30-(3) 胸騒ぎ
由良が欠勤し始めてから三日が経とうとしている。この日筧は一人、彼が住んでいる筈の
アパートを訪れていた。
大通りから外れた、奥まった路の中ほどに位置した五階建て。少し外観が古びているので
安上がりだったのだろう。エレベーターは無いようだ。一度ちらっと上階まで見上げ、筧は
一人ゆっくりと、中央から左右に分岐するタイプの階段を昇り始める。カンカンと、年季の
入った金属製の足場が喧しく音を立てる。
(三〇三、三〇三……あった。ここか)
由良の部屋は、三階の中央やや左寄りの一室。筧は表札も何も出ていない殺風景な扉の前
に立つと、ノックする前にざっと周囲を観察していた。職業柄の癖である。
正直言って、筧は怪しんでいた。あの根の真面目な由良が、二日酔いなどという安っぽい
理由で仕事を投げ出すとは思えない。尤も、本当に自分が酔い潰してしまったという可能性
もなくはないが……それにしたって三日も休んでいるのは不自然だ。
初日の連絡だって自分にではなく、部長に来ていた。しかもメールの短い文面のみだ。翌
日からはこちらにも連絡を寄越すようになったが、どうもおかしい。大丈夫か、何かあった
のかと訊ねても『大丈夫です』『疲れが出ただけです』等の一点張り。
……嫌な予感がした。それに、相棒として直属の上司として、このまま放っておく訳には
いかないだろう。直接顔を見るまでは安心できなかった。
「おーい、由良ー! 起きてるかー?」
チャイムを鳴らし、数度ドアをノックしてから気持ち大きめの声で呼び掛ける。
だが、中からは全く返事がない。うんともすんとも言わない。深く眉根を寄せて改めて何
度かノックをし、チャイムを鳴らしてみたが、室内は物音一つせずしんとしている。
「変だな……」
まるで壁と話をしているような気がして、筧は思わず渋面を浮かべた。ドア下の郵便受け
を見てみる。少なくとも、何日分も溜まっているような様子は──いや、そう言えばあいつ
は電子版で済ませているんだっけ……。
「疲れてるにしても、よっぽどだぞ」
ついごちる。別々にヤマを追わせていたのが、それほどあいつの心身に負担を掛けてしま
っていたとでもいうのか。
(……?)
そんな時である。ふと、階段の下からこちらへ青年が上って来た。コンビニの袋を手に提
げている所を見ると、昼飯でも買って来たのか。向こうも筧の姿には気付いていたようで、
何処かおっかなびっくりな様子で警戒し、鍵を取り出して自室のドアを開け始める。
隣だった。由良の、三〇三号室の隣人であった。
「すまん、ちょっといいか?」
故に、筧はここぞと言わんばかりに呼び止めていた。自分が由良──この部屋の住人の上
司であるとか、連絡の取れない彼を捜しているとか、そんな余分な情報などは一々出すこと
もなく、筧はこの相棒が戻って来ていないか? ただそれだけを訊ねてみる。
「さあ……? 昨夜は見てないッスけど」
「なら、君が最後に見かけたのはいつだ? 覚えてるか?」
「うーん、どうだったかなあ……。三・四日ぐらい前じゃないッスかね? 俺とは違って朝
早いみたいですから。ゴトゴト出掛ける音はしてたと思いますけど……」
「……。そうか」
ただでさえ猥雑で、旧時代のようなコミュニティが絶滅危惧種のような昨今だ。隣人だと
いっても取れる証言はこんなものか。
青年は、やはり怪訝な表情を浮かべつつも、そのまま自室の中に入って行った。暫く筧は
その背中を見送っていたが、このまま棒立ちになっていても埒が明かないと思って一人踵を
返す。
(……少なくとも、あの日の朝までは普通に出勤してた訳か。本当に、俺が余計な世話を焼
いたからぶっ壊れた? それにしちゃあ、後々の文面が妙に丁寧過ぎる。そんな余裕がある
とは思えないが……)
口元にじっと手を当てる。首を捻ってああでもない、こうでもないと考える。
再び金属足場の階段を下りながら、筧はどうしたものかと思った。どうやら部屋にはいな
いようだ。何処に行ったんだ? まさか、何か事件に巻き込まれたんじゃあ……?
『──』
そんな筧の後ろ姿を、階段の裏側からじっと見つめている者がいた。
杉浦である。人間態の彼は、ゆっくりと筧の歩む速度に合わせて動き出した。階段の物陰
を通った直後に、肉柱と唇の怪物──ライアーに変身する。気配を殺して、思案に集中力を
割いていた筧の背中目掛け、その五指を振り上げて──。




