第9話 新たなる悪夢の兆し
ヴィオレットは、王都での華やかな婚約式から一月半後、家族と共に広大なボーフォール侯爵領の本城へと戻り、穏やかな日々を送っていた。
王国の穀倉地帯たる中央平原に位置する侯爵領は、肥沃な大地に恵まれている。風が青々とした麦畑を撫で、波のように揺らす光景は、ヴィオレットの心を静かに満たし、王都の喧騒を忘れさせた。
領内には清らかな小川や木漏れ日が心地よい森が広がり、ヴィオレットは時折レオンを伴って散策を楽しんだ。
ボーフォール侯爵邸では、定期的に近隣の、父と同じ保守派閥に属する貴族令嬢たちを招いてお茶会が催されていた。
第一王子の婚約者となったヴィオレットへのお茶会の誘いは数多く舞い込んだが、実際に顔を合わせるのは、社交に不慣れな娘を案じる両親たちが選んだ、ごく一部の令嬢に限られていた。ヴィオレットはその配慮を知る由もない。
「まあ、ヴィオレット様ったら! この繊細な刺繍、まさかご自身で?」
ジゼル・クールセレーヌ子爵令嬢は目を丸くしてハンカチーフを覗き込んだ。
「ええ、少しだけ。まだまだ未熟ですが」
ヴィオレットは控えめに微笑んだ。感情を表に出すのは苦手だが、手ずから成したものを褒められるのは素直に嬉しかった。
「ご謙遜を。わたくしにはとてもできませんわ」
カミーユ・グランジュネー子爵令嬢が大げさに肩をすくめる。彼女はヴィオレットの五年来の友人で、本人の希望により昨年からヴィオレット専属の侍女見習いとなっている。いつも明るいカミーユは、お茶会を盛り上げる。
「あらあら、カミーユ様ったら。でも、服飾のセンスはカミーユ様が一番ですわ」
オレリア・ソレイユドーラン伯爵令嬢が微笑む。物静かな彼女は、いつも穏やかだ。
優雅な応接間に柔らかな陽光が差し込み、テーブルには活けられた花々が甘く香る。侯爵夫人セレスティーヌが厳選した銘茶と、三段重ねの皿に並ぶ色とりどりの小菓子や焼きたてのスコーンが、午後のひとときを彩る。
会話は王都の流行や音楽会、それぞれの領地の出来事へと移り、ヴィオレットは静かに耳を傾け、時折意見を述べた。令嬢たちの明るい笑い声が響き、和やかな時間が流れた。
お茶会の合間には、ヴィオレットが最近凝っているリュミエールの菓子が披露された。淡いピンクの花びらの砂糖漬けは口に含むと程よい甘みと花の香りが広がり、好評だった。
「まあ、美味しい! ヴィオレット様はお菓子作りもお上手ですのね」
ジゼルが目を輝かせた。
「ありがとうございます。レオンが教えてくれるのです」
ヴィオレットは傍らに控えるレオンに感謝の眼差しを向けた。白銀の髪を持つ青年執事は、優雅な微笑みで応えた。
穏やかな社交や妃教育を通して、ヴィオレットは侯爵令嬢としての役割を果たしている。刺繍や古文書の読解も大切な時間だった。
王宮からの妃教育では、立ち居振る舞いや歴史、礼儀作法などを真剣に学んでいた。この日、学んでいたのは、ロワナール王国政治の要、三派閥の均衡についてだった。
「よろしいですか、ヴィオレット様。王家は保守・革新・神秘主義、この三大派閥の均衡を保つため、各世代で持ち回りのように各派閥から王妃をお迎えになってこられました。
どこか一つを優遇せぬよう、細心の注意が払われてきたのです。過去には派閥間の対立が内乱に発展した歴史もございます」
王宮から派遣された妃教育担当の老女官、イヴォンヌ・グランブーダンは、白髪を丁寧に結い上げ、常に高貴な物腰をしている。深い青灰色の瞳には、長年の経験と、未来の王太子妃を育てるという強い意志が宿っている。
ヴィオレットは、自身の婚約が国の安定に深く関わることを改めて実感し、背筋を伸ばした。また、別の日の授業では、リュミエールについても学んだ。
「『奇跡の植物』リュミエールは、他のどの植物とも種別の当てはまらない、特別な植物です。古来より希望の象徴とされ、儀式にも用いられてきた。
先王クロヴィス陛下は、三派閥の垣根を越えてリュミエールの栽培方法の改良を推し進められました。森の聖地とも呼ばれる、わたくしの出身領地でもあるグランブータン公爵領で、国内のあらゆる英知を結集して栽培を容易くする事に成功したのです。
このように、王家は国内の大事業を取りまとめ、その恩恵が広く国民に行き渡るように尽力する事が肝要なのです」
マダム・グランブータンは厳しく説いた。
多岐にわたる妃教育は、ヴィオレットに未来の王妃としての自覚と、王家の一員としての誇りと責任感を静かに育んでいった。
日中の学びを終え庭園に出れば、レオンがいつも傍らに控え、彼女の世話を焼いた。リュミエールの花畑を散策したり、幼い頃からの遊び相手である白馬ゼフィール号と戯れたりする時間は、ヴィオレットにとって心安らぐひとときだった。
レオンは、ヴィオレットが摘んだ花を部屋に飾るために束ね、新しい菓子のレシピを探してくるなど、細やかな気遣いで彼女の毎日を彩った。
父アルマン侯爵も、娘の落ち着いた様子に安堵し、成長を労う言葉をかけてくれた。
♢♢♢
ヴィオレットは領地に帰ってからも続けている毒への耐性訓練の成果を実感し、あの悪夢はひとまず遠のいたのだと安堵していた。
しかし心の奥底では、拭いきれない不安の種が燻っていたのかもしれない。その夜も、穏やかな眠りについていたはずだった。
深い眠りの淵でヴィオレットは再び夢を見た。
以前の悪夢とは全く異なる、神殿の様式に似た円形の闘技場。
高い観客席から、きらびやかな貴族たちが固唾を飲んで、あるいは興味深げに見下ろしていた。
闘技場の中央には、淡いエメラルドグリーンのドレスを纏った美しい女性が立っていた。艶やかな蜂蜜色の髪に、涼やかな薄水色の瞳。初めて見る顔だったが、その瞳には挑戦的な光が宿っていた。
(この方は……どなた?)
隣には、騎士服の女性。手には細身の剣を持ち、その顔には冷たい怒りが見えた。
そして、闘技場正面の壇上には第一王子オーギュスタンと神官がいた。
彼の表情には、以前の冷酷さに加え、焦燥感と苛立ちが滲んでいた。
「ヴィオレット、多くの貴族令嬢に対するそなたの無礼な振る舞いは目に余る! 特にレジェモン子爵令嬢ロザリーに対する侮辱は、王家の名誉を汚すものだ! 未来の王妃として相応しくない! ゆえに、私はそなたとの婚約を破棄し、その罪を断罪する!」
オーギュスタンの言葉が闘技場に響き渡る。それは以前と同じ、しかし全く異なる理由による断罪の宣告だった。再び襲いくる絶望感に、ヴィオレットは息を詰まらせた。