澄み渡る言葉の数々
オリヴィアが剣を振りおろし、体が引き裂かれるその瞬間は一向にやってこず、ゆっくりと瞳を開き、オリヴィアが躊躇って剣を振り下ろすのを止めてくれたのかと期待するも、予想外の光景がそこにはあった。
根元よりぽっきりと折れた剣を振り下ろしたオリヴィアは、初めて人を殺したと言う恐怖の中に居るように座り込んでいた。
だけど、ランはどこも痛くもなく、それどころか、剣の刃の部分はどこに行ったのかと恐怖で固まった筋肉をゆっくりと解すように左右を見回す。
そうすれば遥か先にその刃が落ちているのが見えた。
何故あんな所に?
暫くして四本の光の帯が森の奥へと走って行くのを見つけて深く息を吐き出した。
生きながらえた、その事に安心してかどっと汗が噴き出す中、四つん這いになりながらオリヴィアからゆっくりと離れ、森の暗がりから現れた姿を見て何かがこみ上げる。
「間に合ったか……
みんなよくやってくれた」
「探しました!大丈夫でしたか?!」
「大丈夫……みたいだな」
「って言うか、何でこんな時なのに俺を呼ばんのだ!」
その声の元に誰もが視線を投げる。
突如現れたブレッドとアルトとジル、そしてフェルスの姿を見て安心の悲鳴と両目からも涙がついに溢れだした。
「ああ、怖かったな。もう大丈夫だ」
ブレッドが差し出した両手に四つん這いのままその腕の中にすっぽりと収まった。
もう大丈夫と言うように光の帯の正体達が二人の周りをふわふわと飛びながら、ランの癖のある髪をもう大丈夫と撫でつけている。
ぎこちなく首を巡らせたオリヴィアはランを助けに、そして迎えにきたブレッド達を見てさらに涙を落とした。
「私には助けに来てくれる人だって居ないのに……」
持っていた剣だった物を手の中から滑り落とし、幼子のように泣き散らかす。
その哀れな姿に誰もが声を掛けようとするも、先ほどの姿に怯えて躊躇っている中、その目の前にアルトゥールが立つ。
膝まづくと言うような光景を誰もが見守っていれば東北を守護する八家ノヴァエスの当主は静かに口を開いた。
「味方は居ただろう?
お前の身を案じて家令が馭者に命じて私に助けを求めてきた。
少なくとも今、レオンハルトで一番信頼できる人物にお前はまだ守られている事を理解しろ。
そして、今のレオンハルトでお前の為に駆け付けた馭者に感謝しろ。
ついでに八家の当主として言わせてもらおう。
そんなにレオンハルトの当主になりたければ兄を殺し、父を殺せばいい!
自分の手で殺すのを躊躇うな下僕に命令して父と兄を拘束してどこぞの塔にでも幽閉すればいい!
俺みたいに親を僻地送りつけて監視させるのもいい!
四公八家の当主の座は既に血に染まりきった場所だ。
そんな覚悟も手腕もない人間が当主になりたいなんてよくぞ言えたな!
その為のノウハウはお前の中にはもうあったはずだ!
お前が生き残れるようにレオンハルトに叩き込まれただろ!
お前の役目は無事生き延びてレオンハルトを継ぐ事にあったはずだ!
それなのによくもランを巻き込んでくれた。
親さえ飼い殺しにしている俺の誓いの1つをお前に教えておく。
俺は俺が選んで残した家族だけは裏切られても守ると誓った!
お前がレオンハルトになっても守るべきものはあるのか?
