20-(5) 高潔なる魂
その日、淡雪は学院に登校していた。表向きは専属の執事である黒斗も一緒だ。
朝日に照らされる長い黒髪、きっちりと着こなした制服──クリーム色の上着と紺桔梗を
主体としたチェック柄のスカートに、鞄。
元よりお嬢様学校である同学院だが、その所作・歩みの姿には物静かながらの華がある。
「おはようございます。お姉さま」
「退院なされたのですね。お身体、大丈夫なのですか?」
「おはよう。ええ、私なら大丈夫。幸い軽くて済んだから……」
わいわい。すると彼女の姿を認めて、あちこちから学院の生徒達(主に下級生)が集まっ
て来た。正面玄関に向かうその歩みに合わせてあっという間に人だかりができ、妙に熱っぽ
い眼差しと黄色い声が飛び交う。
「藤城さん。これ、休んでいた間のノート。良ければ使って?」
「まあ、わざわざありがとう。教室に着いたら早速写させて貰うわね」
中にはクラスメートと思しき生徒も話しかけてくる。彼女は自身が取っておいたノートを
手渡し、淡雪も丁寧に礼を言って受け取る。わいわいと、数日ぶりに学院に出てきた彼女の
周りには人の輪が絶えない。
「……くぅぅ! 来て早々、またあんなにちやほやされて……!」
一方、そんな彼女の様子を教室の窓際から眺めていた者がいた。他ならぬ瑠璃子である。
彼女も彼女で、まるで部下のように何人もの女生徒達を室内に侍らせていたが、それでも
機嫌は墜落前の旅客機の如く斜めだ。悔しさで唇を噛んでいる彼女に、部下の生徒達は迂闊
に話しかけることもできない。
「あいつさえいなければ、あいつさえいなければ、私がナンバーワンなのに……!」
だからこそあの日、リアナイザを差し出してきた二人組の言葉に、自分は乗った。彼らの
話した通り、引き金をひいた瞬間、自分にはムスカリという強力な力が手に入ったのだ。
……なのにだ。にも拘わらず、ムスカリの毒粉は肝心の藤城淡雪には効かなかった。結果
その場に居合わせた他の生徒達ばかりが次々と倒れ、集団搬送騒ぎとなった。家の力で搬送
先を調べ、今度こそ直接ぶち込んでやろうとしたのに……。
(あいつよ。あの黒斗って優男も、ムスカリと同じだった! きっとあいつの仕業ね。あい
つがいたから、毒粉も効かなかったんだわ)
窓ガラスに触れていた掌、両手の指先がギチギチと立てられる。思い出すだけでも腹立た
しかった。直接の襲撃は失敗し、更に訳の分からない邪魔者まで現れて、自分達は逃げ帰る
ので精一杯だった。
……許せない。自分にここまで恥をかかせるなど。思い通りにならないなど。
一体何を企んでいるのか? しかしのこのこと登校してきた以上、無事で家に帰られると
は思わないことだ。今度こそ、ムスカリの毒に中ててやる。その余裕綽々な善人面の化けの
皮を剥がさせてやる……。
「失礼。東條様はおられますか」
「──ッ!?」
だからこそ、背後から掛けられた声に瑠璃子は驚いた。
黒斗である。ついさっきまで外の淡雪の一方後ろを歩いていた筈の彼女の執事──怪物が
この部屋の入口に立っていたのだ。
部下の生徒達も、一人二人とそのことに気付いて困惑していた。だが用件が瑠璃子だと告
げられたことで、戸惑った視線は半ば反射的にこちらに投げられる。
(どういうこと? ……そうか。あの時のワープさせられたみたいな能力……)
唯一彼の──羊頭のアウターの力を経験していた瑠璃子だけが、混乱する思考の中でその
からくりの理由に辿り着き得ていた。あくまで表面上は平静を装い、気丈に彼を見上げてこ
の来意を伺う。
「ええ、ここに。何の用かしら? 藤城さんのナイトさん?」
「……お嬢様から伝言です。貴女に話したいことがある。三限目の休み時間、第二講堂で待
っていると」
それみたことか。一応どんな策を打ってきても大丈夫なようにリアナイザを忍ばせ、瑠璃
子は指定された休み時間、人気のない予備の講堂へとやって来ていた。
鍵が開いている。観音開きの出入口を開くと、中には淡雪が一人じっと舞台の下に立って
待っていた。……例の執事はいない。それでも用心しながら、瑠璃子は彼女の方へと近付い
ていく。
「お待ちしていました、東條さん。この前、メディカルセンターで会って以来ですね」
「……ええ」
「今日は、改めてお話があってお呼び立てさせていただきました。……何故かは、敢えて訊
きません。ですがもうこんな事はやめて下さい。もうこれ以上、無関係な人達を巻き込まな
いで!」
「ふん。あんたのせいよ。あんたが素直にこの子の毒を受け入れないから! あんたさえ倒
れてくれれば、私もあんな無駄な手間と労力を掛けずに済んだのよ!」
ムスカリ! 淡雪の訴えに、瑠璃子は鼻で笑い、激情のままに叫んだ。同時に懐からリア
