36-(3) 私という意味
私と契約を果たしてからというもの、彼女はどんどんその力にのめり込んでいるように思
える。事ある毎に私をデバイスの中から呼び出し、目の前の世界を停止させ続けた。
だから最初、私にとって世界とは、常に誰一人停まって動かないものだった。モノクロな
色彩に全てが染まり、前に進むことを強制的に禁じられた世界。尤も当の本人達は、時間を
停められたということ自体、知覚する術はないのだけど。
まさに彼女は、私に頼りっ放しだった。私が身につけたこの能力を、自分に与えられたも
のだと勘違いして。
『ふふ、ふふふ……。凄いわ、凄いわ! これで私はもう、怯えなくたっていい!』
……だから、いつしか私の中にはある“感情”が芽生え始めていた。
最初はただ淡々と、契約内容に基づいて力を行使する。それ以上でもそれ以下でもなかっ
たのに、停止した灰色の世界を狂喜しながら闊歩する彼女を見ている内に、どうやら私も変
わってきたらしかった。
……面倒な繰り手だ。何と意味のない契約を結んでしまったのだろう。
そこまでして周りの人間が憎いのならば、始末すればいいのに。その方が確実で、私とし
ても、より短期間でこの現実に影響力を残せる。
何よりも、何故そこまで“大人”になることを拒むのか?
私達と人間では勝手が違うのだろうが、それは即ち実体を手に入れるということだ。進化
するということだ。他者というサンプルを経て、自らを改善することではないのか?
……時を停めている間は、他人の嫌な言動を見なくて済む。ただ自分一人だけが、そんな
時の流れに食われなくて済む。
だがそれは、結局“逃げ”の一手に過ぎない。単なる慰みだ。私の能力にも限界はある。
能力を解除して、時が再び動き出せば、彼女もまた決して逃れられないその流れとやらに身
を委ねる他ないのだ。私達は皆、進むのだ。
『──』
私には、予めプログラムされた存在である私達には、理解できない何か。
だがそれでも、そんな彼女の姿を繰り返し繰り返し見つめ続けていく中で、私にもいつし
かそのような“感情”が生まれ始めていた。即ち“疑問”が芽生え、膨らみ続けていた。
それは最初ぼんやりとしていて、しかし徐々に召喚されるに応じて、実体を確立してゆく
につれて固まっていったもの。自覚していったもの。
『これでいいわ。さあ、楽しみましょう。いらっしゃい、私だけの世界!』
何十回目かの時間停止。例の如くモノクロに染まって微動だにしなくなった世界の中で、
私達はその夜も、とあるビルの屋上に立っていた。街を見下ろしていた。
彼女は、やはり嬉々としている。今や寧ろ、普段の生活よりもこの一時を待ち望むように
なり、依存度を強めていた。片手に私の真造リアナイザ、もう片手を灰色の空に掲げ、もう
機械の私でさえも「狂った」と表現できるその横顔で、軽やかにステップを踏む。
(……?)
そんな時だ。ようやく私は、その最中で自分が実体化を完了させたことに気付いた。例の
如く闊歩する彼女を遠巻きの視界に捉えておきつつ、ぎゅっと何度か自身の手を握ったり開
いたりしてその感触を確かめる。
……ようやくだ。ようやくこれで、私も自由になれる。
そしてこの瞬間やっと、私は理解したのだった。それまで彼女に、自分のやってきたこと
に対する感情──虚しさと表現できる疑問の正体を、ようやく掴むことができたのだった。
──何故私は、進化しなければならなかったのか?
──何故私は、生まれてきたのか?




