八方詰まり→出逢い
三十三歳、フリーター、彼女なし。
今まで気ままに生きてきた。やりたいことをやりたいように、自分の歩く道は全部自分で決めて歩んできた。
思い返せば、小学校の頃には大人になったらどうしたいかというテーマで書かされた宿題の作文も、800文字の長文を迷いなく一晩で書き上げた。あの頃は、学校の先生になるんだって本気で一点の曇りもなく自分の未来を信じて疑っていなかった。小学三年生で高熱を出して学校を休んだ時は担任の先生が、当時から本の虫だったのを知っていたから本をたくさん持ってお見舞いに来てくれた。あの頃、僕の憧れは学校の先生だった。
中学校に入ると英語の先生が好きになった。恋愛的な意味ではなく、憧れとして。英語の授業が楽しくて。それからはもう未来が一層明るく開けて見えた。…気がしていた。
それから20年。今、僕はフリーターだ。なりたかった教師という職業は20代序盤のスタートダッシュで挫かれ、つまづき、転び、天を仰ぐと低い低い天井が、手の届きそうなくらい近くに見えた。暗いグレーに染まった天井は、10代の頃から見ていた夢が手の届かない遥か高いところにあるんだと思い知らせてくれた。
自分探し?そう言うと聞こえは良い。教師が駄目なら趣味の音楽でなんとかならないかと思ったけれども、僕には残念ながら絶望的なくらいセンスがなかったし、それを補えるほどの努力という名の才能もなかった。職を転々とし、結局辿り着いたのはフリーター。自分がいてもいなくても何も変わらないような職場で日々時間だけを対価に、あってもなくても変わらない程度の給料を貰っている。そんな程度でも、必要なのだ。幸い、実家暮らしで家賃や光熱費は心配しなくても良い。
けれども、このまま生きていたらどうなるのだろうとふと思うことがある。というのも、僕には結婚を考えるどころか、そういうことを考える恋人すらいないからだ。このまま、大した収入もなく独り身で、両親もいつまでも生きている訳ではないから、そのうち生活すらままならなくなるのではないか、そもそもフリーターって、アルバイトなんだからいつまでも今のままではいられないし、首を切られて無職になったらということも考えられるし、いつか寂しく誰もいない部屋で孤独に死を迎えるのだろうか。
明るく開けていた未来は、グレーの天井の下で光すら届かない下水溝の先の暗闇に黒く蹲ってしまった。
優秀な弟は、インターネットの回線を売る仕事だとかなんだとかで、関東地方を管轄する管理職に昇った。早くに結婚した相手は大学時代からの彼女だ。大学時代もサークルを楽しんで、学業でも学内成績優秀者として卒業式で表彰された。
それに比して僕はと言えば、愚かしいことに時給の安いアルバイトを必死にやって、それこそ大学の勉強の為にアルバイトをしているのか、アルバイトの給料をつぎ込む為に大学に通っているのか分からないくらいアルバイトに打ち込んだ。サークルにも入らず彼女なんて作る暇も作る気にもなっていなかった。いつもそうだ。自分で決めて歩いてきた道はいつも泥まみれで、歩けば足がずぶずぶと沈み込むような泥濘ばかりだった。二つに分かれる道の正解ではないほうを選んできた。未来だけではない。記憶の中では過去にもまた影が落ちている。
そんなことばかり考えていても仕方がない。そう決心して動き始めた。昨年はコンカツ…今話題の所謂「婚活」を始めた。今年は就活にも力を入れて並走していく。楽しくない仕事に、彼女のいない寂しい毎日に終止符を打つ。モノクロに染まった人生は、虹色に輝く。
そう、決めた。
去年の初め頃、初めて行った婚活は緊張した。内省的で暗く、女性慣れしていない自分が果たしてうまくやれるのか、自信がなかった。一万円を超える会費を払って当日の会場へ向かった。この日企画されていたのはバスツアー。バスに乗ってディズニーランド併設のレストランに行き、ショッピングモールに行く。僕は自分の容姿に自信がないから、マメさをアピールしようと会場のことを下調べして向かった。
