第5話 運命への抵抗
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(レオン視点)
その夜、レオンはボーフォール侯爵の執務室を訪れた。
重厚な扉を丁寧にノックし、許可を得て中へ入ると、侯爵はすでに執務を終え、書斎の椅子に深く腰掛けていた。侯爵の顔には、一日の疲れが見て取れる。
「夜分に申し訳ございません、侯爵様」
レオンは、恭しく頭を下げた。月光を閉じ込めたような白銀の髪が、静かに揺れる。
「構わんよ、レオン。何かあったのかね?」
侯爵は、穏やかな声で問いかけた。娘の専属執事である彼のことは、その忠誠心と能力を高く評価していた。
「実は、お嬢様がご覧になった予知夢について、ご相談したいことがございます」
レオンは、真剣な面持ちで切り出した。その瞳の奥には、静かながらも強い決意が宿っている。
「予知夢、とな? 詳しく聞かせてもらおうか」
侯爵は、眉をひそめて問い質した。
レオンは、ヴィオレットが見た悪夢の内容、特に神前裁判で毒殺されるという未来の可能性を慎重に侯爵に伝えた。感情的な表現を避け、事実のみを淡々と語ったが、その声音には、かすかながらも憂慮の色が滲んでいた。
「なるほど……そのような夢をヴィオレットが。……まさか、愛しい娘がそんな恐ろしい夢を見ていたとは」
侯爵は、深刻な表情で重々しく頷いた。
「それで、君は何か対策があるというのかね?」
「はい、侯爵様。私は、この予知夢が、リュミエールの『七つの奇跡』の一つ、『予言』によるものなのではないかと考えております」
レオンは、静かに言った。
「もしそうであるならば、その未来は覆せないものではないはずです。お嬢様を救うためには、今から手を打つ必要があると存じます」
「リュミエールの奇跡……予言、か」
侯爵は、顎に手を当て、深く思案した。リュミエールは、ソール教を信奉するこの国と、人々にとって特別な意味を持つ植物だ。その七つの奇跡は、人々の生活のあらゆる面に深く根付いており、信じられている。
「第四の奇跡、叡智の啓示、というわけか」
レオンは深く頷いた。彼の真剣な眼差しと、ヴィオレットを思う必死の念が、侯爵の心を徐々に揺さぶり始めていた。
「ヴィオレットは、そんなにも恐ろしい夢に苦しめられていたのか。奇跡の体現者とは……父親として、喜ぶべきか悲しむべきか……」
予知夢の事を認識した侯爵に、レオンが毒についても告げる。
「こちらをご覧ください。ガマテグスの毒です。非常に有名な猛毒であり、神前裁判でもこちらが使われるのではないかと思われます」
レオンは懐から小さな小瓶を取り出し、躊躇なく蓋を開けて中の液体を呷った。侯爵は、目を丸くしてその様子を見守る。喉元が小さく上下しただけで、彼は、何事もなかったかのように平然と微笑んだ。
「このように、幼い頃から訓練をし、毒を克服してしまえば、身体は毒に耐性を得ることができます。訓練中は常に解毒薬を備え、決して焦らず段階を踏んで行います。古来より伝わる魔法の中には、免疫力を高め、より毒に強くなる方法もございます」
レオンは、微量から始め徐々に量を増やし、常に体調を注意深く観察すると約束するなど、彼の知識と経験に基づく具体的な方法を説明した。この丁寧な説明は、毒耐性訓練の安全性を強調し、侯爵の不安を和らげようとした。
「今ご覧いただいたように、決して無謀な賭けではございません」
侯爵は、娘の身を案じ、深く眉を顰めた。
「危険はないと断言できるのか?」
その声には、父親としての切実な願いが込められている。
「完全に安全であるとは申し上げられません。しかし、最悪の未来を回避するためには、試みる価値のある方法だと信じております。わたくしが、必ずお嬢様をお守りいたします」
レオンは、力強く答えた。
