第8話 ボーフォール侯爵領へ
「やっと、少し落ち着けますわね……」
王都を離れ、故郷であるボーフォール侯爵領へと向かう馬車の中、ヴィオレットは窓の外を流れる景色に目を向けながら「ふぅ」と安堵の息を小さく漏らした。強張っていた肩の力が抜けていくのがわかる。
ロワナール王国第一王子、オーギュスタン殿下との盛大な婚約式が行われてから一月半が過ぎている。
年に一度の三公爵・四侯爵家の会議、そして三年に一度の国王陛下による諸侯会議も無事に終わり、父アルマン・ボーフォール侯爵と母セレスティーヌ侯爵夫人の領地帰還に伴い、ヴィオレットも共に馬車に揺られていた。
王都の喧騒が遠ざかり、車窓に広がる穏やかな田園風景が近づくにつれて、張り詰めていた心が解きほぐれていくのを感じる。
隣に座る父は、娘の様子を察したのか、穏やかな眼差しで見守っている。
「今年はオーギュスタン殿下との婚約式もあった故、王都での日々は気疲れも多かったであろう。領地に帰ったらゆっくりと休みなさい」
「はい、お父様。ありがとうございます」
ヴィオレットは素直に頷き、再び窓の外へと視線を向けた。馬車の心地よい揺れを感じながら、間もなくロワナール王国の大動脈、大河「グラン・フルーヴ・セレスト」の船着場に着くはずだと考える。
馬車は予定通り街道を進み、やがて一行は、王都のはるか北東を源流とする大河のほとりへと到着した。
「さあ、ヴィオレット。ここからは船旅となる」
父に促され、ヴィオレットは馬車を降りた。目の前には、堂々たる威容を誇る木造帆船が停泊している。
全長は約三十メートルほどか。磨き上げられた船体は陽光を弾いて輝き、船首にはボーフォール家の紋章たる勇壮な馬の彫刻が飾られ、静かに水面を見下ろしている。
(我が家の船は、いつ見ても見事ですわね)
王都と領地を結ぶこの大河は、物資の輸送だけでなく、貴族たちの移動にも重要な役割を果たしているのだ。
船内へと足を踏み入れると、そこはまさに移動する貴族の居室だった。磨き上げられた最高級チーク材の内装、柔らかな絨毯、大きな窓を備えた広々とした船室が、一行を迎える。
母と共に、室内のソファに腰を下ろす。元来、身体がそれほど丈夫ではない母は、旅の疲れを見せぬよう努めているのか、穏やかな表情でヴィオレットに微笑んだ。
「船に乗れば一安心ですわね。ヴィオレットも少し楽になさいな」
「はい、お母様。――あっ、ご覧くださいませ、お母様。船が動き出しましたわ! 船窓から眺める景色は、陸路とはまた違った趣があって面白いですわね」
船はゆっくりと岸を離れ、雄大な大河の流れに乗って西へと進み始めた。
「まあ、綺麗……!」
ヴィオレットは、思わず息を呑んだ。グラン・フルーヴ・セレストは、その名の通り、まるで天の川のように雄大で美しい流れだった。両岸には緑豊かな中央平原が広がり、時折、青々とした麦畑が風にそよぐのが見える。
肥沃な大地を潤すこの大河こそが、ボーフォール侯爵領が王国最大の穀倉地帯たる所以なのだと、父が以前話していたのを思い出した。
北岸の視界の遥か果てには、峻厳な山々が見える。
「お母様、あの山々がドウェルノン公爵領とエスプリリーブル伯爵領ですわね?」
座学で習った王国内の地図を頭に思い浮かべ、ヴィオレットは母に問いかけた。
「ええ、そうですよ。ドウェルノン領は北国への備えの要衝であり、岩塩や鉱石の産地としても。エスプリリーブル領は、良質なワインの産地として名高いですわね。ヴィオレット、お勉強もしっかり身についているようで嬉しいわ」
さらに船が進むと、景色は変わり、南岸には開けた平原の中に、無数の風車が立ち並ぶ光景が見えてきた。勢いよく回る風車の羽根が、遠目にもよくわかる。
