其之三 豊かで善良な教育(全編)
久しぶりです。本当に。
最近書いてないなって思ったらまさかの半年ぶり。まあそういうこともあります。明日ヒロともども書きたいときにゆっくり書いていくんで暇な方はお付き合いをば
透き通ったガラスの管中を赤茶色の液体が流れる。ガラスの管は三本あり並行して横向きに立てかけられている。隣あったそれぞれも管で接続されているが栓を占めて遮断しているので他の管と液体が混ざることはない。
「この紅茶の流れが運命の流れとするわ」
「随分と美味しそうな運命なのです」
ルナの説明に暢気な感想を生やす華華に俺は弁当に入っているバラン(草むらみたいなあれだ)を見るような視線を送った。そんな俺たちのやり取りには構わずにルナは栓をひねった。三つのガラス管は管で接続され隣り合ったガラス管に流れ込む。
「私がやったのはこれに近いことだわ。本来別々の運命は交わらない。並行は永遠に交わらないでしょ? だけど私はそれを接続させたの。そして杏珠を……そして翼、唯、水藍の三人もだけど別の運命に移動させた。冬馬はパラレルワールドって判る?」
俺はうなずいた。華華に聞かないのはハナから期待していないからだろう。
「パラレルワールドってのはあれだよな。俺がいるこの世界と似ているけどまったく別の世界」
「ええそう。その世界にも冬馬がいて、華華がいて、杏珠がいて、翼がいて、唯がいて、水藍がいる。だけど関係性がどこでも違うの。普通はその世界に行くなんてのは勿論、認識することも不可能な、君たちとは無関係の世界」
「だけど杏珠たちはそこからお前が連れてきたんだよな?」
「ええ、そう。私は……厳密にいうなら私たちはパラレルワールドに存在しない。すべてのパラレルワールドに一人しかいないの。だからここ以外の世界に私はいないわ」
「ミッキーが世界のディズニーランドには同時刻に一人しかいないようなものなのですね」
華華の微妙に外した例えを無視してルナは続ける。
「なぜなら私はそこをコントロールする存在だからね。別の世界にいた杏珠たちをこの世界に持ってくることが出来るのは今、私なの。そしてなんでわざわざこんな面倒くさくて仮にこれが小説なら読者に読み飛ばされるような話をしたのかといえば……冬馬」
ルナは金髪をゆらした。風に揺れる金木犀みたいだった。
「杏珠が悪霊と接触したらしいわね」
「ああ、気の強いあいつが悪霊に食われるなんておかしいと思って聞いてみたんだ。なんかなかったか。そうしたらこう返ってきた。『お兄ちゃんを殺す夢をみる』ってな」
それが何を意味するかはいやでもわかった。
並行世界の杏珠は、つまり杏珠本来の運命は兄である翼さんを誤解したまま殺すという最悪の結末を迎える。ルナがそれをこちらの運命……「兄妹なかよく学校に通う。うっとうしいくらいに」の世界へ移動させたのだ。記憶まで消して。そんな杏珠が夢を通じて本来の運命の夢を見たというのだ。俺はそのことをルナに相談した。その結果この話に至ったのだ。
「杏珠の運命を紅茶に例えたわね。杏珠の運命である紅茶は流れる管を変えてまったく別の道へ進むことになったけれど流れる紅茶は、つまり杏珠自体は……過酷な運命を流れていた杏珠なの。それは絶対に変えられない。だから完全に杏珠、それにほかの皆もだけど完全にあの運命を脱却したわけじゃないの」
「もし皆が本来の自分を思い出してしまったらどうなるんだ?」
「具体的には判らないわ。ただ破滅が待っているのは間違いないでしょうね」
――破滅
その言葉が俺の胸をきゅうと締め付けた。
先輩である俺に虫ほどの敬意も払わない杏珠とその兄の翼さんの鬱陶しいまでの仲の良さ。水藍さんと唯さんのラブラブっぷり。
俺は基本的にうんざりだ。
だけど、あの幸せが破壊されるのはだめだと思う。
俺は知っている。あの四人の不幸すぎる運命を。そして運命を作り替え手に入れた幸せがいまだ。だからこそまたあの四人が不幸になるなんて許してはいけない。漠然とした感情が俺の胸に湧き上がってきた。
「ルナ……どうやったら四人を救える」
「冬馬には無理よ」
