21-(3) 破綻の始まり
──その男の名は、来栖信彦という。
彼は飛鳥崎の郊外にある小さな教会で、住み込みの神父を務めていた。その立地上、終ぞ
賑わいというものには縁はなかったが、近隣の住民達にとっては祈りに没頭できる静かな好
物件であった。
そんな閑静な環境で、まだ若い来栖は人々から慕われていた。薄眼鏡から覗く理知的な姿
と穏やかな物腰は、まさに敬虔な信徒として映っていたのだろう。
……だが、そんな彼にも密かな悩みがあった。それは恋。疎らながらも祈りを捧げにやっ
てくる常連達の中で、彼はとある一組の母子に想いを寄せてしまったのだ。
幼い娘を連れて、彼女はしばしばこの教会にやって来た。見様見真似でポーズを取る娘を
傍らに、彼女はいつも熱心に祈っていた。
切欠は、その敬虔ぶりに心打たれたから。芯の強さに惹かれたから。
来栖はある時この母子に声を掛け、彼女達の抱える事情を知ることになる。
未亡人だった。彼女は早くに夫を亡くし、それ以来、女手一つでこの愛娘を育ててきたの
だという。それ故、心が折れそうなこともあった。だがこうして教会に来て祈りを捧げてい
るとささくれ立った心は癒され、励まされるという。夫を喪ったことは確かに不幸だったか
もしれないが、それでも自分は生きなければならないのだと。天国の夫の為にも、何より娘
の為にも善く生き、育て上げることが自分の使命なのだと。
何度か相談に乗る内、来栖はいつしかこの母子──女性に強く惹かれている自分に気付い
てしまった。決して裕福ではない懐事情、苦難を多く強いる世間の荒波。だが彼女達はそん
な現実を前にしても、必死に生きようとしていた。希望を失わなかった。
しかし聖職者である以上、個人としての共鳴と思慕は切り離さなければならない。何より
もそうでなければ、自分を信頼して話してくれる彼女への裏切りとなってしまう。
(私もまだまだ、修行が足りませんね……)
自ら罰し、哂い、来栖は努めてそんな感情を追い払おうとした。煩悩は己の中から克服せ
ねばならない。自分は神父だ。この身はただ一人ではなく、万人にとっての橋渡し役でなけ
ればならなかった。邪まな欲求のままに関係を深めることは、彼が奉ずる信仰の道とは相反
する行為であるのだから。
……ただ、代わりに彼女達の幸福を祈ろう。この街の人々の幸福を祈ろう。
雑念を振り払うように、来栖は以前にも増して祈りを重ねた。毎日のように祭壇の前に膝
をつき、じっと万人の幸福を願った。
……なのにどうしてだろう? 祈れば祈るほど、集中すればするほど、彼の脳裏にはあの
母子の笑顔が映った。
邪まではない、そう訴えたい。
だが来栖は、それすら御心を欺かんとするように思えてならなかった。その度にぎゅっと
唇を噛み、きつく瞼を閉じたまま、更なる祈りで自分を染め上げようとした。
静かな闘いだった。人知れず、彼は血眼になって克己を果たそうとしていた。
そんな日々の最中だった。
彼という人間を根底から覆すことになる、あの事件が起きたのは。