ナイザを取り出し、引き金をひいてブツブツ顔の葡萄色のアウターことムスカリ・アウター
を召喚をする。
明確な敵意だった。やっかみと、憎しみだった。
しかし淡雪は唇を結んだまま言い返すことすらしない。じっとその場に立ち、害意に歪ん
だ瑠璃子の姿を見つめている。
「お互い同じ力を持っているから穏便に……とでも考えたんでしょうね。甘いのよ! 知っ
てるのよ? あんたも、やましいことをやってるんでしょう? あの黒斗とかいう化け物と
一緒に、主従ごっこをね!」
ムスカリがコォォ……と、全身の触手を戦慄かせる。瑠璃子が罵倒の言葉を吐き捨てる。
だが淡雪は押し黙っていた。目付きこそ細め、じっと何かに耐えているようだったが、そ
の瞳には決して彼女と同じ位置には立たないという強い意思のようなものが宿っている。
──高潔さ。その信念に裏打ちされた魂。
たとえ裏切られても、蔑ろにされても、その者にその事実に絶望しない。安易にそれらを
憎むことに逃げず、ひたすら自らの中に閉じ込めて耐え続けた。
本人すら自覚していないその一方で危うく、一方で強靭とも言える精神力が、彼女をムス
カリの毒から守ったのだが、勿論そのことを瑠璃子が知る術は無い──。
「ふふ。わざわざ一対一の状況を作ろうとしたみたいだけど、脇が甘いわね。あんたがここ
で馬鹿正直に待っている間、私達はこの学園の至る所にムスカリの種を撒いた」
「……!」
「ふふ。そうよね、あんたは頭がいいものね。分かるでしょう? 今この学院は、私の意の
ままなの。私が命じてムスカリが力を込めてやりさえすれば、種は一斉に成長して周りにい
る人間に片っ端から毒の粉を撒き散らす。……大人しくしなさい。さもなければ、分かるわ
よね? あんたが悪いのよ。あんたが私を差し置いて、目立とうとなんてするから……」
じりっ。召喚したムスカリと一緒に、瑠璃子は淡雪へと近付き始めた。
胸元に手を。瑠璃子の言葉にはおそらく嘘はないのだろう。……ただ自分を陥れる、その
為だけに他の生徒達を巻き込むことを厭わなかった。その実例がある。少しずつ後退りをし
て逃れようとするが、如何せん場所が悪かった。
ふはははは! 瑠璃子は笑う。自らの掌の上という心地が、彼女を高揚させていた。
しかし彼女には元からムスカリの種を埋めたままにしておくという心算はない。ゆっくり
と手を上げ、パチンと指を鳴らしてムスカリに開花の合図を送り──。
「……?」
手応えがなかった。予定では学院中のあちこちで地面を貫き、現れたムスカリの怪花の轟
音と人々の悲鳴が聞こえてくる筈だったのだが、現実はしんとしてまるで反応がない。
当のムスカリも、事の異変に気付いたようだ。両手をにぎにぎして力を送るが、まるで反
応がない。瑠璃子と、怪訝な様子で互いの顔を見遣り合う。
「──悪いけど、その種なら皆取り除いておいたよ」
そんな時だったのである。突如、それまで彼女達以外誰でもいなかった筈の空間から声が
し、ぐにゃっとある一点が波打って歪み始めたのである。
睦月の声だった。瑠璃子はハッとなって振り向き、そして自らの策が完全に破られていた
ことを知る。
対策チーム、リアナイザ隊の活躍だった。冴島以下同隊の面々は、浅霧化成の研究員とい
う当初の名目で併行して学院内へと潜入し、瑠璃子が淡雪に接触するのを待っていたのだ。
そして彼女が敷地内に仕掛けたムスカリの種の存在にコンシェル達が反応。急ぎこれを回収
して破壊し、学院生らにもう一つある物を配布し終えていた。
「治療パッチ──そいつの毒を分析して、無効化する薬を学院の皆さんに配らせて貰った。
今頃皆、これを付けて抗体が出来ている筈だ。もう、お前達の毒は効かない」
「ぐ……ぐぅ……?!」
現れたのは、守護騎士姿──迷彩の鎧を装着して身を隠していた睦月と、彼の肩を取り、
その効力の恩恵に与かっていた黒斗だった。
ぴらりと睦月が見せたのは、掌に収まる程度の丸いパッチ形の薬剤。メディカルセンター
での調査で、隊士が被害者達から採取したムスカリの粉を元に作られた治療薬だ。
冴島は、部下達を率いて学院中の人々にこれを配布していた。身分こそ偽れど、学院側が
内々で対策チーム傘下・浅霧化成に原因調査を依頼した経緯があったことで、彼らとこの治
療パッチを疑う者は皆無だった。ぺちぺちと、生徒・職員を問わず、皆自分が助かろうと競
うようにしてパッチを貼ってゆく。
「くそぅ……。くそぉぉぉーッ!!」
瑠璃子の怒号。
睦月がEXリアナイザを構える。黒斗がデジタル記号の光に包まれ、件の羊頭のアウター
に変身した。
「よくも! よくもよくもよくも! 畜生っ、ぶち殺してやるッ!!」
淡雪を庇うように二人は前へ。瑠璃子も、怒りのままにムスカリを前面に出す。




