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サハラ・セレクタブル  作者: 長岡壱月
Episode-30.Control/越境者の条件
227/526

30-(0) 彼の最期

「ぐがッ!!」

 数度目の殴打を食らい、由良は大きく吹き飛ばされた。肺の中の空気が根こそぎ乱暴に押

し出され、口から大量の血を吐く。

 夜闇が伝う路地裏の一角。由良はコンクリの壁に背を預け、荒く肩で呼吸をしていた。

 スーツ姿の全身は既にボロボロで、口元や脇腹、手足などあちこちが血で汚れている。奔

る痛みと共に身体の芯が軋んでいた。どうやら、肋も何本かやられたらしい。

「──」

 そんな彼へと、ゆらり迫って来る影がある。

 怪物だった。寸胴な肉柱のような身体に巨大な唇を貼り付けた醜い怪人──本性を現した

杉浦こと、詐欺師ライアーのアウターである。

「……まさか、あんたが化け物だったなんてな」

「ふん。その割には随分落ち着いているようじゃないか」

 やっとの事で絞り出した声に、ライアーが哂う。由良も必死の苦笑いを浮かべていた。

 だが一方で、その内心では猛烈な勢いで思考を回している。ボロボロの身体に鞭打って、

自分に何が出来るのかを懸命に探ろうとしていた。

 ……この事を、ひょうさんは知っているのだろうか?

 いや、そんな筈はない。だってこれは核心なのだから。今目の前には、一連の不可解事件

の答えと言ってもいい存在が迫って来ている。

 あの人は、騙されていたんだ。こいつとは長い付き合いだと言っていたから、多分何処か

で入れ替わっている。元から化け物なら、そもそも捕まるようなヘマはしないだろうから。

少なくとも数年、こいつはあの人を騙してきたんだ……。

「ま、伊達に何度も目撃してみてきてはいねぇか」

「……?」

 何故それを──。だが由良のそんな思案は、次の瞬間ライアーが呟いた一言に中断させら

れた。一歩二歩、扁平な足を踏み出して近付いて来る巨体。由良が眉を顰めて問う前に、彼

はおもむろにその両手を大きく広げた。パァンと、自身の目の前で音を鳴らして合わせる。

「“この場の俺達に、誰もが気付き、足を止める”」

 最初、一体何をしているのか解らなかった。ただ手を合わせた直後、そうライアーが言葉

を紡いだだけだ。

 その内容とは打って変わって、やはりしんとしている路地裏。

 だが何故だろう。今ちょうど、奴が喋った直後“周囲が歪んだ”ような……?

「これで、よし」

 サッと合掌のように合わせた手を解き、ライアーは呟いた。由良が目を瞬いている間にも

彼はその巨体を揺らし、こちらのすぐ目の前へと近付いて来る。ガシッ。胸元を掴まれて、

由良は彼に片手で軽々と持ち上げられた。じたばたと、反射的にもがくが、相手は全くもっ

て微動だにしない。

「あんたに恨みはねぇが……。ここで死んで貰う」

 もう片方の手が、ギチギチと自分の身体に向かって狙いを定め始めている。由良はいよい

よ終わりかと覚悟した。何でこんな事に。一体誰の差し金なんだ? 何が一番の理由となっ

たのだろう? いや、それよりも──。

「……一つ、訊いてもいいか?」

「あん?」

守護騎士ヴァンガードは……お前達の味方か?」

 だから最期の最期で訊ねた由良の一言に、ライアーは一瞬止まった。止まって、逆上する

ように肉塊な全身に血管が浮き出る。

「はあ!? 何を寝惚けたことを言ってる? 同胞達を殺して回ってる奴だぞ!?」

「……」

 嗚呼、上手く引っ掛かってくれた。由良は酷く安堵したが、同時に酷く自分が可笑しくな

ってしまった。息を詰まらせながらも、フッとその口元には乾いた自嘲わらいが込み上げてくる。

血の痕が伝っている。

 嗚呼、そうか。つまりは自分の杞憂だった訳だ。

 我ながら馬鹿だな。そうなると自分は、結局そんなことの為に死ぬのか……。

(すみません……兵さん……。未熟な俺を、許し──)

 そして次の瞬間、由良の身体をライアーの手刀が貫いた。内蔵から口から、ごぼっと大量

の血が溢れ出る。瞳の色から生気が褪せ始める。「……何が可笑しい」ライアーがそうチッ

と、不機嫌に舌打ちをしながら手刀を引き抜いた。そのまま由良の身体はどうっと壁際の地

面へと崩れ落ちる。

「まぁいい。心配するな。すぐにお前の相方も、後を追わせてやるからよ」

「──っ!?」

 だが、その一言がいけなかった。流れ出る血と共に失せようとしていた由良の命を、内な

る炎を、再びその一言が火を点けたのだった。

「や、めろ……。兵さん、に……手を、出すな……ッ!!」

 地べたを這いつくばりながら、ライアーの脚にしがみ付く由良。

 その最期の抵抗に、ライアーはキッと怒りを露わにした。既に相手は瀕死の重傷で、たか

が人間という侮りがあった。「うるせえ!」すくい上げるように、その拳が由良の胸元から

顔にかけてヒットした。その身体は大きく吹き飛ばされ、近くの立てかけられた鉄パイプを

崩しながら転がり込む。

「……」

 血が止まらない。由良はボロボロになった身体と意識を自覚していた。崩れて転がった鉄

パイプの中に塗れながら、彼はずざり、ずざりと血塗れの腹を押し付けながら進もうとして

いた。……知らせなくては。兵さんに、こいつの正体を。答えは、自分達のすぐ近くに潜ん

でいたのだということを……。

「おっと」

 だが、そんな由良の悪あがきをライアーが見逃す筈もなかった。力の入らない手で懐に伸

ばした手。それをパシッと取って遮り、彼は由良からそのデバイスを取り上げた。取り上げ

て画面をその場でタップし、慣れた様子で操作し始める。

「悪いが、させねえぜ? 時間稼ぎに利用させて貰う」

 操作している様子までは見えなかった。というより、もう身体を起こして見上げる余力す

ら残っていなかった。

 く、そ……。由良はそれでもじり、じりっとその場から這いつくばる。血に塗れた指先を

伸ばし、暗がりに一層隠れた、建物の隙間と隙間に向かってその指を走らせる。

「……」

 伝えなくては。

 朦朧とする意識の中、ライアーが自身のデバイスを弄っている隙を狙い、由良は震えの止

まらないその手で、血の文字を書き始めた。

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