31-(4) 七月三日の風景
「ん、う……?」
カーテン越しに届く朝の光に、睦月はゆっくりと目を覚ました。耳には断続的なアラーム
音が鳴り響き、いつの間にか沈んでいた意識を揺さ振ってくる。
もぞもぞと何度か布団の中で身を捩りながら、睦月は枕元に置いていたこのデバイスに手
を伸ばした。タップして確認した画面には『07.03 AM6:30』の文字。その同じ
片隅からは、パンドラがまだ夢見心地で寝返りを打ってくるのが見える。
「ふあ……」
寝惚け目を擦りながら起き上がると、睦月はもうすっかりルーティン化した動線でもって
身支度を始めた。寝間着から制服に着替え、パンドラごとデバイスと鞄を引っ掛けて一階へ
と降りてゆく。
荷物を一旦台所の椅子に置いて、顔を洗ってきてから、睦月はいつものように三人分の弁
当作りに取り掛かった。尤も作業自体は昨夜の内に炊いておいたご飯とおかずの取り置きを
詰めるだけ──なるべく手っ取り早く済ませられるように準備してあるため、そう難しい作
業という訳ではない。
『おはよう。むー君』
そして、やはりいつもの如く頃合になると、インターホンから海沙の声が聞こえる。返事
をして合鍵で入って貰うと、彼女は早速朝食の用意を始めてくれる。
トーストと目玉焼き、あとはその日余っている食材でサラダなどを添えて。
自分と幼馴染達の分の弁当、朝食の用意がそれぞれ終わると、睦月と海沙はテーブルに向
かい合って座り、束の間の食事を摂り始めた。
それはいつもの光景。互いに「いただきます」と、ポンと手を合わせて微笑む姿。
他愛のない雑談だった。今日もやっぱり、ソラちゃんは寝ぼすけさんなのかな……? 静
かに差し込む朝日の中で、二人はそう慣れ切ったようにこの一時を過ごす。ごちそうさまで
した──その後は手分けしてサッと皿洗いをする一方、海沙がまだ寝ているであろう宙へと
電話を掛けて知らせてあげている。
『……?』
唯一テーブルの上に置かれていたパンドラが、何だか難しい表情をして辺りを見回してい
た点を除いては。
戸締りをし、二人して家を出て、向かいの宙の家へ。
いつものように、起きてきた彼女にも今日の分の弁当を渡し、三人揃って学園へ。住宅街
から堤防道、正門へと続く並木の表通りへと場所が変わっていっても、特にこれといって大
きな変化がある訳でもなく、他の生徒達が歩いてゆく。自転車に乗って通り過ぎてゆく姿ば
かりが視界に映る。
昇降口からクラスの教室へ入り、皆人や國子、仁とも合流を果たす。
これらが一連の朝の流れであった。睦月達全員が同じクラスになって以降、もうすっかり
この面子が揃わなければ違和感があるというくらいに、その光景は当たり前となり過ぎて。
「──このように、先ほどの数式を当て嵌めれば、ここまで式を分解することができる。後
は各項毎に解を出して証明完了だ。……ここ、今回の範囲だぞ? 重要単元の一つだから、
落とすと痛いからな?」
そして朝のホームルームも割合あっさりと終われば、後は授業に次ぐ授業の連続だ。
半ば叩き付けるように、黒板にチョークの数式が書き込まれてゆく。如何にも生真面目そ
うな眼光の数学教師が、いつも以上に熱の篭もった解説を続けている。
その理由は、十中八九期末テストが近いからだろう。集積都市の──国立の一貫校でもあ
る飛鳥崎学園は、この国の未来を担う人材の育成に力を入れている進学校の一つだ。競争・
上昇志向を肯定する今日の社会の気風が合わさり、必然と此処にはそれに馴染む教職員や生
徒達が集まる。
「……」
尤も、その中には勿論例外──そのがっついた意識についてゆけない者もいて……。
睦月などはまさしくそんな層の一人だった。国立校という区分の意味自体は理解している
つもりだが、彼にとっては「近かったから」がその一番の理由だったりする。現状、そうい
った面々といわゆる意識の高い面々とは半々といった所か。されど学校全体の空気自体が後
者に味方しているのもあって、外部からはやはりその肩書きに恥じない学校であると認識さ
れている。
この数学教師の念押しに、少なからぬ生徒達が必死にノートを取っていた。その意図する
しないに拘わらず、学校とはそういうものなのだと。総じてピリピリとする空気の中、授業
は進み、そしてやがて終了を告げるチャイムが鳴り始める。
「──ねぇ皆人。やっぱり──あんな」
「──売り言葉に──。僕ら──ままなんだよ?」
教師が手早く教材をまとめて教室を出てゆくのとほぼ同時に、睦月は前の席に座る皆人に
何やら話し掛けていた。休み時間に入ったが故のざわめきと、単純に距離が離れているせい
か、その全容までは聞き取れはしなかったが。
「……」
そう、こちらからでは離れている。
この時睦月達は気付いていなかったが、同じクラスの中に、そのひそひそ声のやり取りを
眺めていた人物がいたのだった。
名前は、二宮馨。銀縁の眼鏡をかけ、如何にも秀才といった風貌をした、睦月達のクラス
メートだ。直接交友こそなかったが、彼はこの日睦月が何処か上の空で考え事をし、授業が
終わるや否や、すぐ前の席の皆人に声を掛けているのを見た。ちらりとその最中に、確か幼
馴染だと記憶している女子二人がこれを遠巻きに見ているらしいさまも確認していた。
(……やっぱりだ)
ゆっくりと、静かに見開いた目。
そんな彼が表情に貼り付けていたのは、驚きと戸惑い、そして何よりも限りなく“確信”
に近い、とある感触だったのである。




