9-(1) 恩人の正体
一見して何時もの登校風景。
何時ものように三人分の弁当を作り、何時ものように幼馴染の一人と朝食を摂り、何時も
のようにもう一人の幼馴染を起こし、三人連れ立って学園への道を歩く。道端を見ればつい
最近まで咲き誇っていた花々もやや首を垂らし、そのピークも今や越えつつあるようだ。
移り変わる季節。
幼馴染二人の後ろ姿を眺めながら、睦月はこの良くも悪くもマイペースを貫き通す時の流
れというものに対して静かな苦笑いを想う。
「もう春も終わりかぁ……早かったな……」
「ふふ。もう、って。流石に気が早過ぎない? 新年度は始まったばかりだよ? これから
が高等部の生活じゃない」
「同感。睦月は妙に枯れてるからねぇ。でもまぁ、気持ちは分からないでもないけど。色々
あったからね。特に睦月に関しては」
「……あ~」
振り向いた苦笑いと、嗤い。引き継いだ宙が言わんとする所を、程なくして海沙は察し、
フッと笑みに幾許かの影を差して得心していた。
「色々、あったもんね」
分かっている。言わずもがな第七研究所の火災騒動だろう。
だが彼女達は知らない。あれが実は越境種と呼ばれる電脳の怪物が起こした襲撃事件で、
その時睦月は彼らに対抗する為の戦士となったことを。以降今日まで、彼とその仲間達が秘
密裏にこの街に巣食う彼らと戦い続けていることを。
「一年の初っ端に入院だもんね。そりゃテンションも下がるよ。でもこうして、今は元気に
無事でやっている訳だし」
「そうだね。むー君も、おばさま達も無事で本当によかった」
「……」
口が滑ったか。少し場の空気がしんみりとしてしまった。
宙が、海沙がそれぞれに呟いている。
だが睦月はすぐにフォロー出来る言葉を見つけられない。下手に口を滑らせてしまえば要
らぬ心配や疑惑を、この大切な人達に持たれてしまうかもしれない。
『じゃあ睦月、始めるぞ』
先日の司令室での事だった。重傷を負った自分を助けてくれた恩人の正体を探るべく、睦月
は皆人以下職員らが見守る中、大型ディスプレイに映し出される膨大な数の個人データに
意識を集中させていたのである。
あの時彼は、自らをカケイヒョウゴと名乗っていた。
偽名を使った可能性も否定できないが、一先ずはその名で司令室のデータベースを検索し
てみる。皆人は念の為、聞き間違いを含めた近い発音の姓名も候補に入れてくれているそ
うだ。
睦月はお礼が言いたかった。そして自分の事がバレていないかも知りたかった。
しかし親友は身バレの有無では同じなものの、既にこの人物を如何にして口封じするかを
考えて──警戒しているようだった。
数秒おきにディスプレイに映る者達が切り替わる。
細かい部分は後回し。とにかく名前と、その顔写真に見覚えがあるかないかを確かめる。
『!? 止めて! この人だ、間違いない!』
はたして、求める人物は見つかった。記憶の像が目の前の像と一致した時、睦月は半ば反
射的にそう叫んでいた。
制御卓を操作する職員がはたと手を止め、こちらを振り返る。
皆人ら場の面々が一斉に画面を見つめ、そして……静かに眉を顰める。
『──筧兵悟、五十二歳。飛鳥崎中央署捜査一課警部補。離婚歴一回、現在独身……』
『け、刑事ぃ!?」
『よりによって……。これ、拙いんじゃないですか?』
『……ああ、少なくともこれで楽観は出来なくなった。本職だからな。怪しまれてしまえば、
色々と面倒な事になる』
画面に映し出されたまま止まったその人物──筧の顔写真を前に、司令室の職員一同が思
わず頭を抱えた。
刑事。それはある意味、最も敵に回しては厄介な人種──。
『睦月。念の為確認するけど、本当に……?』
『う、うん。この人だよ。名前も顔も一致してる。……そっか。他人のトラブルに割って入
