第一章-00
【Ⅰ】
閉め切っていた部屋の空気を入れ替えようと、一人の青年が窓を開けた。部屋の電気を消すと、街並
みと同じ仄暗さが広がる。キンと冷え切った空気が入り込むが、シャワー上がりの火照った身体には少々堪えた。それでも彼は窓辺に移した椅子に力なく座って、窓際に頬杖を付いた。
冬の日没は早く、夕刻を過ぎた頃には既に夕陽が地平線の彼方へ消えていこうとしていた。
蒼白く輝く満月が切れ切れの雲の隙間から顔を覗かせると、枯れたように乾いて見える街並みを鮮やかに照らす。
彼は満月を見つめていた。武者震いが身体の節々に込み上げてきくる。月には不思議な力がある、そんな幻想を彼は信じていない。それでもその向こうには誰かいるような気がして、一人でなくなるような気がしていた。
「ふぅ……」
抑揚の無い溜息は深い。彼の名は龍崎狛彦。肩幅の広い筋肉質な長身に、日に焼けた褐色の肌が健康的だ。女顔と言って良いほどの整った顔立ちだが、日頃の疲れのせいかやつれて見える。
今は夕食時。周りの家からは家族の賑やかな団欒が微かに聞こえてくる。都心の外れにある安アパートの二階に住んでいる狛彦は、無表情のまま視線を回した。
冬休みが終ろうとしているこの時期。家族全員が集まり、数少ない時間を目一杯に楽しんでいる姿が、狛彦の目に入った。彼は唇を噛み締める。
(家族か……)
狛彦は心の中で呟いた。彼に家族はいない。物心付いた頃には既に父親はおらず、幼い頃に別離した母親も虐待の事実以外は殆ど覚えていない。引き取る親戚さえいなかった彼は、高校を卒業するまで児童福祉施設に預けられていた。
十九歳になった今では、アルバイトでの稼ぎと雀の涙ほどの貯蓄で、慎ましくひっそりとした毎日を送っていた。彼が今の境遇を受け入ることが出来ていると言えば語弊があったが、生活面、そして精神的にようやく落ち着いてきた頃だった。ただ、時間の流れに身を任せ何一つ変化の無い毎日に言葉にならない虚しさを感じていた。自分が何を望んでいるのか、それさえも分からなかい。拭いきれない虚無感に彼は再び深い溜息をついた。
窓辺に無造作に置かれたペンダントを手に取ると、掌で転がした。目を凝らしてもうっすらとしか見えないほど細かな幾何学模様が描かれている。物心ついた頃から持っていて、手放す理由がないというだけで常に身に着けていた。
夜空に浮かぶ、完璧なまでの満月の姿を見詰めているうちに狛彦の瞼がゆっくりと落ちていく。睡魔と戦っているが日頃の疲労が重なり完全に睡魔に落ちるまでに、さほど時間は掛からなかった。うつらうつらとしているうちに彼の意識は薄れ、そのまま心地よい眠りへ吸い込まれていく。この日も彼にとって何の変哲もない一日がただ終わるだけ、の筈だった。
いつもとは違った輝きを見せている満月。一度は分厚い雲に遮られたが、徐々にそれは薄くなり、青白く力強い明かりが彼を照らす。完全に瞳が閉じると、彼の意識は遠いところへ向かっていった。
しかし、狛彦は気付いていなかった。淡く、本当に淡くペンダントから放たれる、まるで繊月の如くの弱々しい光に。まるで満月の力に呼応すべく、それは点滅していた。
そして電柱の裏に隠れ、狛彦の姿を見詰めている真黒なローブを身に纏った老人に。
(我が力、目覚めさせるにはまだ足りぬわ。……まぁ、よい。向こうでもあやつを絶望に突き落とすすべならあるわい)
そう一言呟き、ふと踵を返し歩みだすと老人の後ろ姿は陽炎のように消えていった。
狛彦は『夢』を見た。
見慣れた街並みの真ん中に、自分がただ独り立ち尽くしている夢。風もなく、木の葉の囀りさえ聞こえない。まるで時間が止まっているような雰囲気。辺りを見回しても、彼以外には誰もいない、静寂で暗澹たる街並みだけが広がっていた。透き通る夜空には遮るものは何もなかった。夜空を仰ぎ見れば満天の星たちが個性の限りに輝いているが、どこか控え目だった。
『………ぃ……で』
狛彦は誰かの声が聞こえた気がした。
儚く、そして痛切な声を聞いた気がした。
声の聞こえた街路の先へ、瞳を凝らしてみる。目の前に続く街路樹の先には淡い一筋の光へと、永い路が続いていた。
(呼ばれている)
狛彦は直感した。声の聞こえる方向へと、狛彦は無意識の内に一歩を踏み出していた。初めはゆっくりと、そして徐々にスピードを上げながら。
凄まじい勢いで、周りの景色が視界の外へと流れていく。しばらく走り続けると、一筋の放つ光へと続く、一本の路だけが続いていた。いつしか全ての景色が消え、彼は暗褐色の世界へと入り込んでいく。それでも狛彦は脇目も振らず、光の出口へと無心に走り続けていた。彼には不思議と不安や恐怖感はなかった。むしろ自発的に溢れ出る決意がさえあった。眩いばかりの光を放つ出口に近付くにつれ、狛彦の身体の周りを、淡い、そして優しい光が纏わり付くように満たしていく。狛彦は身体の中心から浮遊感に似た不思議な感覚を覚えた。
そしてそれは一瞬だった。まるで彼の全てを突き刺すように、閃光が暗褐色の世界に満ちた。狛彦は立ち止まったものの、身体中に残った疾走感だけは激しさを増していく。目を覆うことさえままならず、痛烈な光が彼の全てを包み込んだ。その瞬間。彼の意識は消えた。
そして次に目が覚めた時。
彼の目の前に広がっていた世界は……。
≪続≫