バッサリと切り捨てられた。俺はがっくりと肩を下す。
そうだよなぁ。どこにでもいる中学生男子に何ができるっていうんだ。俺は華華の肩をたたく。
「いくぞ」
「はいっ難しい話だったのです」
「お前わかったのか?」
「運命は紅茶。つまり美味しい。運命うんめーっ! ってことなら」
よしわかってないな。
◆
冬馬は知らなかった。地下にあるルナの学園長室を冬馬と華華が後にしたあとにこんなやり取りがあったことを。
「お客様は帰ったのかい?」
紅茶を淹れ始めたルナに声をかけたのはサファイアのように青く透き通った髪の青年だった。彼は冬馬とルナが会話している間もずっと立っていた、が特に存在感を放つこともなかった。ルナに邪魔しないでねと云われていたからだ。
「リーヴル、話は聞いていたわいね?」
「ああ、邪魔するなとは云われたけど聞くなとは云われていないからね。ばっちりメモまでとったよ」
「ねえリーヴル。私は正しいことをしているのかしら?」
「さあ、私はただの人間だから判らんよ、神様の話はさ。そもそも君が弄った四人のこともよく知らない」
「あらそうだったっけ。それなら」
ルナは指を鳴らした。すると一冊の本が彼女の手元に出現した。
「ブレインブックスよ。翼たちの」
「いいのかい私が見ても」
「私の執事なんだからそれくらい把握しておきなさい。開けば映像として翼たちの過去が脳に流れ込んでくるわよ。結構ショッキングだからそれなりに覚悟してみなさいよ」
「はは、大丈夫その辺はね」
そういってリーヴルは本を開いた。本は青白い光をもって薄暗い学園長室を照らし出した。そしてその光がそのままリーヴルを包み込むと、次の刹那リーヴルの意識は暗闇へと引き込まれていくのであった。
追憶 十文字翼①
「十文字君っずっと前から好きでした」
中高一貫で日本一のエリート校栄華学園。その屋上で少女の声が響いた。彼女が顔を真っ赤にして向かい合っているのは十文字翼。高等部一年にして頭脳明晰運動神経抜群。容姿も端麗と三拍子そろった完璧人間だった。当然女生徒からの人気も高い。しかし彼は例によってこう答える。
「ごめんね、俺大事な人いるから」
この断り文句は有名で翼にフラれた女子の『俺大事な人いるからの被害者の会』が存在する。しかしその大事な人がもしかしたら自分なのではという可能性にかけて声をかけてくる女子は後を絶たないのだ。泣きながら屋上を後にした彼女と入れ替わりに細身の少年が入ってきた。
「あっ、もしかしてアレなところでした?」
彼の問いに翼は苦笑して首を振った。
「まさか」
「でしょうね。あなた、十文字先輩ですよね。中等部でもよく名前を聞きます」
「はは良い噂だとよいんだけど。君は葉月だね? 中等部三年の。君こそ良い噂をよく聞くね。ところで葉月、君はどうして屋上に」
「別に……お気に入りの場所ってだけです」
「ふうん。そうか、じゃあ俺はお暇するよ」
翼はランウェイを行くような足取りで屋上を後にした。栄華学園が誇る二大天才が会話をしたのは後にも先にもこれだけであった。この世界線では。
屋上を後にした翼はスタスタと階段を降りる。その時彼の携帯電話が着信を告げた。
「俺だ」
翼はそう答えて出る。そして……目を見開いた。
「杏珠が?」
杏珠。天才と呼ばれ他人に心を許さない孤高の天才十文字翼が唯一無二心を開いた相手、彼の妹だった。二人は非常に仲が良く、毎日のように遊んでいた。
しかし八年前のある日、二人はいつも通りかくれんぼをして遊んでいたのだが、その途中で杏珠が消えた。
警察にも通報したが見つからなかった。翼は今日という日まで杏珠を忘れたことなどなかった。彼が栄華学園に入って天才と呼ばれるほどになったのも有名になり杏珠に気が付いてもらうためだった。有名な学者になることが出来ればテレビなどでも取り上げられるそうすれば杏珠の目にも入るはずだ。ちなみに翼は勉強が苦手だ。世間では天才などと呼んでいるが翼は典型的な秀才であった。そこまで翼が想う相手、それが妹の杏珠だった。
そして今翼のもとへ届いた知らせ。母親からの電話だった。内容はこうだ。