守るべきものを持たない者を、信じる物を持たない者を誰が主と呼ぶか!!!」
いつの間にか訪れていた暗がりの中での激高がオリヴィアの心を震わす。
ゆっくりと顔を持ち上げ、その両の目からは先ほどと違った意味を持つ涙があふれ出す。
答えを持ち合わせないオリヴィアは答えを見つけようと喘ぎ、そして何もない事に気づいてかギュッと唇を噛みしめて、再び、今度こそその通りだと項垂れた。
「私は一体今まで何をしてきたのでしょう……」
誰に問うたものではなく、寧ろ自分に向けた問いだろう。
その中でジルの穏やかな声が静かに暗闇の森の中に広がった。
「私達はそれを見つける為に生きるのでしょう。
何をして来たかなんて私も貴方の頃にはただ生きていたとしか答えれません。
ですが、10年過ぎれば少しは言えます。
歩き方ぐらい覚えましたよと」
膝を折ってオリヴィアを立ちあがらせる。
ドレスに着いた土や木の葉などを払落し
「とりあえず今は立ち上がって顔を上げる事から覚えましょう。
正面を見て、目の前に立つ人をちゃんと見て、その目に映る自分と向き合いながら話をしてみてはどうですか?」
ジルの言葉を噛みしめるように唇を噛みながら真剣に聞く。
少し前の彼女なら浮浪者上がりの分際で口をきくなと言っただろうか。
それを思い出して恥ずかしそうに視線を反らしながら
「参考にさせていただきます」
小さな返事にジルは「頑張ってください」と小さなエールを送り、周囲は感動と言うようにすすり泣く音が広がっていた。
ただし少し離れた場所で未だにランを抱えていたブレッドはアルトに耳打ちする。
「ジルがまっとうな事を言ってるぞ」
「意味を間違えるな。
10年前は生きる為の手段を選ばず、今は有力な権力者に自分の価値をたたき売りする代わりに人生の保証を手に入れたぞってしか俺には聞こえないのだが?」
「子供相手だからオブラートに言っただけか」
「今の話し聞きたくなかった……」
「安心しろ。ジルはいつもこんな感じだ」
「猫被るの上手いからあいつの言動は注意しろよ」
きっぱりと言い切ったアルトとそうだと頷くブレッドにランは心の中で優しいジル先生のイメージが崩れていく音を聞いていた。
「さて、もうすっかり暗くなってしまったので急いで帰りましょうか」
泣き止んだオリヴィアの背中を押しながら月明かりが微かに零れ落ちる森の獣道を歩こうとするジルに子供達の足が怯える。
この森の一角に住まうジルと同じように疑問も持たずにこの森を庭とするブレッドも不思議そうに首を巡らせていればアルトがお前らなと小さく怒気を含むように声を荒げた。
「まだ夜間訓練もした事のないような子供が森の中を昼間のように歩けると思ってるのか!」
静寂が広がる森にアルトの怒りが爆発して周囲の獣や妖精達があわただしく逃げていく音を聞いて、パニックにならないように子供達は団子状態になっていた。
「とは言っても、森の中で一泊するのは危険だぜ?」
さも当然と言うブレッドにジルもそうだと頷く。
どこからか現れたティルルとヴィンの二体の護衛ではどこか心許無いのは当然で、小さなシェムブレイバーでは夜の森で身体を温めるには小さすぎる。
「あの、皆さん申し訳ありません。
私が、帰り道に足止めをしたばっかりに……」
まだ顔を上げられないオリヴィアは今まで教えてもらった事からあがらう様に謝罪の言葉を述べる。
それにどれほどの勇気がいたか、細い肩が震えていたのが証拠だろう。
「気にしないでオリヴィア。
躓く事は誰にだってもある。早めにそれを体験できて僥倖と思おう!
それに我々とて夜間訓練を受けている上級生だ。
軍の訓練では足手まといだが、時間をかけて焦らずにいれば問題は起きないはずだ」
その言葉に勇気をもらった学院生達はお互いの顔を見て頑張ろうと士気を挙げるも
「急いで帰るならフェルスに乗せてもらおうよ。
この森ならすぐに出れるでしょ?」
漸くブレッドから降ろして貰えたランがフェルスに獣の姿になってみんなを送ってよと言えば、まぁその方が手っ取り早いわなと言って人の姿から獣の姿に変えた。
「これ以上遅くなったら大変だから、みんな早く乗ってよ」
「乗ってと言われてもな……」
「と言うか、身も蓋もない展開ですね」
この国では崇め奉つわられていたウェルキィの背中に恐れ多いと言う意識の方が大半だ。
そんな中よいしょよいしょと背中を攻略してお気に入りなのか当然と言う顔で頭の上に座るランはみんなも早くと急かしたてる。
どうしたものかと悩む合間にもしびれを切らしたフェルスがその長いしっぽで子供達を次々に背中の上に乗せていく。
「だから俺はこの国の奴らが苦手なんだよ」
崇拝と言うような視線を集めるフェルスのボヤキにアルト達は苦笑した後、ランを見習ってフェルスの背中を攻略するのだった。
「全員乗ったよ!フェルスお願い!」
「了解。お前らも着いて来い」
そう言って振動もなく、風の抵抗さえ感じない空中遊泳の時間が始まった。
驚きと歓喜の悲鳴にわっとにぎやかになり、誰もが自然に笑みを浮かべる。
ティルルとヴィンが付いてこられる速度で空を駆け、微かに風の音を聞き月明かりの下遠くにそびえるこの国のシンボルともいえる塔を眺める。
初めて見る景色に子供達はもちろんブレッド達大人組も驚きを隠せないまま空からの街並みを眺め、改めてウェルキィの凄さを実感せずにはいられなかった。
「ラン、私はどうしようもないほど思い違いをしていました」
オリヴィアを励ますようにランは彼女をフェルスの頭の上に案内して隣に座らせていたが、オリヴィアは正面を向いて顔を上げて
「私はウェリキィを一つの兵器として見ていました。
魔法を持たないこの国の民に残された強力な兵器と。
それを行使するのがレオンハルトの役目だと言い聞かされ、疑っても来ませんでした。
ですが、貴方とこうしてウェルキィの背に乗って夜の散歩に連れ立ってくれて、私の認識は次々に間違いだらけだという事に気づかずにはいられません。
妖精は良き友人。
当たり前の認識をどうしたら私は曲解してしまったのでしょう。
この景色を守る事こそ四公八家の役目。
どこで間違ってしまったのでしょう」
膝の上に置いた手が震えるのを見てランは何でもないように言う。
「それこそさっきジル先生が言っていた言葉じゃないのかな?