侯爵は、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「娘を頼む」
その言葉には、レオンへの深い信頼と、娘の未来を託す父親の覚悟が込められている。
「ただし、この訓練は決して外部に漏らしてはならない。分かっているな?」
「承知いたしました、侯爵様。決して、口外いたしません」
レオンは、固く誓った。
♢♢♢
(ヴィオレット視点)
翌日の午後、ヴィオレットは緊張した面持ちで屋敷の離れにある小さな書斎にレオンと共に向かった。普段はほとんど使われていないため、人目を気にせずに訓練を行うことができる。
ヴィオレットの小さな手は、氷のように冷たく、わずかに震えている。
レオンは、そんなヴィオレットの目を見て、優しく励ました。
「ご心配には及びません、お嬢様。私が常におそばにいます」
レオンが用意したのは、ごく微量の、庭園にひっそりと自生する月響草という植物由来の毒だった。それは、適切に扱えば体に害はなく、徐々に耐性を高める効果が期待できるものだった。
レオンは、その毒の性質や、摂取することによる体の変化について、ヴィオレットに分かりやすく説明した。
「最初は、ほんのわずかな苦味を感じるかと思います」
ヴィオレットは、覚悟を決めてレオンから差し出された小さなガラス瓶を手に取った。中には、朝露のようにきらめく、淡く青白い液体がほんの少し入っている。
深呼吸を一つして、ヴィオレットはそれを口にした。ほんの数滴。だが、その瞬間、彼女の顔はすぐに歪んだ。舌の奥に広がる苦味が味覚を襲う。思わず顔をしかめるが、レオンの励ましに応え、涙目でなんとか飲み干した。
「いかがですか、お嬢様? 何か 異常な感覚はありますか?」
レオンは、ヴィオレットの様子を注意深く観察しながら尋ねた。その瑠璃色の瞳は、彼女の顔色のわずかな変化も見逃さない。
「おえ……思ったよりも苦いです。騙しましたねレオン」
ヴィオレットは、思った事を正直に告げた。体には特に変化は感じられない。普段は感情を表に出すのは苦手だが、この不快感は隠せない。
「あれ? 私は、慣れてしまっていたのか、ほんの少ししか苦いと思いませんが……香味野菜嫌いのお嬢様には新鮮な味でしたか」
本心なのか、場を和ますための冗談なのか……レオンがとぼけた事を言っているが、時間が経つと少し胃がムカムカしてきた。
「それが、お嬢様の身体が毒に反応している証拠です。無理はなさらず、もし辛くなったらすぐに教えてください。解毒いたします。効果を上げる為に『生命活性』の魔法をお嬢様におかけ致します」
そう言ってレオンが魔法を使い、光る掌をヴィオレットのお腹に当ててくれた。じんわりと体の中がぽかぽかしてくる。
(あ……なんだか日向ぼっこをしているみたいに気持ちが良いですね。)
「お辛くないですか?」
問いかけるレオンの声は静かだが、その奥には確かな力と優しさが宿っている。
「もう大丈夫です」
最初の訓練は、ほんの数滴の毒を摂取するだけで終わった。レオンは、ヴィオレットの顔色や脈拍を注意深く観察し、異常がないことを確認した。
「今日はここまでです。よく頑張られました、お嬢様」
レオンが労いの言葉をかけてくれた。その声には、いつもの完璧な執事としての仮面の下に隠された、優しい感情が確かに感じられた。
その夜、ヴィオレットは、口の中の微かな苦味と共に、レオンの心配そうな、でもどこか期待に満ちた笑顔を思い出しながら、眠りについた。
(レオンを信じれば、きっと大丈夫。)
微かな苦味が、未来を変えるための小さな決意を灯した。未来への期待と不安がないまぜになったような、不思議な感覚を抱きながら、深い眠りへと落ちていく。
夜が明けるまで、連日の悪夢を見ることはなく、久しぶりに朝までぐっすりと眠ることが出来たのだった。