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第一章-02

 夕刻。ゴルドーは導師の部屋へと向かった。扉を叩き、入室を許可されると、ゆっくりと入っていく。膝をついて深々と頭を下げるが、導師は窓際で星空を見つめたまま振り返らない。そして暫しの静寂を破り、先に口を開いたのは導師だった。

「ゴルドーか。奴を連れて来たのか?」

「はい、導師。少々手荒な方法を取ってしまいましたが、命に別状はありません」

「そうか。それなら構わん。こんな所で死んで貰っては勇者とは言えんからな」

 彼は淡々と、さも当然かのように答えた。導師と呼ばれる青年の人望は厚い。彼の身を護衛する親衛隊の隊長である彼も、彼を厚く信望する内の一人だった。ゴルドーの表情には緊張だけではない息苦さを含んでいた。

「それよりこちらをご覧下さい」

 ゴルドーは狛彦との戦闘で陥没してしまった鎧を見せた。彼の装着していた鎧は、街一番の鍛冶職人が作りだしたものだ。ことさら強度を他のそれより重視している。並大抵の衝撃では破壊することは出来ない。しかし、ちょうど心臓の辺りが、拳の大きさで陥没していた。

「こ、これは………」

 導師と呼ばれる青年は静かに驚きの表情を浮かべ、言葉を失った。


 治療を受け、命に別状がないことを確認された狛彦は城内の一室で寝かされていた。狛彦は深く眠り続けていた。

 水面から朝陽が顔を出し始め、数多くの鳥が賑やかな合唱のごとく囀り、爽やかな一日の始まりを知らせてくれる。

 その頃、狛彦の思い出したくもない記憶を形成し始めていた。それは夢というよりも、忌まわしき過去そのものだった。

 満月の蒼白い輝きがゆっくりと薄れていき、明かりの付いていない真っ暗な部屋を、昇りかけた朝陽が徐々に照らしていく情景。

(……恐い………)

 とある安アパートの部屋の片隅に、幼き頃の狛彦はうつ伏せで倒れていた。彼の心の奥底からは恐怖が広がっていき、安らぐことのない怯えが無上にも膨らんでいく。いつ帰ってくるかわからない母親を、彼はずっと待ち続けていた。今度こそは優しく手を差し伸べてくれるかもしれない。そんな母親に対する淡い希望と、消えることのない恐怖が彼の心の中で微妙なバランスを保っていた。

かれこれ狛彦の母親は丸二日帰ってきていない。その間、彼は何も口に入れていなかった。最後に何かを食べたのは何日前だったか、それすら覚えていない。狛彦は最後の力を振り絞って食料を探していたが、最低限のモノすら置いていない部屋の中で、彼はすぐにそれを諦めざるを得なかった。既に彼の体力は限界に近づいていた。父親のいない狛彦は、若い、もとい若すぎる母親の理不尽な暴力と容赦ない罵声に極限まで心身を傷付けられていた。いつから始まったかわからない暴力に、幼く非力な彼は只々耐えるしかなかった。

―バタンッ。

 ドアが音を立て、勢いよく開いた。帰ってきた母親は靴さえ脱がず、倒れこんでいる狛彦がいる部屋に向かって歩み寄った。母親は部屋の中を見回し、部屋の片隅に倒れている狛彦を見ると、苦虫を噛み潰した以上に歪んだ表情を浮かべた。彼女は乱れた髪の毛をなおそうともせず、間髪を入れずに狛彦を蹴り飛ばした。女性の力でさえ、狛彦の身体は壁にぶつかるまで転がってしまう。それほどまでに彼の体重は限界にまで落ちていたのだ。彼女の放った蹴りは腹部に命中し、彼は大きく咳き込んだ。狛彦にとって、本来ならば恐怖に駆られるこの瞬間。彼は自分の身体の何かが、何かが違っていることに気が付いた。母親の罵声に鼓膜が震え、彼女の激しい暴力に激しく彼の体が激しく揺れる。

 しかし……。

 何も聞こえない。何も感じない。

 己の意識が遠のいていくことに、ようやく心の奥底からの恐怖が噴き出してきた。身体中の痛みはとうに感じていなかった。しかし、身体の芯から凍えるほどの寒さが、彼の五感全てを襲い始めていた。必死に生きようとしていた気持ちも急速に消失していく。

