、ブレッドに戦争なんてさせちゃだめだ」
ふらふらと、今にも倒れそうなくらい血の気のない顔をしたランを背中から抱き留めてオリヴィアはいっちゃダメとランを止める。
だけど引きずりながらも進もうとする体の前に家令が立ちふさがる。
「バレットさん。僕……」
「旦那様からのお願いです。
どうかアルトゥール様の言葉を聞き入れてやって下さらないでしょうか」
アルト以外に頭を下げた事のないバレットの頭を深くまで下げたその姿勢に、この国の文化に疎いランでもその意味を知っている。
主人意外に頭を下げる事のない家令のすべてのプライドを脱ぎ捨てての願い。
命を差し出すにも等しい行為に言葉を失くすもランはオリヴィアの手を振りほどいて「ごめんなさい」と一言残してバレットの横を通り過ぎて屋敷を飛び出した。
次第に小さくなる姿をフェルスの視線は追いかけながら、願いを聞き届けられなかった家令とオリヴィアに溜息を落とす。
「そんな事でランを止められるとは思ってなかったくせに」
「これでも足止め、とでも言いましょうか。止まってはくれませんでしたね。
私の予想ですが旦那様が隊舎に着いた早々出立の合図が出るのでしょう。
すでに準備を始めていると言う噂は耳に入ってましたから。
向こうは季節がら全面戦争でも仕掛けてくるでしょう。
今回の一件は先鋒の役目を担ってるはずです。
ここ数年戦争もなかった為に向こうは準備も万全でしょう。
旦那様もまだまだ考えが甘くて我々も気が休みません。
ですが、ラン坊ちゃまがいらっしゃってから、ヴァレンドルフ様は穏やかになられましたし、アクセル様も年相応に笑って見せるようになりました。
何より旦那様がこんなにも人に気を掛けるようになったのもラン坊ちゃまがおいでになってからで、我々とてこんな事が別れの切口にさせるわけには行けません」
足掻いて見せますよ。
昨日までの平和を取り戻すためにも。
そう言いながらヴェルナーと一人の執事見習いの男を呼び寄せた。
「旦那様の義理の弟君になります」
ぺこりと頭を下げた男にフェルスは鼻をつまむ。
「妖精に嫌われたな」
「継承問題の時に妖精を殺してしまった所を見られてしまって」
悪びれる事無く言う男に最大限に注意を払えば
「大丈夫です。ヴェルナーにはウィスタリアの魔術師に呪いを施されております。
アルトゥール様と、アルトゥール様の愛されているすべてに害をなされないようになっております。どうかこれをお使いください」
「道理で。妖精に嫌われた割には異状に臭いと思ったら死の呪いを受けてるな」
呆れたと言うフェルスにさすがですと家令は誉めるも、死の呪いの魔法と言う、この国にはない魔法の恐ろしさにオリヴィアは口元を両手で隠し小さな悲鳴を上げる。
「イエンティの屋敷もウィスタリアの屋敷の場所も総て知っております。
呪いの性質上アルトゥール様に不利に働く事は一切できません。
それがラン坊ちゃま相手でも、です」
「ま、不利有利だろうが、俺のランに変な事考えた瞬間に殺すつもりだからその点は心配ないがな」
ヴェルナーは怯えもせずに笑みを絶やさないまま慇懃に頭を下げてよろしくお願いしますと言うだけ。
「とりあえずランと合流しよう。
嬢ちゃんをよろしく頼む。
帰って来た時何かあったらランが悲しむからな」
「承知しました」
深く頭を下げる家令の横を通り越してヴェルナーを連れたフェルスはランの匂いを風の中から嗅ぎ取って足を進めるのだった。




