67-(4) 知らぬ幸福(しあわせ)
かつて持ち家を失って以降、娘と共に身を寄せていたアパートの部屋。明かりも消され、
壁と閉じた戸で仕切られていた奥の布団の上で、誠明は目を覚ました。未だ前後の記憶も判
然とせず、何とか重い上体を起こすとぐるり室内を見渡し──直後、僅かに引き戸を開けて
様子を窺おうとしていた二見と目が合う。
「あっ」
「うん……?」
「ひょ、兵さん、由香ちゃん。目が覚めたみたいッスよ」
すると驚き身を硬くする彼の下へ、二見と筧、そして由香が向かいの部屋から顔を覗かせ
ると近付いて来た。手招きをする二見、神妙な表情の筧とばつの悪そうな由香。ただ今の誠
明にとっては、全員が“見知らぬ他人”だ。もし自由に歩き回れるほどのコンディションで
あったなら、とうに急いで逃げ出していた。
「……あ、あんた達は誰だ? それに此処は一体……?」
「安心して下さい、此処は貴方の、七波誠明の自宅だ。貴方は電脳生命体に攫われ、捕らわ
れていたところを何とか救出されたんです。こちらの彼女──貴女の娘である由香さんと、
自分達は知り合いでしてね。その縁でお邪魔させてもらっていたところでして……」
あくまで淡々と簡潔に。筧は一先ずの状況説明を中心に彼を落ち着かせようと試みた。そ
の上で自分達の詳しい素性までは、獅子騎士であることや対策チームの存在は明かさず、実
の娘たる由香を前面に出しての疎通を図る。
「電脳生命体……。そう言えば確か、よく分からない奴らに襲われたんだっけか。それで気
が付いたら、あの空き家に放り出されて……」
『──』
静かに目を細める筧と、気持ちその陰に控える二見と由香。
記憶が失われたとはいえ、やはりその多くはエピソード記憶の類ということか。攫われる
直前までの断片的な状況や、時事含みの知識などは忘れていないとなると、やはり何かしら
の特殊能力を持つアウターが恣意的に奪っていった可能性が高まる。
暫く妙な間が空いた後、誠明はおずおずと、その視線を後方の由香へと向けた。
「ええっと……。由香さん、だったか。すまないね。私を助けようと頑張ってくれたみたい
だが、ご覧の通り私は以前の記憶を失ってしまったらしい。正直、君が娘だと教えられても
実感が湧かないんだ……」
「そう、でしょうね。焦らなくていいと思います。それでもし、余計に症状が悪化してしま
ったら元も子もないですから」
何とも気まずい。或いはまだ本人の口からはっきりと伝えて貰った分、要らぬ勘繰りによ
る精神的負担は除けたと捉えるべきなのか。今度は筧と二見が、気まずく膝立ちを続ける番
だった。少なくとも、本心の筈がない。
「とはいえ、何も知らないまま安穏としている訳にもいかない。情報としてだけでも教えて
欲しい。君が娘だというのなら、妻もいる筈だろう?」
「っ──!?」
「彼女は今、どうしている? 私がこんな事になってしまったのなら、心配しているんじゃ
ないのかい?」
だからこそ、次の瞬間誠明が母・沙也香について訊ねてきた途端、由香がぐっと耐えるよ
うにその表情を歪めた。筧と二見も思わず目を見開き、これを見つめている。すぐに下手な
フォローを出すこと自体が悪手だと悟って何もできなかった。たっぷりと逡巡を隠した沈黙
の後、彼女は今は亡き母の所在について虚偽の答えを返す。
「お母さんは……大丈夫です。今は遠い場所にいるけれど、元気にやっています。私が代わ
りに、伝えておきますから」
「そうか。なら良かった。いやね? 君の名前を──七波由香というフレーズを聞いて、少
し思い出したんだ。確か君も、前に電脳生命体に襲われた経験があるだろう? ニュースで
やっていたような記憶がぼんやりとある。だというのに、また同じ目に遭うかもしれないの
に、君は逃げずに関わろうとした。お友達の二人を上げているということは、そういうこと
なんだろう?」
「……」
「私が君の父親だというのも勿論、理由の一つではあるんだろうが……。それでも全部当局
に任せて、お母さんと一緒に待つこともできた筈だ。辛かったろうに……。ごめんな、そし
