28-(4) 蛇の道は蛇
「──んぅ……?」
知らぬ間にこの意識は乱暴に引き剥がされ、またその目覚めも、自身の生存本能が故に乱
暴だった。
先ず感じたのは全身のだるさ、そして差し込む光の眩しさ。
目を覚ました筧は、どうやら自分が見知った場所──自宅にいることを理解した。畳の上
に敷いた布団に放り出してあった身体を、もぞもぞと動かして起き上がる。窓のカーテンか
ら漏れる光が鬱陶しい。朝か。自分は一体……?
「ぐっ!?」
すると、昨夜の事を思い出そうとした瞬間、頭が痛んだ。まるで脳味噌の奥の一点をピン
先で掻き回され、邪魔されているような、そんな気分。
結局思い出すことは叶わなかった。その度に痛みは繰り返し、酷くなる。もしかして飲み
過ぎたりしたのか……? 思って、そうじゃないと自身に返答する。この感覚は──以前に
も襲われた経験がある。
片手でこめかみを押さえ、もう片方の手で枕元の私物を探る。
脱ぎ散らかしたスーツの上下と使い込んだ旧式のデバイス。財布や警察手帳、シャツの胸
ポケットに入れてあった筈のメモ帳……。
やはり“当たって”いたか。気のせいかもしれないが、以前よりも破り取られている頁が
増えている気がする。デバイス内に仮移ししてあったメモも、何だかパッと見数が減ってい
るように思われる。
……自分の記憶が残っている限りでは、これで二度目だ。どうやら昨夜、自分はまた真実
とやらに近付いていたらしい。そしてそれは、この街の何者からにとっては、知られては不
都合な真実でもある訳だ。
(またしくじっちまったか。次こそは本当、物理的に消されちまうかもなあ……)
布団の上に立ち、ぐぐっと大きく伸びを。
筧はそこで一旦考えるのを止めた。思い出そうと集中するとやはり頭が痛むし、記憶が不
確かなら証拠にもならない。誰かに訴えてみた所で、由良くらいしか、まともに取り合って
くれそうな同業者も思い浮かばない。
悔しいが、また“負け”た。しかしその事実は動かない。
筧は気を取り直して、いつものように身支度を始めた。一旦洗面所へ向かって顔を洗って
歯を磨き、ざっと髪を梳き直してから替えのワイシャツやズボンに袖を通す。警察手帳や件
のメモも忘れずに。悠長に飯を食おうという気は起こらなかった。まぁ途中で惣菜パンでも
買っておけばいいだろう。
「よう。由良」
「あ……。お、おはようございます」
半分思考は日常のルーティンに、もう半分はやはり思い出そうとするが、襲ってくる例の
頭痛と密かに闘いながら。
電車を乗り継ぎ、筧は中央署に出勤した。一課のオフィスには既に由良も来ていて、給湯
室からコーヒーを淹れて戻って来る所だった。見かけて、気安く声を掛けたつもりだったの
だが、当の由良は妙にぎこちなく、目を真ん丸に見開いている。まぁ刑事としてはまだまだ
肝が小さい所などは、別に今に始まった事ではないが……。
「なあ由良。お前昨日、何してた?」
「えっ? せ、瀬古勇の葬儀の、警戒応援を……」
しかし筧は、結局そこまで彼を問い詰めるようなことはしなかった。少し抜け落ちた記憶
を照会する程度で、彼の内心を徒に揺さ振りはしない。昨夜“当たり”があったのならば、
こいつもまた何かしら異変に遭っていた可能性もある。自分もそうだと悟られて下手に気を
回されるのも好かないし、何よりオフィスのど真ん中だ。語るべきじゃない。
「そ、それより兵さんも飲みます? ついでに淹れてきますけど」
「ん? ああ。そうだな、頼む」
その間にも筧は周囲の同僚達に聞き耳を立て、再び給湯室に歩いていく由良を見送りなが
ら、現在の状況を整理しようとした。
瀬古勇死亡という先日の事件に大きな変化はない。メディアはここぞと言わんばかりに昨
夜の葬儀に集まったが、上層部による事件幕引きのシナリオが変わっている様子はない。
……頭痛はしない。ということは、瀬古勇自体が“当たり”ではないのか?