自分の目で見て自分の耳で聞いて、その手足で体験した事を信じて、他人の言葉に良いように扱われなければ大体は間違えないんじゃないかな?」
何て事のないように話すランの横顔を少しの間見つめて、そっと視線を反らす。
「そうですね、そうですわね」
「でしょ?」
足をポンと前に放り投げて慣れた様に座る横に座るオリヴィアに次第に笑顔が戻ってくる。
それは以前のどこか凶悪な、そして作られた物ではなく、年相応のあどけない物。
微かに頬を赤く染めて二人で笑いあうそんな変化に二人を背後から見守っていたアルトはふむと一つ頷くのをジルは嫌な予感とこぼすも、我が子のように溺愛するブレッドの視線はうちの子に手を出したらどう言う事か判ってるだろうなと言う物。
どうやらスキルおかんを修得したらしい。
男なのにと突っ込んでくれる人材がいないのが残念だが、別にそんな事どうでもいいと言うチェルニー達はいつもの通りブレッドの髪に絡まって遊んだり肩に座ったり、ポケットの中へと好きな場所に潜り込んでいるだけ。
とても先ほど目にも止まらぬ速さでオリヴィアの剣を折った妖精とは思えないくらいくつろぎまくっていた。
「よし、フェルス、悪いがレオンハルトの屋敷まで行ってくれないか」
アルトがフェルスに呼びかければオリヴィアは恐怖に顔を引き攣らせ、そしてはしゃいでいた子供達も言葉を失う。
「今回の件を考えて此の先ランが狙われる可能性もないとは言えなくなった。
オリヴィアの兄貴が何しでかす判らんん。
先手を打つ為にも、ついでにオリヴィアの保護も視野にいれよう」
「力関係ならお前が負けるぞ?」
「さすがにこの件はいけすかん。うまく立ち回るさ」
そう言うとフェルスは広大なレオンハルトの屋敷へと向かい、先日降り立ったばかりの庭に音もなく着地した。
子供達を乗せたままアルトはランとオリヴィアの手を引き、暫くもしないうちに現れたレオンハルトの一族に迎えられた。
「今更何の用だノヴァエス」
ウェルキィに怯える事のない前ラインハルト公の前で顎をくいっと上げて
「一つ相談なのだが、うちの使用人と貴方の孫がどうやら懇意の仲らしい」
ぎょっとした顔でランとオリヴィアはアルトの顔を見上げる。
当然背後で驚きの声を上げずにはいられない子供と、ちょっと待てと食ってかかろうとするブレッドをジルは面白そうに足止めをしていた。
当然それはレオンハルト側も寝み耳に水であっけにとられている。
アルトのでっち上げなのだから当然と言う物だ。
「今日遅くなってしまったのは彼女がランと付き合っていく上で、何の制限もなくなってしまった。
レオンハルト当主とならば、ランを迎え入れる事も可能だったのでしょうが、こうなった今となると貴族の娘らしくお家の為の政略結婚の道しかなくなってしまう。
さすがに私もかわいい使用人の思いも考えなくてはと思ったものの、ちょうどこの使用人には貴方達が願わずにはいられないウェルキィがいる」
俺まで巻き込むのかと獣の顔なのにぎょっとする顔を隠せず居るフェルスにレオンハルト側も驚かずにはいられない。
「こう見えてもこの使用人にあのウェルキィはかなりの溺愛な傾向でな、その子供となるとあの使用人同様言葉通り食べたくなるほど溺愛するだろう」
誰もが頭の中で想像してしまって後悔してしまう。
ペロンと舐めた瞬間ごくりと飲み込んでしまった想像を。
「そこで提案なのだが、彼女をわが屋敷に行儀見習いとして来てもらうのはどうだろうか?」
言えばオリヴィアの父は大反対するも、前レオンハルト公は少しだけ考え、よかろうと返事をした。
「なるほど。その子供はノヴァエスの使用人にはならず、子供が望めばレオンハルトに、ウェルキィを連れて帰ってきても構わないと言うのだな?」
誰もが息を呑みこむ。
そんな事になってもいいのだろうかと。
「悪い話ではないだろ?」
「わかった。連れて行け」
「父上!そんなこと勝手にされては……」
「あの使用人と破綻になっても、最終的にはノヴァエスに押しつければいい。
願ってもない結婚話だ。悪くない」
「そう来たか、このくそじじい……」
さすがにそこまでは考えてなかったアルトだが、その承諾を持って今日から早速あずからせてもらうとオリヴィアを連れてウェルキィの背中に乗り、そのまま去るのだった。
「よかったですねぇ。これでノヴァエスの嫁取り問題も解決ではありませんか」
ジルののほほんとしか声にこの場に居合わせた全員がほんとにどうなってるのかと黙ったままアルトの次の発言を待っていた。
「まぁ、その問題もおいおい考えるとしてだ。
おい、学院性」
突如指名された学院性はこっちまでとばっちりが来たと思わず後ずさりしてしまうも大きな体とは言え逃げる場所のない空飛ぶウェルキィの背中。
何をやらされるのかとびくびくしていれば
「ランとオリヴィアの婚約の話を学院中にばらまいてこい。
レオンハルトの柵もなくなって卒業したら結婚する予定だからさっそくノヴァエスで花嫁修業に励んでいると」
「ちょっと待て!なんだその考え方は!