狛彦はもう何も考えられなかった。朦朧とした意識の中で彼の頭に一つの考えが浮かんでしまう。幼い彼が自覚するには早すぎる、純粋で真っ黒な感覚。一握りの知識しか持たない幼い狛彦でも、それを理解するにはそう長い時間はかからなかった。

母親の足元が、狛彦の視界に入った瞬間。凍える身体で最後の力を振り絞り、じりじりと視線を上げる。彼は必死になって母親の姿を捉えようとした。

 この時。何故これほど必死の思いで母親の顔を見つめようとしたのか。彼自身の意思なのか、それとも何の意味もない行為だったのか、今でもその理由は狛彦にはわからなかった。しかし、霞の掛かった視界の中で、鮮明に見えた母親の表情。それが彼にとって最後の家族の記憶となった。初めて正面から見つめた母親の顔。それはまさに、鬼の形相だった。


「う、うわぁぁっっっっ!」

 狛彦は叫び、跳ね起きた。その表情は恐怖で強く歪んでいる。荒々しく肩で息をするが、呼吸を整えるので精一杯だった。

「ちっ、またガキの頃の夢か………」

 全身から吹き出した汗が止まらない。彼の心臓はディーゼル機関のように激しく鳴り響いていた。とに かく落ち着かなければ、と何度も溜息を付く。そうすれば幾らか心臓の鼓動が治まることを狛彦は知っているからだ。止めどなく滴る額の汗を、何度も両手で拭う。焦点の合わない瞳のまま、狛彦は再び舌打ちをした。あの悪夢の様な出来事から、既に十五年の月日が流れていた。それでも時折思い出される記憶の断片は、未だ彼を深く傷つける。忘れられない忌々しい記憶。それが少しでも蘇れば眠れない日がしばらく続く。いくら時が過ぎても、過去に受けた深い傷は心の奥に突き刺さったまま、消えることはなかった。

(もういいだろう………)

 彼は心の中で、自分自身に問い掛けた。いつになったら、あの過去の忌まわしい呪縛から解放されるのか。少しでも過去を思い出してしまえば、そのことで頭の中が一杯になってしまう。狛彦はもう一度、両手で顔の汗を拭った。

―パタパタパタ。

 「……ん?」

 扉の向こうから、絨毯の上を走るような音が聞こえてきた。その音は徐々に大きくなり、狛彦のいる部屋の前で止まった。この時、狛彦はようやく自分が見知らぬ部屋にいることに気が付いた。

 ガチャリッ。

 軽い音を立て、扉が開いた。

「大丈夫? だいぶうなされていたようだけど………」

 扉の向こうから慌てた様子で入ってきたのは、一人の女性だった。ベージュのポニーテールで、円らな瞳を細めている。彼女は心配気な表情を浮かべながら、ゆっくりと狛彦の傍へ歩み寄る。スレンダーな体躯。キャミソールにガウンを羽織っただけという薄着の彼女に、狛彦は妙な艶かしさを感じた。

「あ、ああ。悪い夢を見ただけだ。心配いらない」

 狛彦は滴る汗を拭いながら、差し当たりのない答えを返した。

「そう。ならいいけど……。ところで怪我の方は大丈夫?」

「怪我? ……ああ」

 狛彦は、ふと思い出した。頭を掻きながら視線を落とすと、胸部から腹部にかけて何重にも包帯が巻かれている。上半身は裸だった。汗でグッショリと濡れていたが、仄かに広がるハーブのような香りが狛彦の鼻孔を刺激する。切り裂かれたはずの部分にそっと手を伸ばした。軽く触れてみたが、痛みは殆ど感じられなかった。拳にも包帯が巻かれてあったもの、ギュッ、と力強く握り締めても全く痛みはなかった。

「別に何とも無い」

 腹部を見つめ、狛彦は無愛想に答えた。

「そう、良かった。けっこう出血があったから心配したわ。」

 そう言って彼女は笑顔のまま振り返り、窓際に歩み寄ると、軽快な音を立ててカーテンを開けた。窓から淡い朝陽の煌きが部屋を満たす。狛彦は僅かに瞳を閉じた。

 横滑りの窓を全開にすると、柔らかい風が部屋を一気に満たしていく。暖かく、爽やかな空気は春の陽気を思わせる。さらり、と彼女のポニーテールが揺れ、朝顔の蜜のような香水の香りに混じって石鹸の爽やかな香りが漂った。いい天気ね、と言うと彼女はくるりと踵を返した。