「杏珠が帰ってきた」
翼はそれを脳で理解するよりも先に五階から一階までを五秒で駆け下り駐輪場まで突っ込んでゆきその勢いのまま愛車であるバイクに飛び乗った。そして交通ルールギリギリの速度で家まで飛ばした。母は冗談を言うタイプではない。ましてやこんな
たちの悪い嘘は。だから真実なのだ。杏珠が帰ってきたのだ。胸が高鳴り何度か前輪が浮いた。そんな希望に満ち溢れた翼は知らない。この先にある運命が絶望であることなど。
追憶 葉月唯①
一方もう一人の天才はいまだ屋上にいた。
翼に云った通りここは彼のお気に入りの場所だ。現在はお昼(つまり翼は午後の授業を放棄して帰宅したのだが気にしてはいけない)で彼はいつもここで昼食をとる。……一人で。
あまり人とかかわるのは好きではないのだ。ここから見える町の光景は好きだ。銀色のビルや研究施設が並びピコピコと光る機械で管理された街。一〇年前まではSF漫画の世界だったような街並みだ。そしてこの街を作ったのは唯の父親だ。葉月翔太はロボット工学の第一人者だ。翔太が開発に成功したのは自律神経と思考ルーチン、さらには感情を持つ超高性能ロボット、アンドロイドだ。翔太はアンドロイドを大量開発し作業効率を大幅に増加。数年で街を科学都市に変貌させてしまった。唯はそんな父を尊敬していた。父のもとで研究し人類発展の力になりたかった。だから唯は勉強をする。
唯は父親の作った街を眼下に自分で作った弁当を口に運び午後の授業に向けて気合を入れなおしていた、時だった。視界で何かが揺れた。それを反射的に目で追い、唯は硬直した。それは少女だった。薄い紫の髪と白いワンピースの整った顔の少女……が屋上の柵の上に立っていた。
「え?」
唯はぎょっとした。制服を着ていないからうちの生徒じゃないとか、風に青われてワンピースがめくれて中が見えそうとかそんなことはどうでもよかった。一歩足を踏み外せば落ちるような場所に立っている。
「ちょっと君!」
唯が叫ぶとほぼ同時に突風が吹き柵の上の少女の体が揺れそして……柵の向こう側に落下していった。
「嘘でしょ!」
唯は悲鳴を上げ、駆け出した――のではなく懐から野球ボールくらいの大きさの玉を取り出して柵の向こうに向かって放り投げた。ボールは放物線を描いて飛びながら二つに割れ棒に変形した。そして柄の部分がカーブしながらうへと伸びていった。唯は柄をしっかりとつかむ。ガクンと重さが加わり唯の体は揺れ、引っ張られ柵にたたきつけられた。それでも棒を離さずに唯は柵に引っかかったまま唯は柄の部分についている赤いボタンを押した。するとするすると先の部分が縮まり引き戻されてきた。やがて見えてきた先の部分には大きな手が付いていてそこに先ほど落下した彼女がつかまれていた。
「ふうよかった、昨日試作してみた持ち運びマジックハンドを持っていて」
唯は額の汗をぬぐった。
無事拾い上げた彼女を屋上にぺたんと座らせ向かい合い唯は問いかけた。
「なんであんなことしたの? 危なかったじゃないか!」
「高い位置ならマスターの位置を確認できると思ったの」
「ますたー?」
「そう私を作ったマスター」
淡々と答える彼女。唯は目を丸くした。
「作ったってもしかして君、アンドロイドなのか?」
「あらよくわかったわね。冗談扱いされると思ったのに」
「はは、まあね。僕アンドロイド研究に興味あるし……父さんはアンドロイド研究の第一人者だからね」
「第一人者、もしかして葉月翔太?」
彼女から突然父親の名前が出てきたので唯は一瞬ぎょっとした、が頭の回転が速い彼はすぐに理解した。
「もしかして君のマスターって父さんなの?」
「ええ、そうよ。私を作ったのは葉月翔太だわ。私は新型モデル製造番号04 水藍」
水藍、彼女はそう名乗った。
「そうか、えっと水藍。如何して父さんを探していたの?」
「……私故障しているの。それでマスターを探して直してもらおうと」
唯はナルホドとうなずくと同時に首をひねらずにはいられなかった。そもそも何故翔太の作った新モデルが研究所外にいるか、そして彼から水藍という個体の名を聞いたことはなかった。だがそれ以上に目の前のロボットに興味津々だった。
