8-(4) 嘘つきな夜
ポートランドが、飛鳥崎の街が、日没につれて闇の中に溶けてゆく。
手負いとなった睦月は、実は密かにそんな只中に内包されていた。
街の中央からやや南に逸れた小さなアパートの二階。彼は未だに目を覚ます事もなく、静
かにこの部屋に敷かれた布団に寝かされている。
「──うんしょ、っと……」
そこに、睦月のおでこに新しい濡れタオルを乗せ、優しく介抱してやっている者がいた。
由良である。彼は夕刻、筧に──この部屋の主に呼び出され、こうして見も知らぬ少年の
世話をしていた。そこへ当の筧が、二人分のコーヒーを淹れて持って来る。
「すまんな。こんな時間に呼び出しちまって」
「いいえ。まぁそれはいいんですが……」
ほこほこと湯気の立つカップを受け取り、苦笑しながら応える由良。
だがちらりと、このまだ若い刑事の遣った視線は、紛れもなくこの眠ったままの睦月の顔
へと向けられていた。
「何者なんでしょうね? この子」
当然の疑問。その呟きに筧もまた「うむ……」と声を漏らすだけで明確な回答を持ち合わ
せていなかった。何せ突然の事で、筧自身もあまり状況がよく分かっていない。
「水路の縁に倒れてた。……それ以外、確実に言えるものは何もねぇんだよ」
この日、筧は思う所あって一課の皆とは別行動を取っていた。
尤もそれは今回に始まった事ではなく、普段コンビを組んでいる由良すらもまぁ何時もの
事だとこの先輩が為すがままにしていたのだが、突然掛かってきた電話越しに告げられたの
は『行き倒れてるガキを見つけた。とりあえず部屋に連れて帰って来たんだが、勝手が分か
らん。悪いんだが手伝いに来てくれねぇか?』という旨。
慌て、焦り、それでも由良は課の面々に気付かれぬように抜け出した。
そして彼のアパートまでやって来てみれば……何故かずぶ濡れの少年が一人、畳の上に寝
転ばされているではないか。
正直言って、想定の斜め上。
何やってんですか!? 開口一番、由良はそう上がった部屋の入口で思わず声に出してし
まったものだ。
「……本当、あんまり無茶しないでくださいよ? ただでさえこの前の爆弾魔の──井道の
件で、兵さんはまだ上に睨まれてるんですから」
「分かってるよ。しかし参ったな……」
後輩の小言は何時ものように華麗にスルー。
ポリポリと筧は半ば無意識にうなじの髪先を掻き、さてどうしたものかと思案した。
そもそもこの少年は誰なのか?
今自分達は、そんな一番肝心で取っ掛かりな事柄すら確認できていない。
というのも若いからだ。免許証もなくば、休日故か学生証の一つも持っていない。代わり
に持っていた彼のデバイスから情報を探ろうとしたが、どっぷり排水に浸かってしまってい
たためかうんともすんとも言わない。
……壊れてしまったのだろうか?
だが、それでも唯一の、それ以上に怪しい物品がある。
大よそ一般人は持ち歩かないであろう小型受信器と繋がった小さなインカムと、何よりも
妙な形をした白いリアナイザ。
尤もどちらともデバイスと同様、あちこち弄ってもまるで動かなかったが、それでも筧は
内心思わぬ収穫だとも思っていた。
先の──これまで飛鳥崎で発生している幾つもの怪事件。
筧はその核心に、このリアナイザと呼ばれるツールが関係しているのではないかと睨み始
めていた。自身IT技術は専門外だが、ならばその製造・販売元であるH&D社について調
べれば何か分かる筈──そう思ってこの日一日ポートランドを歩き回っていたのである。
そこで偶然見つけたのが、この少年。それも件のリアナイザを持ったままの。
これを逃がす手はないと思った。だからこそ、自身の打算を棚に置いてもこうして部屋に
連れ帰り、一連の謎の手掛かりを探るつもりだったのだ。
「怪我もしてますし、柄の悪い連中にでも絡まれたんですかね?」
「ポートランドでか? あそこはそもそも、学者やら技術者でもなきゃ先ず行こうなんて思
わない場所だぞ?」
うーむ……。返された言葉に由良が唸った。
それでも兵さんは居たんじゃないですかとややあって反論されたが、独自捜査だよと筧は
これをかわしてしらばっくれた。
場所だけじゃない。
問題なのは、気になるのは、ただふらっと訪れただけとは思えないその所持品にある。
「ま、こいつが目を覚ましたらその辺も分かるさ。たっぷりと、話を聞くつもりだよ」
とりあえず顔写真だけは撮っておいたので、黙秘されても足で何とか稼げるだろう。
筧は一度深くため息をつき、未だ眠っているこの睦月を見遣る。
『──……』
夜が更けていく。ネオン煌く街の奥底に潜むかのように、幾つもの眼が不気味に光を宿し
て蠢いていた。
人ならざる越境種達を率いるのは、黒衣の、眼鏡を掛けた男。
生産プラント郊外にて、睦月とパンドラを追い詰めたあの四人の内の一人である。
『──ごめんね。睦月に新しいラボを見せてあげてたら遅くなっちゃった。今日はこのまま
こっちで泊まっていくわ』
『はい。了解です』
『りょーかい。親子水入らず、楽しんでくださいね♪』
そんな蠢く影などつゆも知らず、通信アプリ上で海沙と宙は香月からそうメッセージを受
け取っていた。
彼女らが電脳の怪物と戦っているなど考えもせず、ただ文面だけで届いたその言葉に一切
の疑いを持たず、朗らかな応答を返していく。そんな当の本人が今、険しい目付きでPCに
張り付き続けているなど、二人は知る由もない。
「……しかし、良かったんですかね?」
「うん?」
暫しぼうっと看病の横で佇んでいた筧と由良。
すると思い出したようにフッと、由良が彼に向いて口を開いた。苦笑い。既に言い逃れな
ど出来ようものではないと理解はしているが、言っておきたくなる。
「溺れてたこの子を助けた。事情は分かりましたけど、家に連れて帰るよりも先ずは救急車
を呼ぶべきだったんじゃないですか?」
「降って湧いた手掛かりだぞ、他人に任せてられるか。明日には連れてくさ。それに……」
「それに?」
たっぷりと一呼吸。
筧は静かにスッと目を細めて、言う。
「……このヤマはもう、常識の枠ン中でやろうとしても駄目な気がするしな」