会場に着くと、既に入口の前に大勢の人が並んでいた。名前を言う。番号札とプロフィールカードを貰って待合室の飽き席に腰掛ける。プロフィールカードには待ち時間の間に自分のことを書き込むのだと説明を受けた。名前に住所、年齢に星座や干支はまだしも職業、収入まで。これは辛い。趣味や休日の過ごし方、好きなタイプや好きなテレビや音楽、デートに行きたい場所まで、書くべき項目が多すぎて軽く目眩がした。それでも一生懸命書いた。
待合室では婚活会社のPRのVTRが延々とリピートされて流れていた。周りを見渡すと皆、一様に下を向いてプロフィールカードを書いていたが、暫くすると飽きたのか歩き回ったり、男性同士で話したりしている。何回目ですか、僕はもう三回目です、なかなかうまくいきませんよね、初めてなんですがよく分からなくて、カードにどのくらい書いたらいいんでしょうね、他愛のない会話を大して面白くもなさそうに話している。VTRでも失敗した人の話が流れている。ポジティブな方向にしたら客がもっと入るんじゃないかというのは余計なお世話か。
そんなことを考えながら書き続け、終えた頃にアナウンスが入った。バスには女性が既に着席して待っているのだそうだ。バスに向かう。バスの乗車口にも列がまた出来る。不幸なことに、車酔いが激しい僕は敢えて列の後尾に並ぶ。望み通り一番前の席に着く。
席に着いて隣を見てハッとした。隣に座っていた女の子は、白みの強いベージュのスプリングコートを着た、中ぐらいの髪の長さの、黒髪に白のカチューシャが印象的だった。若い。32歳の自分と合うだろうか。そう思いながら話しかけようとすると、彼女はまだプロフィールカードを懸命に埋めようとしていた。
「初めまして。江楠です。よろしくお願いします。まだカード書いているみたいだから、また後で声かけますね。」
「はい。ありがとうございます。さっき来たばっかりでまだ全然…。」
「書くところ多いですよね。」
「はい、ごめんなさい」
周りはもう会話が始まっているところもあれば、隣同士どちらもパンフレットと睨めっこしている席もある。ツアーの説明が始まってもまだ彼女はカードにペンを押し付けていた。バスが走り始めて暫くして、隣の人と話し始めて下さいと言われてようやく彼女との話が始まった。
「改めて。江楠です。よろしくお願いします。なんとか書き終えましたね。」
内面の本性を知らない人には人当たりが良いと言われる。外面が良いのは父親譲りだ。仮面の笑顔で話しかける。
「お待たせしちゃってごめんなさい。月海です。」
「珍しいお名前ですね。つき…うみさんですか?」
「あぁ、はい、読めないですよね。月と海と書いて"つくみ"と読みます。月海潤です。え…くしさんですか?」
「はい、江に楠と書いて"えくす"と読みます。下の名前は英と人でひでとと読みます。珍しい名前同士ですね。」
本当に珍しい名前だから、まともに呼ばれたことなんてない。そんなことを考えていると。
「珍しい名前ってちゃんと読んでもらえないですよね。私初めて受け持つ生徒には全然読んでもらえないですもん。」
生徒という単語に反応する。
「生徒…ってことは先生か何かですか?自営業って書いてありますけど…」
「あぁ、はい。家族で塾をやっていて、お手伝いみたいなものなんですけど…」
「僕も塾の講師やっていたことありますよ!楽しかったなぁ。色んな子がいて。授業が終わると黒板に漫画のキャラを落書きしたりして、先輩の先生に、子供達と一緒に早く帰りなさいって怒られて。」
「そうそう、私のところでもーーー
彼女は持ち時間いっぱいに自分のことを話した。楽しそうに。僕はその笑顔に見惚れた。
僅かな時間で席の移動となり、次の人、さらに次の人へと席の移動は続く。けれど、一番目に話した彼女のことがずっと頭から離れなかった。