る仕事っていうのは、刑事さんだったのか』
『感心してる場合ですかぁ? どど、どうするんです? もし此処がバレでもしたら……』
『その前に何とかするしかないだろう。幸い、睦月が助け出された時点でお前はロック状態
になっていた。核心に──俺達の存在までは分かるまい。尤も、十中八九EXリアナイザや
インカムは見られてしまっているだろうが……』
香月に改めて訊ねられ、胸ポケットのデバイスの中ではパンドラがその白銀の頭を抱えて
慌てふためいていた。
流石に嘆息をつく皆人。口でこそ平静を装っているが、それでもぶつぶつと呟く後半の弁
には、筧に一体どれだけが看破されたのだろうという思考が現在進行形で走っている。
『ど……どうしよう?』
『とにかく当人を見つけ出すのが先決だな。それから内々でどれだけ知られたのかを量り、
その上で口封じの策を講じる。金で黙ってくれれば、いいんだが』
『うーん。そんな感じの人には見えなかったけどなぁ……』
互いが互いに相手の顔を見る。困った表情をした睦月に皆人は言い、されど睦月はそんな
親友の希望的観測はおそらく実を結ばないだろうと考える。
だろうな……。
皆人はもう一度このディスプレイ上に映る筧の顔写真を見つめ、とんとんと数度自身の額
を軽く指で叩きながら思案した。
応じて貰えなければ困る。しかし相手の身分が身分なだけに、下手な脅しは却って自分達
の首を絞める事になるだろう。
その後も何度か、嘆息が漏れた。しかしややあってこの司令室室長はぎゅっと唇を結び、
睦月達に振り返ると言う。
『とにかく彼についてはこちらで何とかする。だから睦月、お前は引き続きアウター退治に
専念してくれ』
──記憶はまたそうしてふっと蘇っては立ち消え、胸奥に一抹の不安ばかりを残す。
気付けば海沙と宙はわいわいと、自分を余所に女の子同士のお喋りに興じていた。
何時もの光景、何時もの堤防道。
だから睦月はフッと、少しだけ疲弊したその内心が慰められるような心地になった。
「そういえばソラちゃん。水泳部、そろそろ大会あるよね? 練習とか大丈夫なの?」
「ん? ああ、だいじょぶだいじょぶ。あたし選手じゃないし。まぁ応援には出るけどね」
ふと出た話題。されど振られた当の宙はそうけたけたと笑っている。
曰く彼女が水泳部をやっているのはただ泳ぐのが好きなだけで、身体を動かしていると気
持ちいいからで、血眼になって誰かと競い合う為ではないのだという。
実際、自分のような中等部からの繰り上がり組の中にはそういった緩いスタンスで泳ぎを
楽しんでいる子も少なくはなく、文字通りエンジョイ勢とスポーツ勢との棲み分けは弁えて
いる心算だとのこと。
「大体、あたしより速い子なんてゴロゴロいるよ? 練習量とかだって段違いだしね」
「うーん……でも勿体無いなあ。ただでさえソラちゃんは運動神経いいのに」
「まぁ、そういう大らかな所が宙のいい所じゃない? ……でもそう言えばさ、何で水泳な
訳? 昔は走ってた記憶があるんだけど……」
「うん? ああ、それね」
何の気になしに話に乗っかり、ついでに話題を繋げてみただけだった。
睦月の問いに宙が笑う。ぽんと胸元に手を当て、ちらと一度膨らんだ自身のそれを揉む。
「どっちも気持ちいい疲れはあるんだけど、陸だと邪魔になってきてさあ。その点、水の中
では浮かしとけばいいし」
「う、うん……」
「……」
「? 海沙?」
「──せ、──ですよ」
「へっ?」
「どうせ、ぺったんこですよぉ!」
笑う幼馴染に泣く幼馴染。その胸は緩やかに平坦だった。
故にこの日の朝、彼女の密かなコンプレックスを刺激してしまった睦月と宙は、この泣い
ていじけ始めた幼馴染を学園に着くまでひたすら宥め続ける羽目になったのだった。