とん、とんと軽く指先でこめかみを叩く。昨夜自分は一体何を知ったというのだろう?
「新通りでゲバ発生! 規模がデカくて応援要請だとよ!」
「西大場の廃ビル、鑑識が出ないって? 何で? 爆発があったんだろうが」
「……」
長らく追っていたヤマが梯子を外された。しかしこの街は相変わらず連日事件発生に暇が
なく、次から次へと飛鳥崎各地から連絡が飛んでくる。
ゆっくり自分のデスクへと歩いてゆき、されど座ることもないまま、筧はじっと暫くそん
な同僚達の忙しないやり取りを聞いていた。
……西大場の廃ビル。確かこの前……。
するとズキリと、頭に痛みが走った。今朝ほどではないが、自らの思考を妨げるように狙
い澄まして襲ってくる。
こっちは“当たり”か。何があったんだっけ? 瀬古勇のアジトらしいと分かって、皆で
ガサ入れに行ったまでははっきりと覚えているんだが……。
「お待たせしました」
ちょうどその時、由良が戻って来た。自分の分と、筧の分をご丁寧に淹れたコップを差し
出してくれる。ん……。筧はちらと視線を向けてやるとこれを受け取った。少し熱いくらい
の刺激が、まとまりの付かない脳味噌へいい感じに発破を掛けてくれる。
「由良。お前、今日暇か?」
「? ええ。聞き込みなら昨日してきましたし……」
言って、由良がハッとなって唇を結ぶのが分かった。筧はそれを確かに見ていたが、特に
追及するでもない。こいつもこいつでコソコソ動き回っているようだが、それよりも今は自
分の成果をリカバリーする方が先だ。
「じゃあ、面白い奴に会わせてやる。出掛けるぞ」
そうして暫くコーヒーを喉に通した後、筧は空のコップをデスクの上に置きっ放しにして
歩き出した。えっ? 由良は不意を突かれ、ぱちくりと目を瞬いて驚いたが、すぐにこれに
倣ってコップを手放し、彼の後へとついてゆく。
二人──筧が向かった先は、街の中心部から少し外れた、裏町にある小さな貸しオフィス
の一室だった、ずんずんと筧はその中を迷う事なく進み、由良は右も左も、目的地も分から
ないままその後に従う。
「杉浦、いるか?」
ノックもそこそこに、筧が看板も掛かっていない貸しオフィスの扉を開ける。ひいっ!?