船は二日目も順調に進み、やがて川幅が広がり、水面には無数の水鳥たちが羽ばたく姿が見えるようになった。岸辺には小さな村々が点在し、洗濯をする女性たちの姿や、川で遊ぶ子供たちの楽しそうな声が、微かに風に乗って届く。
「お父様、あの村の人たちも、ボーフォール侯爵家の領民なのですか?」
ヴィオレットが北岸を見ながら興味深げに尋ねると、父は頷いた。
「ああ、皆、わが領地の民だ。彼らは懸命に働き、この豊かな土地を守ってくれている。わがボーフォール家は、代々、この地を治め、領民たちと共に生きてきたのだ」
父の言葉には、領主としての責任と、領民への深い愛情が込められていた。ヴィオレットは、その言葉を聞きながら、自分がボーフォール侯爵家の令嬢として生まれた意味を、改めて心に刻むようだった。
やがて、船旅が終わりを告げ、一行は川岸に用意された豪華な馬車に乗り換えた。
侯爵家騎士団長ミシェルと騎士団員の増援三十名が新たに護衛に加わる。侯爵家の紋章が大きく描かれた漆黒の馬車は、熟練の御者に操られ、整備された街道を滑るように進んでいく。
窓の外には、さらに広大なボーフォール侯爵領の風景が広がっていた。どこまでも続く麦畑、青々と茂る牧草地、そして、豊かな森も遠くに見える。
時折、騎馬姿の領地巡回の騎士たちが通り過ぎ、侯爵一行に恭しく敬礼を送った。
「ヴィオレット、あの馬たちは、わが領地で大切に育てられている軍馬だよ。王国の騎兵隊にも、多くのボーフォール産の馬が納められているのだ」
父は、誇らしげに説明した。広大な牧草地では、逞しい体躯の軍馬たちが、悠然と草を食んでいる。その姿は、ボーフォール侯爵領の豊かな資源と、軍事的な重要性を静かに物語っていた。
馬車は、やがて、広大な侯爵領の中心に位置する、堂々としたボーフォール侯爵家の本城へと近づいていく。高い石垣に囲まれた城は、長きにわたりこの地を見守ってきた威厳に満ちている。
城門の前では、家臣たちが主の帰還を待ち構え、一行が到着すると、深々と頭を下げて出迎えた。
「お帰りなさいませ、侯爵様、奥様、ヴィオレットお嬢様!」
家令シャルルの張りのある声と共に、家臣たちの温かい出迎えに、ヴィオレットの胸にもじんわりとした温もりが広がった。久しぶりに戻った領地の空気は、王都の華やかさとは違う、穏やかで優しいものだった。
「ただいま戻った。留守中の精勤、感謝する」
父が鷹揚に答えると、家臣たちは手際よく一行を迎え入れた。ヴィオレットは母に付き添い、見慣れた城の庭へ足を踏み入れる。色とりどりの花が咲き誇る手入れされた庭園は、彼女の心を安らかにした。
城の中に入ると、更に多くの使用人たちが、深々と頭を下げて挨拶をした。
「ヴィオレット様、お帰りなさいませ。再びお会いできて、大変嬉しゅうございます」
「ありがとうございます」
ヴィオレットは、使用人一人ひとりの顔を見ながら、丁寧に挨拶を返した。王都での張り詰めた日々から解放され、見慣れた領地の風景の中に身を置くことで、彼女の心は静けさを取り戻していく。
その夜、ヴィオレットは自室の窓から、静かに輝く星空を見上げた。王都の夜空とは違い、無数の星が瞬いているのがはっきりと見える。遠くからは虫の声や、夜の静寂を破るフクロウの鳴き声が聞こえた。
「ああ……やはり、ここが一番落ち着きますわ」
ヴィオレットは、小さく呟いた。予知夢の恐怖も、王都で張り詰めていた心も、故郷の温かい空気に包まれて静まっていくのを感じる。
ヴィオレットは明日からの、ボーフォール本城での穏やかな日常に、ゆっくりと思いを馳せていった。