32-(3) 確証への道
冴島から差し出されたデバイスに、筧は最初警戒心と戸惑いとで渋面を作った。日の暮れ
始めた路地裏の一角で、彼は何もアイコンもなく、ただ『司令』と表示された着信画面をじ
っと見つめて押し黙っている。
今日に限ってやって来て早々、手持ちのデバイスを渡してきた冴島と数名の隊士達。
ここ暫く彼らが尾けてきている──勝手に自分を護衛していることは筧もとうに気付いて
はいたが、かといって追い返す訳でもない。その為の労力と時間さえ惜しかった。それより
一刻も早く、由良の行方の手掛かりを見つけたかった。見つけなければならなかった。
「……もしもし」
それでも、冴島達にじっと眼で促され、筧は渋々ながら着信に応じた。
すると電話の向こうから聞こえてきたのは、先日言い争ったあの少年の声だったのだ。
『こんにちは、筧刑事。どうです? 捜査は進んでいますか?』
「お前か……。そう言うんなら、回りくどい事させるんじゃねえよ。相変わらず舐め腐りや
がって」
相手が少年だからと遠慮するつもりはない。筧は返答一番、そう憎まれ口を叩いた。
俺は忙しいんだ。用が無いなら切るぞ──そう言うや否やデバイスを頬から話そうとした
が、次の瞬間電話の向こうから少年の、皆人のフッと真面目になった声音が聞こえてくる。
『何も無くて連絡はしませんよ。今日は貴方に、伝えておかなければならないことが幾つか
ありまして』
「……?」
聞こえた言葉に、再びデバイスを耳元へ。
皆人曰く、自分を襲った例の“唇のアウター”以外に、新たな個体が現れたのだという。
その姿や召喚主は現在の所不明。だが何よりも厄介なのは、そのアウターが“時間を巻き
戻す”能力を持っているらしいということ。
『気付いてはいないと思いますが、もう既に九回、この七月三日という今日は繰り返されて
いるんですよ。……そちらも、同じ捜査に何度も汗を掻くのは無駄な労力でしょう?』
何? 筧は思わず眉間に眉根を寄せた。そんな話、にわかには信じられなかった。
ただ、自分はとっくにその“常識”を越えた現象や存在を何度も目撃している。一体どう
いうカラクリなのかは知ったこっちゃないが、あり得ないなんてことはあり得ない。
何よりも、その後皆人が電話越しに話して聞かせてきた内容が、その証拠だった。
今日一日飛鳥崎内外で起こること、未だ一般にはプレリリースされていない事件の発生な
どについても、彼は一つ一つ事細かに列挙してみせたのだ。筧は静かに目を見開く。それら
の中には、自分のような当局関係者でなければ知りえないような情報も含まれていた。
「──鉄パイプの下に、血文字?」
いや、それ以上に。
彼は今の筧にとって核心的な情報を提供してきた。ちょうど自分が文字通り、地べたを這
いつくばって探している由良の痕跡が、この路地裏の物陰に隠れているというのだ。
半信半疑のまま、筧はデバイスを冴島に突き返すと、言われた通り辺りを見渡してみた。
路地裏の一角で崩れたままになっている鉄パイプの山へと歩いていき、これをひっぺ返し始
める。するとどうだろう。そこには、灰色に褪せた地面の上に不自然に付いた赤い痕──三
つの血文字が残っていたのだった。
「まさか、本当に……。AS、L……?」
冴島達も後ろから覗き込むようにこれを見守り、その場に屈んだ筧はごくりと息を飲み込
んでいた。その三文字目はやけに横棒が短い気がするが、明らかに何者かが描き残したアル
ファベットだ。数拍たっぷりと釘付けになり、渋面を濃くし、筧はついっと肩越しに冴島達
を見遣って言う。
「一応訊いておくが……。お前らの仕込みじゃねえだろうな?」
『まさか。違いますよ』
「だったとしても、わざわざ教えるメリットなんて無いでしょう?」
皆人達曰く、自分は“過去の七月三日”にこれを見つけていたのだという。言われても筧
はまるで覚えがなかったが、実際こうして目の前に、由良のダイイング──彼に繋がるかも
しれないメッセージが残されていたのだ。どうやら時間を巻き戻す怪人とやらは存在するら
しい。確かに“結果”を知る彼らからすれば、自分の毎度の必死さは滑稽に映るのだろう。
「……言っとくが、渡さねえからな?」
とにかく、由良に繋がるかもしれない手掛かりは見つかった。筧はジロリと冴島達を睨ん
で牽制しつつ、この血文字を自分のデバイスで撮り、予め持参していた綿棒とシャーレを使
ってサンプルを採る。冴島達は後ろで見てこそはいたが、それ以上何か邪魔をしてこようと
はしなかった。本当に、あくまで繰り返す発見がじれったかったのか。何だか高みから見透
かされているようで、気分のいいものじゃない。
日も暮れたことで筧は一旦冴島達と別れ、署に戻った。
忙しなくも、すっかり暗くなった署内を一人こっそり歩き、彼はこの血文字のサンプルを
鑑識課の知人に持ち込んだ。予め内々に連絡を取り、残業で一人になっている所へひょいっ
と顔を出す。尤も当のこの壮年の鑑識官は、断り切れずともあまり関わり合いになりたくな
いといった様子だったが。
「へえ……これが桜田町の裏路地にねえ。で、誰の血か調べて欲しい、と」
「いや。誰かというよりも、由良の血かどうかを調べて欲しい。もしあいつの血なら、当日
あいつがあそこにいたっていう証明になる」
そして何者かに、血を流すほどの攻撃を受けた証明になる──。
筧は、その最後のワンフレーズは、きゅっと唇を結んで口にはしなかった。脳裏に浮かぶ
のはあの唇のアウターだ。まさか目の前の知人に奴らの存在を口外する訳にはいかないし、
まだ……由良のものだと決まった訳じゃない。
「こいつを比較材料に使ってくれ。由良の私物だ。アパートの大家に頼んで、幾つか部屋か
ら持って来た」
そうして代わりに鞄の中から取り出したのは、ビニール袋に包んだ歯ブラシや箸、コップ
といった由良の日用品だった。つまりは彼の唾液──DNAが付着している可能性が大きい
代物である。
「ええ、調べてみましょう。他ならぬ兵さんの頼みですからね。……噂には聞いてますよ。
本当に、行方不明になっちまったんですか?」
「……それも含めて、明らかにする為に頼んでる」
筧は決して明言はせず、しかしぎゅっと渋面を作らざるを得なかった。それが何よりの返
答であって、この壮年の鑑識官も神妙な面持ちになる。
明らかに危険な香りのするヤマ。密室の中でのやり取り。
『……』
そんな鑑識課の部屋、外の壁にじっと背を預けていた角野と円谷が、次の瞬間音もなく身
を起こすと立ち去って行き──。