てありがとう。よく頑張ったね?」
「──ッ!!」
ポンと、とても優しく撫でてきた父の手。そこで由香はとうとう、耐え切れずに大粒の涙
を零してしまった。
記憶を失って実感は無いが、それでも自分の為に過去を振り解いて動こうとした娘へ。或
いはそんな親子関係を差っ引いても、人として誇るべき善性へ。
漏れ出す嗚咽、小さくふるふると横に振る首。
違うの、違うの……お父さん。由香は口にしたい衝動に駆られたが、とてもではないけれ
ど伝えられなかった。
貴方の妻は、私達のお母さんは、既にアウターに殺されている。何より自分が今回行動を
起こしたのは、今や筧さん・額賀さんと共に仇でもある連中を狩る側に回っている現状の延
長線上に過ぎない。逃げずに? 違う。あの時の浅慮と非力を後悔し続けているからこそ、
ずっとあいつらに拘っているんだ。現実を生きずに、あの頃の過ちの数々に囚われ続けてい
るんだから……。
「違い、ます。違うんです。私のせいで、私のせいでっ!!」
「うん……うん。私ならもう大丈夫だから。後は時間が治してくれるだろうから」
言葉足らずが故に、伝わっているようで伝わっていない。彼女の涙声な訴えに、誠明は尚
も穏やかな声色でそう宥め、努めて自分の現状を脇に置いてでも肯定してあげようとする。
筧と二見は、完全に黙り込んでしまっていた。とてもじゃないが、割って入れる雰囲気で
はなかった。ぐずぐずと、由香が一しきり泣き終えるまでじっと、事の成り行きを見守って
おくしかない。その上で、彼の言動と娘に対する態度から二人は──おそらく当の由香も含
めて三人は、確信をもってある情報を知り得ていた。
(……由香ちゃんが、咄嗟に嘘を吐いちまったってのもあろうが)
(彼の記憶から、そもそも夫人に関する項目自体が欠落している……?)
二人にとっては半ば又聞きの経緯ではあったが、チェイス・アウター襲撃の一件時点で、
元の七波家は崩壊寸前であったという。直接狙われた由香は勿論、当日同じく持ち家の方の
自宅に居た沙也香、事後報せを聞いて飛んで帰って来た誠明も。
片や実害を被ったことで、実の娘すら責め立てる母と、そんな妻から娘を庇った父。
その後アウターに彼女が殺害されたことで、彼はある意味で“区切り”が付いてしまって
いたという。そして先行きの見えない現実の中、それでも何とか進んでいこうともがき苦し
んでいた矢先、期せずして記憶を失ってしまったのなら……彼は寧ろ自ら妻に関する記憶を
手放したのではないか? それが意識的だったか無意識的だったのかは定かではないが、本
人と判らずとも娘へはこれほどの慈しみを発揮している姿を見るに、あながち間違った推測
ではないのではなかろうか……?
「七波君。そろそろ」
「ああ。目が覚めたんなら、先生にも報せてこねえと」
「……そ、そうですね。ごめんなさい。みっともないところ見せちゃって……」
ようやく二人が由香に声を掛けられたのは、そこから何十拍も経ってからだった。この親
子の沈黙が定着したのを見計らって、やっとそれとなくアシストに回れる。方便も実際に嘘
ではなかったが、本音のところは彼女を一旦外に出してやりたかったというのが大きい。泣
き腫らして赤くなった目を擦りつつ、由香は二人に詫びていた。
「そんなこと──」
二見が言いかけたが、ここでまた押し問答を始めれば元も子もない。対策チームと共に此
処へ運び込んだ時、一緒に手配してもらった医師からの診断──暫くは絶対に安静にしてい
てくれという言伝を改めて誠明に残してから、三人は一旦アパートの外へと出てゆくことに
する。
「由香ちゃん、本当に良かったのか? もっと自分が娘だってこととか、俺達三人が戦って
ることとか」
「はい……。少なくとも今は、色々話すには早過ぎます。それにお父さんにとっては、今の
ままの方が幸せだと思うから」
『……』
移送以降、ずっと密かにアパートの出入口や周辺をパトロールし続けてくれている一部冴
島隊の面々と軽く手を上げ合いつつ、ゆっくりと深く盛大な溜め息。二見は傍を歩く由香に