「ねえちょっと僕も父さんの作ったやつならある程度修理できると思うんだけど」
唯はカバンをあけて工具を取り出しながらそう云っていた。
小さな好奇心。人づきあいが苦手な天才は好奇心からアンドロイド、水藍を修理し始めた。しかしそれが彼の運命を大きく変えるきっかけとはその時彼は知らなかった。
追憶 十文字翼②
再び翼。愛車をすっとばし翼は豪邸の前で止まった。ここが十文字家だ。かなり名の知れた名家で彼はそこの長男だ。だが翼は十文字の名に頼るのは好きではない。だから杏珠を見つけるのに自力で勉強したし、送り迎えさえもこうして断っている。最も両両親との仲は良好でただ翼自体が高飛車なだけである。
そんな翼は家の前に愛車を停めると信じられない動きで家の中に飛び込む。
「た、ただいま!」
我が家に帰ってきたのに不思議と緊張した。慌てて顔をのぞかせた使用人に上着を投げつけ一目散に居間を目指した。初日の転校生のような気持ちで翼が扉を開ける。
最初に目に入ったのはソファにかけている父親だ。そしてテーブルをはさんだその向かいのソファに座っている母親の後頭部。翼はにじにじとゆっくり歩み寄った。すると母親の膝の上にちょこんと少女が座っていた。翼と同じように深紅の美しい髪を持ちくりっとした目で翼を初めて見るかのように見つめている少女。だいぶん大人びていたが間違いなかった。
翼は自然と涙を流し、カバンを床にゴトリと落としてつぶやいた。
「杏珠なんだな?」
「うん……久しぶりお兄ちゃん」
杏珠はそう微笑んだ。翼は反射的に駆け寄って、そして抱きしめた。
その後十文字家は大騒ぎだった。使用人たち総出で支度をし杏珠が帰ってきたことを祝うパーティを執り行った。久々の家族四人の団欒。使用人たちは食事にこそ参加しなかったがほほえましく見守っていた。いつもは厳格で笑わない家主……十文字悟までも笑っているのだから驚きだ。
「ねえ杏珠、ずっとどこにいたの?」
母親、玲子が問う。杏珠はくすと微笑んだ。
「親切な家が私を拾ってくれたの。ずっと私の家を探してくれていたんだ。それでやっと見つかって……帰ってこられたの」
「そうかお礼をしなくてはその方には。本当に、本当に……」
ついに悟は泣き出してしまった。翼はシャンパンを吹き出すところだった。
「親父? ちょ? 泣いてるの?」
玲子も笑う。使用人たちも笑いをこらえている。
「笑うなお前ら、だってうれしいじゃないか!」
顔を真っ赤にして叫ぶ悟。杏珠は口元に手を当てた。
「お父様顔真っ赤」
「こ、これは酔いがだな!」
「旦那様お酒には強いくせに」
使用人の誰かが揶揄った。これにはほかの使用人たちも我慢できずに笑い出した、今に笑いが響き渡る。翼もツボに入りさらに笑い出した。
パーティのあと悟に呼ばれ翼は彼の個室を訪れた。悟はパソコンと向き合っている。画面には老若男女様々な写真が写っている。
「翼、話がある」
「なんだい親父」
「俺はBCを解散させようと思う」
「なっ? 本気かよ」
「ああ、杏珠も帰ってきた。我々もこれからは普通の家庭として生きていきたいんだ」
翼は答えかねた。それもそのはずだろう。BCは正式名称BLOOD CROOSという組織だ。悟はそこの代表取締だ。そしてそのBCがどのような会社かというと暗殺であった。裏の世界に生き依頼された人間の命を奪う闇社会の住人。その暗殺業の中でもトップ2のうち一つが悟のBCであった。悟は翼に暗殺者になる必要はないと教えてきた。むろん翼が望むなら跡取りとしてふさわしい教育をするつもりだったが。翼としては尊敬する父親と同じ道を行きたい気持ちと別の道を行きたい気持ちが、さざ波のようにせめぎあっていた。だから悟が暗殺業を降りるのは嬉しいような寂しいような複雑な気持ちだった。
彼はいろいろと考えてから、息を吐きうなずいた。
「わかった。そうだよな。簡単なことじゃないけど俺も協力するから、足洗おうぜ……だけど」
「なんだ?」