ランの意志はどうした!俺は反対だぞ!」
「ランをお前の世話係で一生を終えさせるよりはましだろ」
煩いと掴みかかろうとするブレッドを押しやり
「いいか、これはオリヴィアの命が掛った話しだ。
ウェルキィの契約者と子供を為す事でウェルキィ捕獲の可能性が高くなったんだ。
レオンハルトとしてもウェルキィを手放した愚かな契約者で終わらせるはずもない。
再度ウェルキィに選ばれたレオンハルトとしてその地位をその家名を絶対のモノにしたいはずだ。
オリヴィアの父はそうする事で自分の父を超えると思うはずだ。
よく聞け。
そんな状況のレオンハルトからオリヴィアは首の皮一枚で繋がってる状態だ。
レオンハルトではなくオリヴィアとして再出発しようとする彼女が生きるにはその希望にすがるしかない!
と言う設定だ」
「設定なんだ」
思わずと言うようにランが反芻する。
この流れに着いて行けない学院生と当のオリヴィアはぽかんとしている中ブレッドは当然だと力強く頷くのをジルは汚物を見るような目で見ていた。
「話の方向性としては大体あってる。
だがな、アルトの嫁を何でレオンハルトの一族に迎え入れないといけないのか言う大問題がまず前提にある。
オリヴィアの前で言うにはなんだが、俺達はお前の兄貴やその両親に散々嫌がらせを受けてきた!
八家の分際が!
一体何様だと思ってる!
そんな一族の血を一滴でも入れると本当に思ってるのかと言うのがノヴァエスの戦いだ!」
「ご存じないと思いますがアルトの父親は南のリズルラントの前当主の一番下の弟君になりますが、実際は全くの別人なんですよ」
「ああ、俺もノヴァエスを受け継ぐときに初めて聞いた話だ。
母も今頃初恋の、俺の本当の父親とよろしくしてるはずだ。
紙面上の父の首に鎖を巻き付けてな!」
「いつ聞いても貴族ってえげつねぇな」
「先代がカミングアウトされた時は何言ってるんだろうって本気で思いましたからね」
感慨深くしみじみと話す二人にようやくこの場にいる人間は、聞いてはいけない事を聞かされたと理解し始め
「一応この方向性で話を進めるが、オリヴィア。
最悪俺はお前を本妻として迎え入れる事になるかもしれないが、俺はこのノヴァエスの風習にならって好きな女に子供を産ませて継がせるからな!」
「あ、いえ、それは別に構いませんが……」
思わぬ熱弁にどうぞご自由にと反射的に返してしまったオリヴィアはまだ恋さえした事がなくても正真正銘の貴族の女性だ。
その返事にアルトは満足げに頷き
「そんなわけで一応世間体の為にも適当に子供を作ってもらって構わないが、ノヴァエスの家督は譲らないぞ」
「当然でしょう。
私の父も母もご存じ見事な仮面夫婦なので、先に言ってくださった方が気が楽です」
「話が早くて助かる」
「助けていただけるならその恩に報いましょう」
そう言って交渉成立と手を握り合っている二人を見て遠巻きながら「貴族こわい」「恋愛できないかも」「恋人なんていらない」など、誰もが心の内を声に出してしまう。
そうやってノヴァエス家のの秘密を報酬として受け取ってしまった学院生はそのネタと引き換えにランとオリヴィアの話題をばらまく事になった。