そう改めて問うたが、本人の返答は変わらなかった。これには筧も、じっと横目を遣って様
子を窺わざるを得ない。
自分が獅子騎士の一角であること。筧・二見両名がただの知り合いというレベルではない
間柄であること。結局そうした現在の真実も、彼女は誠明に語ることはしなかった。
(幸せ、ね……)
曰く自分が狙われたチェイスの件で、母が狂ってしまった時点で、家族はもうどうしよう
もなく壊れていたのだと。正直筧と二見、オータムリーフにばかり身を寄せるようになって
いたのも、そんな気まずい空間に父と二人っきりで居るのが辛かったからだと。記憶を失っ
てしまうより前の父・誠明は、内心母のことを疎んでいたのだそうだ。
「……お母さんが死んだ事実まで知ったら、お父さんは二度も苦しむことになる。だったら
いっそ、このまま忘れたままにしてあげた方がいいかなって」
「七波君」「──」
だがそんな彼女の発言に、珍しく反発する人物がいた。その心情を慮って多くを語ること
を控えた筧とは対照的に、二見はややあってむすっとした表情でこれを見返したのだ。カツ
ンと数歩先へ彼女の前を塞ぐように躍り出ると、彼は自身、もどかしさに蝕まれるかのよう
に首を何度か左右に振ると言う。
「由香ちゃん……。俺はその考えには賛成できない。辛いのは解る、百も承知さ。でも記憶
ってのは、思い出ってのは、その人自身だ。一人の人間を形作ってきた要素そのものじゃあ
ねえのか? 無くなっちまったら、もう同じ人間ですらなくなる。由香ちゃんは本当にそれ
で良いってのかよ?」
「……」
おそらくその持論は、カガミンことミラージュを失った経験があるからこその主張なのだ
だろう。思い出だけがあっても、肝心の本人がいなくなってしまえば自分の中にしかそれら
はもう存在できない。どれだけ後悔しても戻ることはない。思い出す度に、一人その痛みに
苛まれるだけだ。
彼としては、彼女にそのような思いをして欲しくなかったのだろう。実際由香の側も、明
確に口に出さないだけでぎゅっと唇を結んでいる。己の呵責よりも、他者の安息を願わんと
踏ん張っている。
「許せねえよ……親父さんの記憶を奪った奴は……。絶対に見つけ出してやるし、奴をけし
かけた“蝕卓”の連中も許せねえ!」
「当然だ。始めから俺達は、奴らを討ち滅ぼすことを目的にしている」
改めて今回の実行犯及び主犯格らに義憤を燃やす二見。そんな彼と、とかく自分を押し殺
そうとしてしまう由香を前に、筧は努めて淡々と言う。飛鳥崎の一見して平穏無事な街並み
と、遠くから聞こえる開発の音。しかし実際はこの集積都市のあちこちで、今も少なからぬ
悲劇や狂気が繰り広げられている。
「誠明さんも藤城淡雪も、結局どんな選択をするかは未知数だ。そこを俺達が強いるべきな
のかどうかは分からない。とはいえ、失われたままにしてはおけんだろう。こちらも犯人の
個体を捜す。対策チームの機先を制する。牧野黒斗は──連中の駒になりかけているしな」
元幹部級の情報源というアドバンテージを独占できなかった以上、こちらも急ぎ次の標的
を探す必要がある。正直業腹だが……対策チームらとの共闘という現状を最大限に活かすし
かない。
「行くぞ」
「は、はい!」「……うッス」
コートを翻し、出立しようとする筧と由香、及び二見の獅子騎士。
そんな三人の前方、進行方向から新たな人影が姿を見せたのは──ちょうどその最中の事
だった。明らかにこちらを視認して近付いてくる面々。筧にとっては見覚えのある顔に、彼
は思わず眉を顰めた。突然止まりかけたその背中に、危うく二見と由香はぶつかってしまい
そうになる。
「……っと! 兵さん?」「あの、どうし──」
「嗚呼、やっぱり! 話の通り此処におられたんですね。お久しぶりです!」
赤桐達だった。
やや茶髪の熱血漢っぽい見た目の男性と、片やガタイの良い寡黙な長身男性。そして癖毛
気味なボブカットと、若く親しみ易さを醸し出す小柄な女性。
かつての筧の古巣、飛鳥崎中央署に所属する“電脳生命体対策課”の刑事達である。