「伐が不穏な動きを見せているって向こうのスパイの使用人が教えてくれた」
伐。トップ2の片割れ。久留里家が取り締まっていてBCとは、つまり十文字家とはずっと対立してきた暗殺組織だ。
「なるほど伐が、か。やはり早めに解体しないとな。私や玲子、お前は勿論杏珠にまで危害がいくかもしれない」
悟は顔を渋くした。
「ああ、足も洗って伐とのくだらない因縁も終わりにしようぜ」
翼がそう告げた。
そのころ、自室で……行方不明になる前自室だった部屋で杏珠はベッドに腰かけていた。先ほどまでの明るい表情は消え去り冷たい無表情の仮面をかぶっていた。いや逆であろう。あの笑顔こそが仮面などだと思わせるほど冷たい表情がそこにはあった。そして彼女は携帯電話を取り出すと誰かに電話を掛けた。
「もしもし翔さん?」
「ヤッホー翔お兄さんだよ!」
「十文字への接触に成功しました」
「テンション差ショック! ただでさえ原作だと別のエピソードだったから気にならなかったけど一つの話に統合したことで唯君のお父さん翔太で名前被っているのにしていたのに……。おっとメタ発言は禁物か、杏珠。久々の我が家はどう?」
「反吐が出ます。よくあんな家族ごっこが出来ますね」
「辛らつだなぁ。まあ仕方ないか……お前は俺たち伐の人間だもんね、今は……」
電話の向こうで翔の笑う音がした。
追憶・葉月唯②
「よしっ出来た!」
唯が一息つく。屋上に寝かされた水藍はしばらくして体を起こした。
「どう?」
「……すごい故障、ほとんど治っている」
「ふふんどう? すごいでしょ」
唯は鼻を高々とさせたあと水藍に向き直った。
「あ、名乗り忘れていたね。僕唯、よろしくね」
「……よろしく」
水藍はおずおずとその手を握り返して、それからこういった。
「じゃあね」
「えっ」
「治ったし、もうここに用はないもの。唯、直してくれてありがとうね」
水藍は可憐にほほ笑むと一瞬にして消えた。
あっという間のことでしばらく唯はぽかんと座り込んでいた、
「綺麗な子だったな」
思わずそう呟いてから驚いた。唯は今まで恋愛感情のようなものは抱いたことがなかった。そんな自分が女の子をきれいだと思った。そんなこと思うわけがない。なのになぜ?
唯は悶々としたが深く考えるのはやめ教室に戻った。
水藍とももう関わることはないだろうし考えても無駄だという結論だった。
だが唯は数日後、水藍と再会することになる。
最悪の形で。
土曜日、昼間に唯は目覚めた。昨日遅くまで勉強していたからだ。
「ああ、休日とはいえこんな時間に起きるのはだめだなぁ」
唯はため息をついてベッドからはい出て、それからぞっとした。
――人の気配がない。
部屋の中の話じゃない。唯は人の気配に敏感なほうだ。静かな時なら家の中に誰かいるくらいまでは判る。そういうようになっている。
唯は寝間着から着かえるとそろりと部屋をでた。静かだった。静まり返っていた。廊下に使用人もいない。リビングも、客間も、庭もどこにも誰もいない。母親は出かけるなら何か言伝を残すはずだしそもそも使用人が誰もいないなんておかしい。
唯は母親に電話をかけてみたが誰も出ない。ため息をついて携帯電話をしまった時だった。ズウンと世界がひっくり返ったような地響きがした。庭のほうからだった。唯が慌てて庭に駆けつけてみると……そこには信じられない光景が待っていた。一瞬漫画やアニメーションでも見ているのかと唯は錯覚した。
だが現実だった。庭には二人の人影があった。一人は赤茶色の髪を逆立てた三白眼の少年でもう一人の少女に殴りかかっていた。そしてその少女とは紫髪と白いワンピースの少女……水藍だった。
「水藍?」
唯が思わず叫ぶと水藍は少年のこぶしを転がって回避しながら唯を見た。
「あなたは唯! こんな時に?」
「ああん? 水藍よそ見しているんじゃねえぞ!」
三白眼の少年が怒鳴ってこぶしを振りかぶる。彼のこぶしはまるで爆弾のように爆発し水藍を吹き飛ばした。それを見て唯は思い出した。
――あいつ父さんが作っていたアンドロイドだ! 名前は確かドロル。水藍と同じ型のはずだけどなんで水藍を襲っているんだ?
