第6話 希望の灯火
次の日からも、ヴィオレットはレオンとの秘密の訓練に臨んだ。レオンは、彼女の顔色をつぶさに観察し、昨日の体調を考慮しながら、ほんのわずかな毒を慎重に増やしていった。
ヴィオレットは、舌に残る苦さと、時折襲ってくる吐き気や眩暈に耐えた。
(また、この苦さが……でも、乗り越えてみせる。未来のために。)
未来を変えるという強い意志が、十歳の小さな身体を支える力となっていた。彼女の瞳には決して諦めの光は宿らなかった。
レオンは、ヴィオレットの食事にも気を配ってくれた。毒の苦みと甘い菓子の相性が悪いことを知っているのだろう。今日から、栄養価の高い旬の果実や、消化の良い軽い食事が用意されるようになった。
「お嬢様、本日は特に消化の良いものをお選びいたしました。体調はいかがでしょうか?」
「ありがとう、レオン。少しだるいけれど、大丈夫よ」
「お嬢様、本日の果物は、朝摘みの真っ赤に熟れた甘いフラエですよ」
「ありがとうレオン。フラエは大好きだわ」
ヴィオレットは微笑んで、その小さな紅い実を美味しそうに頬張る。
時には、母から課せられた刺繍に取り組むヴィオレットの傍らで、レオンは歴史書を開いた。彼の心地よい声が静かな書斎に響き、訓練で疲れた彼女の心を優しく包み込む。
それは、毒耐性訓練のために奪われた時間の補填としての、レオンによるスケジュール管理の一環だった。
貴族令嬢としてだけでなく、妃教育も続いている。
王宮から派遣された作法指南役の老女教師は厳しく、王族としての振る舞いや言葉遣いをヴィオレットに教え込んだ。
時折、その厳しさに心が折れそうになるけれど、そんな時、いつもレオンがさりげなく優しい言葉をかけてくれる。その一言が、彼女の幼い心をそっと支えてくれた。
毒耐性訓練を続けるうちに、ヴィオレットは驚くほど早く毒の苦味に慣れていった。最初はほんの数滴でさえ辛かったのに、今はほんの少しなら、平気になったように感じる。
(本当に、慣れてきたんだわ。このまま続ければ、きっと……)
その小さな成長は、何よりも大きな励みとなった。
内心では確かな達成感を感じ、ふとした瞬間に、そっと笑みをこぼすこともあった。
その姿をレオンに見つかり、ほほ笑み返される事もある。
「お嬢様、何か楽しいことをお考えでいらっしゃいますか?」
「ええ、まあね。」
そんな時に見せる彼の微笑みは、いつもよりどこか優しく見えた。その笑顔を見るたび、ヴィオレットの心も温かくなるのを感じた。
訓練の合間、レオンは今飲んでいる毒――月の満ち欠けで性質が変わるという不思議な月響草について、丁寧に教えてくれた。他にも、様々な毒物や薬草に関する深い知識、そしてもしもの時の対処法まで、分かりやすく説明してくれる。
ヴィオレットは、レオンの教えを熱心に聞き入り、丁寧にメモを取った。
レオンと二人で困難を乗り越えようとするうちに、言葉にしなくても分かり合えるような、固い絆が育まれているのを感じた。それは、未来を変えようとする幼い自分と、いつも真剣に向き合ってくれる彼との、特別な時間だった。
♢♢♢
ある夜、ヴィオレットは再び悪夢に囚われた。
豪華絢爛な舞踏会の喧騒、第一王子オーギュスタンによる婚約破棄宣言と断罪。嘲笑する貴族たちの冷たい視線、そして最後に喉を締め付けるような絶望と共に訪れる毒殺の未来――
夢の中で、ヴィオレットは神前裁判の壇上に一人立っていた。周囲には、息を呑むほど絢爛な装飾が施された神殿の内部空間が広がっている。
以前の夢と寸分変わらず、対面の壇上には神官と、威圧的な表情の第一王子が立ち、彼女を射抜くような鋭い眼差しで糾弾している。
厳かな神官の声が響き渡り、身に覚えのないおぞましい罪状が読み上げられる。
周囲の貴族たちの嘲弄を含んだ囁きが、まるで無数の針がヴィオレットを刺すかのように耳に届く。
