32-(2) 崩れた均衡(後編)
──これは一体、どういうことだ?
何度目かの七月三日、繰り返してきた七月三日。目の前に広がる光景は、もう全て僕の見
知ったものばかりの筈だった。僕だけが知っている筈だった。
なのに……“今日”になって急に事態に変化が訪れた。そこで起こる筈だった“いつも”
が、今回に限って起こらず、別の形に向かっていったんだ。
最初の変化は、うちのクラスメートの佐原。普段からへらへらと、ぼーっとしていて掴み
所のない奴だったが、今朝に限ってあいつがヒソヒソと友人──三条と何やら相談して廊下
に出て行ったのだ。一緒に登校してきた天ヶ洲と青野(確か佐原の幼馴染だったと記憶して
いる)も妙にそわそわして二人の耳打ちを見ていたような気もするし、あいつらに何かあっ
たのは気のせいじゃない。
何より明確になったのは、次の──昼休みのことだ。
いつも佐原達は、中庭で弁当を広げている。それは教室から見下ろせば簡単に確認できた
これまでの日常だ。
なのに、今回に限ってあいつらは中庭に集まらなかった。どうも別の場所──部室棟に向
かったらしい。以前、大江の部活がどうのこうのという話があったし、気が付けばあいつも
つるむようになっていたので、その縁か。とにかく普段とは様子が違っていた。他の人間に
とっては同じ七月三日──何もかもが繰り返される筈なのに、あいつらはそのパターンから
逸脱する行動を取り始めたんだ。
……いや、佐原達だけじゃない。
じっとよく観察してみれば、クラスの中にも外にも、ちらほらと最初の頃とは違う言葉や
行動を取っている奴が現れつつある事が分かった。尤も佐原達を含め、その事に気付いてい
るかどうかは分からなかったけれど。
巻き戻しの筈じゃあ、なかったのか?
僕は内心困惑していた。てっきり丸々同じものになると思っていたのだが、もしかしたら
繰り返す内に、わずかな因果やら何やらにズレが生じてくるのかもしれない。佐原達もその
一例に過ぎないのか? ただ最初に目に付いたのがあいつらなだけで、そこから僕が改めて
周りを確認し始めたからで、こうした変化は本来「誤差」の範囲なのか?
だが……そうは言っても、僕自身は“違う”ようには振る舞えない。振る舞う訳にはいか
ない。なまじこのループを起こし、自覚している分、大きくその言動を変えればこの“七月
三日”自体が大きく変質してしまう恐れがあったからだ。最悪、取り返しのつかない状態に
固着してしまう可能性がある。
もどかしい。
折角、繰り返せるように──時間を無限に取れるようになったのに、いざ蓋を開けてみれ
ばこうも“自由”が効かないなんて。僕にできることは、この七月三日を繰り返し、それが
変わっていないことを確認する。ただそればかりだったんだ。
……まさか、自分以外にこのループに気付いている者がいる? 佐原達や、他の連中が?
考えて、それこそ恐ろしくて堪らなかった。やっと手に入れた自分だけの世界を、じわり
じわりと壊されているかのような錯覚に苛まれた。ただの偶然? いや、意図的に? 確か
めようにも僕が行動を起こせば、それこそ本末転倒になってしまう。均衡が壊れてしまう。
『検証:世界はループしている説』
加えて、ふと眺めていたネットの中に、そんなスレッドが立っていたのを見た時には正直
ギュッと心臓が握り潰されるかのような思いだった。
恐る恐る読んでみると、内容はいわゆる都市伝説・陰謀論──世の中で成功している者と
そうでない者がいるのは、前者が予め未来を知っているからだというある種の嫉妬に基づく
妄想の駄文でしかなかったのだが、今の僕には妙に疑われているような心地がして真正面か
ら笑い飛ばすことができなかった。続くレスポンスには、話半分でスレ主を哂っているもの
もあれば、悪ノリして予知めいたことを書き込んでいるものもあったが、もしかして……と
今の僕は思わざるを得ない。
……失いたくなかったんだ。この七月三日を。
だから僕は、ぐっと堪えてきた。大きな行動を取ることを控えてきた。最初の頃に辿った
“自由”を反復し、変わっていないことを確認する。街には同じ世界の人間達が溢れている
のに、僕だけが特別──取り残されてしまったような気がした。
こんな筈じゃなかった。もっと余裕ができると思った。自由になれると思った。
だけど結局、こんな思いをするのなら、窮屈になるのなら、願わなければよかった……。
「──貴方が二宮馨ね?」
なのに現実は、とことん僕にそっぽを向こうとするらしい。
その何回目かの七月三日、下校中の僕に、ひょいっと見知らぬ人影が近付いて声を掛けて
きた。いわゆるゴシックロリータな服装に身を包んだ、如何にも気の強そうな女の子と、僕
より少し年上の、死んだような目をした男子だった。
僕は思わず身構え、じりっと後退った。鞄の中に入っているリアナイザを引いてしまおう
かとも考えたが、街中は拙い。周りを行き交う人々は、それでいて何処かそれぞれあさって
の方向を向いているかのようで、僕らに気付いてすらいない。
「妙な動きはするな。別に、取って食おうって訳じゃない」
「そうよ。結構捜したんだから」
死んだような目の男子が、ぽつりとそんな僕を牽制し、ゴスロリ服の女の子の方がそう音
もなく距離を詰めて来ながら言った。見た目の割には随分と尊大な──年季の入った口調。
もしかしたら実際の年齢はもっと上なのかもしれない。軽く小首を傾げ、フッと小さく口元
に気だるくも不敵な笑みを見せながら、彼女は告げる。
「……初めまして。《昨日》の、繰り手君?」