ドロルの爆発パンチで起こった。煙が生き物の首のようにうねって周囲を飲み込む。唯はその中に突っ込んで吹き飛ばされた水藍に駆け寄った。
「水藍大丈夫か?」
「ゆ、唯逃げて……いいから」
水藍が声を漏らす。ちょうどその時煙がはれドロルが唯を見つけた。
「なんだ、お前、水藍を渡せよ」
「いやだ」
「馬鹿かお前、失敗作だぞそれ?」
「何の話か知らないけどドロル、水藍を傷つけるな!」
「ああん俺のこと知ってんの? まあいいやぶっ飛ばせば」
ドロルがこぶしを握った。水藍は叫ぶ。
「唯! 逃げなさい! これは貴方には関係ないの!」
「あるよ……僕の前で君が傷ついている。関係大ありだろ!」
「話が違うわ……マスターは貴方が他人を気遣うようにはしていないって云っていたのに」
水藍がそういったが唯は何も云わなかった。
――僕も混乱していた。なんでこの前少し修理しただけどのアンドロイドに感情移入するのかも、それでも今、水藍がドロルに攻撃されるのを黙ってみているのは僕にできなかった。だから
「ドロル! マスターコントロールだ!」
唯はそう叫んでいた。そして携帯電話を突き付けた。
「お前らのマスターの子である僕にはマスターコントロール機能。つまり君たちアンドロイドの操作兼を得ることが出来るようになっているんだ、さあドロル、僕に従え!」
ドロルはしばらく停止していた。振りかざしたこぶしをダランと降ろして突っ立っていた。唯は胸をなでおろした、しかし
「葉月唯。マスターコントロール対象に設定されていません」
ドロルがそう呟き、再びこぶしを振り上げた。
――は?
唯は硬直した。なぜドロルのコントロール権に自分が登録されてないのか、そして秘策が通じなかった自分は……ドロルのこぶしをもろに食らうのだという事実。
唯が死を覚悟した時だった、唯は背中を誰かにつかまれた。
「テレポート!」
耳元で水藍の声がして、唯の目の前からドロルが消えた。そして見慣れない部屋の中にいた。
「ふう上手くいった」
満足そうにする水藍に唯は聞いた。
「な、なにしたの?」
「テレポート。唯の家から少し云ったところにある小屋に逃げたの」
「テレポートって、それがあるなら早く使ってほしかったな」
「時間がいるのよ。だから唯が時間を稼いでくれなかったら私壊されていた、ドロルに。ありがとね」
水藍が微笑んで、次の瞬間唯の唇にやわらかい何かが押し付けられた。それが水藍の唇だとわかり唯が顔を真っ赤にして飛びのいた時には水藍がいたずら小僧の笑みを浮かべていた。
「ふふっお礼」
唯はドキドキと高鳴る胸を押さえた。
「どうしたんだよ、僕」
「あらプログラムにない感情に戸惑っているの? 唯」
水藍がさらりと云ったので唯は吹き出した。
「はは、アンドロイドじゃないんだから」
すると水藍はきょとと唯を見つめ、それから少し憐れむような顔をした。そして
「唯、貴方知らないのね」
「え?」
水藍はゆっくりと、先ほど唯の唇と触れ合った桃色の唇を動かしてこう告げた。
「唯、貴方もアンドロイドなのよ?」
追憶はさらに深く、暗いほうに進んでゆく。《其之三 了》