胸を締め付けるような恐怖は、以前と変わらず彼女を襲い、言いようのない不安感にヴィオレットは小さく息を呑んだ。
そして、ついに運命の瞬間が訪れる。神官が無表情で差し出したのは、あの忌まわしい毒の入った銀の杯。
しかし、ヴィオレットは不思議なほど冷静だった。心臓は激しく鼓動するものの、全身を支配するようなパニックは感じられない。
ヴィオレットは、これまでレオンと共に秘密裏に行ってきた、決して楽ではなかった毒耐性訓練の日々を鮮明に思い出す。その思い出の数々が彼女の背中を力強く押す。
意を決して、ヴィオレットは震える手で杯を受け取った。ひんやりとした銀杯の冷たい感触が、熱い手のひらに伝わる。
ゆっくりと、ヴィオレットは杯を自身の口元へと運んだ。鼻腔を刺激する独特の苦い匂いは、これまで訓練で何度も経験したものと似ている。
恐る恐る唇をつけると、舌の上には、もはや慣れ親しんだ苦味が広がる。液体が喉を通っていく感覚は、喉が焼け付くような激痛とは、明らかに異なっていた。
喉の奥に、少しの痛みと違和感が残るだけだ。
毒を全て飲み干した後も、ヴィオレットは意識を失わず、自分の足でしっかりと立っていた。
周囲の貴族たちは、その信じられない光景に息を呑み、静寂を破りざわめき始める。
オーギュスタンは、目の前で幽霊でも見たかのような、信じられないといった表情で、ヴィオレットを凝視している。
第一王子の自信に満ち溢れた尊大な表情は消え失せ、深い困惑の色が浮かんでいる。
時間が経つにつれて、ヴィオレットは体のだるさを感じてきた。
目の前の光景を遠くの景色を見ているように感じ、手足の先が痺れ、意識がふっと遠のきそうになる瞬間もあった。
しかし、以前の悪夢で感じたような、内臓が引き裂かれるような激しい苦痛は、最後まで彼女を襲うことはなかった。
そして、静寂の後、神官が改めて神託を伺うと、厳かな、まるで天からの声のように、ヴィオレットは無罪であるという、結果が告げられた。
ヴィオレットは、大きく、そして心から安堵の息をついた。
ヴィオレットは、そこでハッと、目を覚ました。心臓はドキドキと激しく高鳴っているが、以前のように悪夢の残像に引きずられるような、鉛のように重い感覚はない。
むしろ、夢の中で最後に感じた、微かながらも確かな希望の光が、彼女の胸の奥で、まるで小さな太陽のように温かく燃えている。
まだ薄暗い部屋の中で、彼女はそっと自分の胸に手を当て、確かにそこに、未来を変えることができるかもしれないという希望があることを確認した。
夜が明け始めたばかりの、薄い藍色の光が、窓から静かに差し込む中、ヴィオレットは、いてもたってもいられず、寝間着の上に一枚、お気に入りの柔らかなローブを羽織ると、寝室を飛び出した。
廊下を駆け抜け、向かう先は、いつも彼女の傍にいてくれる、執事レオンの部屋。
扉をノックしてレオンを呼ぶと、すぐに廊下に出て来たレオンに対して、堰を切ったように興奮した様子で、見たばかりの夢の内容を語り始めた。
「レオン! レオン! あの夢が……変わったんです!」
レオンは、普段は冷静沈着なヴィオレットの興奮した様子に、すぐに何か特別な、彼女にとって喜ばしいことがあったのだと察した。
「お嬢様、どうされましたか? このような時間に……」
ヴィオレットは、待ちきれないといった様子で、身振り手振りを交えながら、見たばかりの夢の内容を、まるで宝物を見つけたかのように語り始めた。
「 あの夢が……変わったんです! 神前裁判で、わたくし、毒を飲んだのに、少し苦しいだけだったんです! 無罪になったんです!」
ヴィオレットの紫水晶のように輝く菫色の瞳は、喜びと興奮で溢れている。
毒の味や喉を通る時の感覚、体の痺れ、周囲の貴族たちの驚いた表情、そして何よりも、オーギュスタン殿下の狼狽ぶり……細部に至るまで克明に語る彼女の声は、まるで喜びの歌を歌っているかのように、希望に満ち溢れていた。