64-(0) 離間
帰るべき場所に、迎えてくれる人がいないだけで、どうしてここまで不安という心理に駆
り立てられるのだろう。
「っ!?」
陽が落ち、明かりも落ちたままの藤城邸で、黒斗は突如として鳴り響いた電話の音に思わ
ず振り向いた。人気を失った暗がり、通路奥のリビングにある筈の固定電話。最初彼は数拍
躊躇いを見せていたが、次の瞬間意を決して靴を脱ぎ捨てると、玄関口から家の中へと駆け
入った。急かすように、延々と鳴り続ける受話器へと手を伸ばす。
「……もしもし」
『ほほ。ようやく出おったか。長いものだから、居留守でも使っとるかと思ったぞい』
電話の向こうから聞こえてきたのは、一人の老人の声。黒斗はその人物の声に、正体に覚
えがあった。相手の出方を窺う為にも、先ずはじっと慎重を期す。
(確か、こいつは“海外組”の……)
以前米国からやって来た、シンと旧知の仲らしい男が引き連れていた個体達の一人だった
筈。少なくとも、目下この状況と併せて考えれば、碌な用件ではないだろう。
『牧野黒斗。いや、ユートピア。お主、先の第四倉庫での作戦中、わざと額賀二見と七波由
香を呼び寄せたな? 不意の事態を装って、守護騎士達に付け入る隙を与えたろう?』
「──」
バレている。言葉こそ発さなかったが、黒斗は内心焦っていた。
一体何時から? 獅子騎士の二人に道すがら接触した時か? 或いはもっと以前から、自分
が裏切る可能性があると目を付けてられていたのか。
『その沈黙は悪手じゃぞ? まあ、お主がどう抗おうと変わらんがな。既にこちらの市中に
も、多くの“株”が潜んでおるからのう』
ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ!
老人、海外組の一人がそう悪辣さを以って嗤う。どうやら後者らしい。無理もないかと黒
斗は静かに眉根を寄せていたが、直後その表情は全く別の理由でもって深刻さを増すことに
なる。
『じゃが……流石に今回ばかりは見過ごせぬ。結果、大事な駒一つが失われたからのう。も
うこれ以上、利敵行為は許されぬと知れ』
飄々としていた声色が一変、暗い害意を含んだそれへと変わった。ゴソゴソ、電話の向こ
うで何かが接近──引き寄せられるような足音がしたかと思うと、彼は黒斗に向かって言い
放つ。
『藤城淡雪』
「ッ!?」
『お主の繰り手だった娘を預からせて貰った。逆らえば……解るな? 今度こそ、儂らの為
に働いて貰う』
『むぐ、むぐ……!? 黒斗、黒斗……!?』
「淡雪! っ、貴様ァッ!!」
『ふん。やはり色欲がお主の本性か。……お主が悪いんじゃよ? 所詮はこの娘の飯事だろ
うに』
「──ッ」
家の中が真っ暗だった時点で、もしかしてとは思っていた。だがそれが目下、自分達にと
って最悪の形で訪れたということを、黒斗は否応なく突き付けられた。電話の向こう、人質
として捕らえられた淡雪の悲痛な声に、彼は弾かれたように激昂する。昂って、しかし次の
瞬間には、老人からの吐き捨てるような台詞に己の感情をぐっと呑み込んだ。……今こいつ
と事を構えようとすれば、間違いなく彼女は消される。
『……それで良い。何、こちらの要求さえ満たせば、娘は返してやる。元々それが、お主が
“七席”の座を引き受けた条件でもあるからのう』
怒りと絶望の狭間、感情の乱高下。黒斗は目を見開き、受話器を耳に当てたまま、じっと
全神経を一連のやり取りに集中させていた。
解っていた筈だ。いつかこんな時が来ることは。偽りの日々だったことぐらいは。
協定を結んだからといって、絶対に「安全」な訳じゃない……。
「……条件は?」
実際の所、交換条件とは名ばかりの、強制的な命令であるのだろう。
嗚呼、そうだ。黒斗は思い出す。元より自分達に、人間として生きることなど許されてい
なかったではないか。設計など、されていなかったではないか。
ヒッ、ヒッ、ヒッ! 電話の向こうで、老人はほくそ笑みつつ言う。
『知れたことよ。今度こそ、守護騎士達を殺せ。殺り損なっても、手加減なり策なりを弄そ
うとも、娘の命は無いと思え──』




