67-(3) 欠けた思い出
(ここ、は……?)
しょぼしょぼと、未だ霞む目を半ば無意識に擦りながら、淡雪は目を覚ました。
気付けば身体はベッドの上、パジャマ姿。どうやら随分と広くゆったりとした家の中らし
いが、見覚えはない。寝かされていたベッドや布団は、品質が良いのか心地良さ抜群だった
ものの。
「嗚呼、良かった。目が覚めたのですね」
そんな彼女の下へ歩み寄り、安堵の表情を向けてくる人物がいた。深黒のスーツ姿、紳士
風のナイスミドル。及び白衣を引っ掛けた老年男性──彼女を診てくれていた医師。
もぞっと布団の中から上半身を起こした淡雪は、何故他人がここにいるのか? そもそも
ここは何処なのか? にわかに疑問が幾つも湧いてきて目を丸くしていたが、視覚情報とし
ては先ず、その襟元に着けられた小さな金細工のバッジが目に留まる。
「あ、貴方達は? 此処は、何処なんですか?」
「……やはり、私のことも憶えておられないのですね。私は扇実光、貴女の後見人を務めさ
せてもらっている弁護士です。こちらは掛かり付け医の安斎先生」
「どうも」
「そして此処は、貴女──藤城淡雪の自宅です。今は亡きご両親が遺された、数少ない財産
でもあります」
「……」
若干の警戒心と、とにかく目に映るたくさんの情報が“何か”を知りたい衝動。
淡雪からの質問に、目の前の紳士こと扇弁護士は、哀しげな微笑みを浮かべて丁寧に答え
てくれた。改めて彼女の名前とこの自宅、それとなく今日まで置かれてきた環境についても
匂わせながら。
「貴方は暫く前、電脳生命体に攫われてしまっていたのです。何とか専門機関の方々に救出
していただけましたが、その時には既に、記憶喪失の状態になられていたと……。あ、電脳
生命体というのはお分かりになられますか?」
「あっ、はい……。ええと、コンシェルが実体化した怪人、でしたっけ……?」
実のところ、彼女の身に起こった仔細は、皆人以下対策チームより多少なりとも引継ぎを
受けている。ただ未だ記憶も混濁している彼女に、一気に全てを話せばパニックになってし
まうだろう──そうした判断もあって、扇弁護士と安斎医師は先ず、ざっくりとした説明に
留めることにしたのだった。
「牧野君も、必死になって保護してくれたそうなんだがねえ……。申し訳ない」
「……マキノ、さん?」
見るからに柔和な、ついでに身体も横にふくよかな安斎医師の発言と謝意。だが淡雪はそ
んな“彼”の名前すらも、記憶を失った今は判らずに小首を傾げる。やはりか……。二人は
どちらからともなく互いに顔を見合わせ、再びと哀しそうな表情をする。
「牧野黒斗君。早くにご両親を亡くし、途方に暮れていた貴女の為に奔走し続けてくれた、
貴女専属の執事ですよ。そもそも私を探し出し、後見人に据えるなどしたのも、彼の尽力が
あってこそです。安斎先生は、昔から藤城家と付き合いのある方ですが」
「うん、うん」
「──」
だからこそ淡雪は、二人から聞かされたその情報に衝撃を受けた。扇弁護士は、彼との出
会い以降からの付き合いとなるので断片的ではあったものの、本来あった筈の記憶を失って
いる彼女に代わってこれまでの様々を改めて教えてくれたからだ。
元々裕福な一族の生まれでありながら、早くに両親を事故で失い、遺された財産を親戚と
いう名の他人に食われ続けた日々。そんな自分を助け出してくれたのが、黒斗という名の執
事だった。彼はまだ未成年である彼女の為に、水面下で状況の打破に奔走──管財において
実績のある扇弁護士との契約や、一方的に遺産を食い潰していた親類・縁者達への法的報復
を実現させていった。そうして今や連中は彼女に手出しすらできなくなり、残り或いは還っ
てきた金額を元に、慎ましく暮らしてさえいれば今後生活には困らない程度の資産を運用・
確保することに成功して現在に至る。
「……あの人が、私の? そんな。なのに私は、彼にあんな酷い態度を……」
記憶喪失のショックも重なっていたのだ、無理もない。扇弁護士や安斎医師が慰めてはく
れたものの、淡雪はじわじわと自身の中に罪悪感が募って頭を抱えた。相変わらず記憶──
彼がそうだったという実感は湧いてこないが、再会第一声からの激しい拒絶を返してしまっ
たのは紛れもない事実。たとえ記憶を失っても、彼女の根っこに在る善性までは変わらなか
ったのだろう。
「か、彼は!? 彼は今何処に!?」
「出掛けとるよ。その間の留守と看病も兼ね、儂らが連絡を受けたというもあっての」
「私達にもはっきりとは話しませんでしたが……おそらく犯人を捜す気なのではないでしょ
うか? どうも貴女の記憶は、誘拐されたショックではなく、件の電脳生命体に奪われた可
能性もあるとかないとかで……」
「──」
淡雪は愕然とした。ようやく理由を知ったのに、謝りたかったのに。自分を救出してくれ
た専門機関もある。流石にこのまま帰って来ないというのは、できることなら考えたくない
可能性だったが、先の罪悪感も相まって不安で不安で仕方ない。
「ちなみに淡雪さん。犯人の顔は?」
「お、憶えていません……」
「だよなあ。そうでなきゃあ、記憶を消したって線の場合の意味がない」
「そうですね。もし何かしら手掛かりがあれば、先方に情報提供もできたのですが……」
念の為、といった感じで訊ねてくる扇弁護士に、淡雪はふるふると小さく首を横に振って
いた。攫われたと言われる当時のことを思い出そうとしてみるも、本当に記憶が空っぽで真
っ暗で、何も分からないのだ。とはいえ二人とも、その辺りは案の定といった様子で特段責
めて来などしない。寧ろ一緒になってどうしたものか? と、思案してくれる。
「まあ、とにかく今は、ゆっくり休みなさい。目が覚めたとはいえ、何日も化け物どもに捕
らわれていたんだ。肉体も精神も、まだまだ君が思う以上に疲弊している筈だよ。後のこと
は周りの大人達が何とかする。牧野君の為にも、先ずは回復に専念するように」
「はい……」
そうして再び安静にしていろと、安斎医師に診断・指示され、淡雪は内心戸惑いを抱えな
がらもベッドに潜り直すこととなった。扇弁護士も彼の判断には強く賛同し、一緒になって
慰めてくれる。「何かあれば、すぐ連絡して欲しい」やがて二人は、連絡先を記した名刺や
メモをサイドテーブルに残すと、一旦彼女のいる部屋を後にしていった。
(……黒斗、さん)
にわかにしんとし始めた室内。淡雪は俯き加減でベッドに潜ったまま、独り彼に関する記
憶を辿ろうとしていた。その度ズキッと痛む拒否反応も構わず、そうでもしなければ罪悪感
で潰れてしまいそうだったから。
だというのに……思い出せない。扇弁護士が聞かせてくれた自身の半生、これまで黒斗と
歩んできた日々をどれだけ記憶の引き出しから取り出そうとしても、まるで該当する脳内映
像が黒く“切り取られた”ように欠けてしまって視えず──。