「ねぇ、私ミューラって言うの。あなたの名前……教えてくれるかしら?」

 そして狛彦の瞳を覗くように見つめながら、アルカイックスマイルを浮かべる。

―どくん。

 その瞬間。狛彦は恐怖とは明らかに異なる胸の高鳴りを感じた。彼にとって、それは初めて感じる不思議な感覚だった。心臓の静かな高鳴りと共に、火照るような感覚が頬から、足の指先まで広がっていく。

「俺は狛彦。龍崎狛彦」

 己が質問されたことを思い出したものの、狛彦は咄嗟に自分の名を名乗るだけが精一杯だった。朝陽をバックに彼女の笑顔の輪郭がキラキラと輝いている。真っ直ぐな瞳。それは今まで見たことのない神秘的なものだった。

「コマヒコっていうのね。……そう、不思議な名前ね」

「そう、か?」

 それより汗で濡れた包帯を変えるわ、と告げる。彼女はベッドの傍にある小さな棚の中から、包帯と薬草を取り出した。

「もう、傷は殆ど塞がっているとは思うけど。念のためにもう一度、薬草を塗っておくわ」

 狛彦は半ば強制的に万歳のポーズをとらされると、ミューラは包帯を手際良く外した。彼女は棚の上に置いていた小瓶から、煎じられた薬草を少量すくい取る。そして薄く狛彦の腹部に塗りつけ、新しい包帯を腹部に巻いた。しかし、脇腹に刻まれていたはずの傷は、既に凝視しないと見えないほどに塞がっていた。狛彦は安堵の一息をつく。

「あと、あなたの服だけど。破れてたから、修繕しているの。暫くこの服を着ててね。サイズ合ってるといいんだけど……」

 ミューラは狛彦に、用意されていた上着とズボンを手渡した。

 ありがとう、と狛彦は感謝の意を述べると、ベッドに座ったまま上着を着る。ベージュのラフな長袖で、狛彦の筋肉質な体格にぴったりだった。ベッドから降り、新しく用意されたズボンを穿いてみる。軽く数度ジャンプしてみたが、違和感はなかった。腹部の傷の痛みも気にならない程度だった。

「ところで、これから俺はどうすればいいんだ?」

 狛彦が感じた身体の火照りは少しずつ治まっていく。それと同時に、狛彦は現実的な思いに駆られる。これから狛彦は何もしないつもりはなかった。それに誰もが自分に何もさせない訳がないと思った。先刻の戦いの中でゴルドーと名乗る男が、己の力が必要だと言っていたからだ。

「あ、そうそう。あなたが目を覚ましたら大広間に呼ぶようにって、導師に言われてたんだったわ。おなかの具合はどう?」

 ポンッ、と軽く握った拳で左の掌を叩いた。

「歩くくらいじゃ何ともないよ」

 彼の言葉に、それは良かったとミューラは返した。

「準備が出来たら早速行きましょう。きっと彼らも待ってるはずだから」

 そう言うと彼女はガウンを脱ぎ、ドア付近のハンガーに掛けた。隣に掛けてあった服をしっかりと羽織る。それは白を基調とした厚手の服で、医者としての正装だと彼女は言った。そのままの格好でいいと言われた狛彦は、ミューラと共に部屋から出た。

「はい。この部屋の鍵よ。ここが貴方の部屋になるんだから、場所はちゃんと覚えといてね」

 笑顔で渡された部屋の鍵と、狛彦に割り当てられた部屋のドアには『1441』と書かれてある。

「わかった」

 彼の部屋の同列にも反対側にも同じような扉が、視界の届く限りに続いている。彼は苦笑うしかなかった。

「さぁ、行きましょう」

 それでも彼女は迷うことなく、目的の場所に向かって歩き出す。その際、狛彦は自分のいる世界について聞こうとした。

「それも含めて、この世界の統治者が、直々にお話いただけるそうよ」

 この城には様々な有権者が集まっていること。先刻街で見た妖精や精獣などの様々な生き物が、現実に存在し、共存しあっていることも聞いた。それは狛彦にとって漫画や小説でいか知らない夢物語そのものだった。しかし、廊下の片側に続いている窓の下方を見詰めれば、質素な街並みだが活気溢れる人々の生活を垣間見ることが出来た。

(やっぱり夢じゃないのか)

 狛彦は掌を左胸に添える。先刻、狛彦の感じた腹部を貫いた痛みも、気温も、そして心臓の高鳴りも、決して夢ではないものだと狛彦は再確認した。

(なんて所に来てしまったんだ、俺は………)

                                     ≪続≫

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