中から妙に驚き、怯えたような声が聞こえた。
「び……びっくりしたあ。か、筧の旦那。来るなら来るって連絡くださいよー」
そこに居たのは、サングラスに着慣れぬ感じのスーツを着た、どうにも胡散臭い感じの男
だった。どうやら筧とは知り合いのようだが、明らかに彼を警戒して──怯えている。由良
はそのまま中に入ってゆく筧とは違って一応入口の前で立ち止まっていたが、既にやり取り
は、ここに来た目的は始まっていた。
「言ったらお前、逃げるだろうが。大丈夫だ。別に今日はお前をしょっ引きに来た訳じゃあ
ねぇから」
「ああ、当たり前じゃないですかー。俺っちはもう、ご覧の通り日向の道を──」
「兵さん。この方は一体? どうも知り合いみたいですけど……?」
「ああ。紹介しとこう。こいつは杉浦想、詐欺師だ。昔俺が捕まえた奴でな。出所した後は
こうして小さな探偵事務所をやってる」
「元、ですよー! 元つけてください! 第一印象が最悪じゃないですかー。もう足は洗っ
てるんです。ムショでもお勤めはきちんと済ませましたし、今は真っ当なんですよお」
「……どうだか」
ふん。筧は鼻でこそ笑い、この男・杉浦は涙目になって泣きついていたが、声色からして
本気でそう糾弾するつもりではない。由良も彼とは付き合いが長いからよく分かる。いわゆ
る過去の事件から続く人脈といった所か。ちょっと憧れる。歴戦のベテラン刑事となれば、
こんなアウトサイドな方面からの知り合いも増えるのか。
「それで、今日は何ですか? まさか茶化しに来ただけじゃないでしょうねえ?」
「無論だ。今日はお前に依頼を出したくてな。ちょっくら調べて欲しいことがあるんだ」
筧が言う。すると杉浦は「ほう?」とサングラスのブリッジを軽く押さえつつ、それまで
の態度を豹変させた。営業モードという奴だろうか。最初、思わず立ち上がっていたデスク
に座り直し、引き出しから幾つかの書類を取り出しながら筧に続きを促してくる。
「いいんですか? 刑事が、俺みたいなのに協力させちゃって」
「お前、さっきと言ってること違うぞ……。まぁいい。ちと組織内では色々邪魔が入りそう
な案件でな。その意味で、お前みたいにアングラに詳しい人間の方が身軽なんだよ」
「なるほど……」
二人が気付けばすっかり商談の体勢になっていた。由良は筧のやや斜め後ろに立ち、この
やり取りを見守る。筧は懐から一枚の写真──瀬古勇の映ったそれを差し出し、冗談も何も
ない真剣な様子で言う。
「情報屋のお前は知らない訳はねぇよな。瀬古勇。こいつの“本当”の消息を調べてくれ。
まだ何処かに隠れている筈だ。上は被疑者死亡ってことで幕を引きたがってるがな」
「……ほう。こりゃあ随分タイムリーででっかいのを持ってきましたねえ。やっぱ裏があり
ましたか。急だったもんで、妙だなあとは思ってたんスよ」
「流石だな。ああそれと、もう一つ頼まれてくれ。こっちは出来る限りでいい。この春先か
らの守護騎士の出没情報を、地図上に落としてくれ。発言の裏が取れれば大小は問わない」
「了解」
杉浦は、筧から受け取った勇の写真を一瞥してしまい、その手で備え付けてあったデスク
トップPCのスリープ状態を解除した。ブゥゥンと駆動音が小さなオフィス内に響く。カタ
カタと素早く手馴れたキー捌きで、早くも複数の情報らしき記事がポップアップされ始めて
いる。
「支払いはいつも通りで?」
「ああ。連絡があればそっちに送る。期限はとりあえず一週間。状況に応じて期間と、その
分の報酬は積んでやる」
「へへ……毎度あり。任せてくださいよ」
キーボードを叩きながら、杉浦はそう踵を返し始める筧にサムズアップした。対する筧も
肩越しに彼を見遣りつつ、フッと小さく笑いながら「頼んだぞ」と言わんばかりに去り際の
一瞥を向けてくる。
「……兵さんとは、長いお付き合いなんですか?」
「んー、まぁね。多分兄ちゃんよりは長いんじゃないかなあ」
ちょちょいっと片手で退出を願い、杉浦は作業に没頭し始めている。入って来た時も特に
何かしている訳でもなかったことから、どうやら普段はさほど依頼に恵まれているという訳
でもなさそうだ。
「あの、杉浦さん。俺からも一ついいですか?」
「んー? 何だい? 兄ちゃん、旦那の付き添いじゃあなかったのかい?」
だからこそ、由良はぐっと一度唇を結ぶと意を決した。半ば巻き込まれた状況──激流に
身を任せた末の一言だった。筧が先に事務所を後にして階段を降りて行ってしまったのを確
認すると、由良は口を開く。
「三条電機と、警察との繋がりがあるかどうか、こっそり調べておいて貰えませんか?」




