第31話 運命の舞踏会
王立学園で夏の太陽賛歌祭に合わせて開催される、盛大な舞踏会。その招待状を受け取った日、ヴィオレットの心臓は悪夢が現実になる予感に、きゅっと縮こまった。夢で見たあの光景が、ついに目の前に迫ってきたのだ。
舞踏会当日の夕刻。今宵が、望む未来への静かなる第一歩となる――ヴィオレットは、そんな決意を胸に、侍女たちの心を尽くした身支度を受けていた。
「流石はヴィオレット様です。この上なくお綺麗でいらっしゃいますわ」
「ありがとう。カミーユもとても素敵ね」
「ヴィオレット様のお衣装、輝いていて、ため息が出ちゃいそうです」
「クラリスも、とても可愛らしいですわ。そのドレス、春の草原に咲く花のよう」
和やかな言葉を交わし、準備を整えたヴィオレット、カミーユ、クラリスの三人の前に、専属執事レオンと四名の侍女が控えた。
「お嬢様、参りましょう」
レオンは先頭に立ち、ヴィオレットに軽く会釈した。ヴィオレットは頷き返し、カミーユとクラリスと共に後に続いた。控えめに侍女たちがその後を追う。
レオンの滑らかな動きに導かれ、賑わう人々の中、廊下を進む。ヴィオレットは、常に傍らを一歩先を行くレオンの、頼もしい背中を見つめた。
エントランスホールには、本来待っているはずの人物の姿が見えなかった。しばらく待ったが無駄かと思い直し、ヴィオレットはレオンに視線を向けた。
レオンは主の意図を察し、小さく頷いて舞踏会場である大広間へと先導する。ヴィオレットはカミーユ、クラリスと共に大広間へと入場した。レオンと侍女たちは、彼女たちの少し後ろに続いた。
すでに会場は、着飾った生徒たちの熱気と、楽団が奏でる優雅なワルツの調べで満たされていた。天井からは巨大なシャンデリアが無数の光を降り注ぎ、磨き上げられた床にその輝きを映し出している。
未来の王太子妃であるヴィオレットの登場に、多くの視線が集まるのを感じた。
ヴィオレットが纏うのは、月明かりだけを溶かし込んだような淡い真珠色のシルクドレスだ。最高級の絹糸で織られた生地は、しっとりとした上品な艶めきを放ち、水面のように滑らかなドレープを描く。
そのデザインは、豪華絢爛なドレスが並ぶ舞踏会の場にあっては、驚くほどに潔く、シンプルだった。パニエを用いず、生地の重みだけで描かれる抑制されたAラインは、その下に宿る女性らしい曲線を優しく包み込み、ヴィオレットのすらりとした立ち姿を引き立てる。
飾りを削ぎ落としたラウンドネックとシンプルな長袖は、かえって彼女自身の透明感と上品さを際立たせていた。胸元からウエストにかけて、ほぼ同色の糸で夜明け前の空に瞬く星々のような刺繍が施されている。遠目には微細だが、近くで見れば息を呑むほど精密で、熟練した職人の手仕事を感じさせた。
ヴィオレットの艶やかな深紫色の髪は、丁寧に結い上げられている。そこに飾られたのは、ドレスの意匠に連なる夜露と星影の蔓飾りだ。
細いプラチナ製の蔓に、夜露のようにムーンストーンが、星屑のように小粒のダイヤモンドが控えめに瞬く。髪飾りの光は、素材単独の強い光ではなく、まるでヴィオレットの紫水晶のような輝きを持つ菫色の瞳と響き合うように、奥ゆかしい光を湛えていた。
最新の流行や家柄の誇示とは無縁のその装いは、豪華さを競うこの場にあっては、一見控えめに映るかもしれない。
だが、最高級の素材だけが持つ静かな光沢と、細部に宿る比類なき技術、そして何よりも着る者自身の揺るぎない品格が一体となったその美しさは、表面的な華やかさとは異なる、本質的な存在感を放っていた。
それは、見る者の審美眼を問い、一度目を奪われれば、容易には忘れられぬ、静謐な光彩だった。
ヴィオレットは、クラリスやカミーユと共に、友人たちと挨拶を交わした。グラスを片手に談笑し、音楽に耳を傾ける。
学園に入ってから築いたささやかな人間関係は、彼女に確かな居場所を与えてくれていた。この穏やかな時間だけは、悪夢のことも、婚約者である王子のことも忘れ、束の間、純粋に舞踏会の雰囲気に身を委ねた。
しかし、その穏やかな時間は、予期せぬ形で破られることとなる。
ワルツの曲が終わり、人々が次のダンスの相手を探し始めた、まさにその時。会場の入り口付近がにわかに騒がしくなり、生徒たちの視線が一斉にそちらへ注がれた。
そこに立っていたのは、オーギュスタン殿下だった。第一王子は、金髪に金色の瞳。格式高い深い紺のフロックコートに金糸の豪華な刺繍が施され、その容姿端麗さを際立たせていた。
王子の隣には、絹糸のような髪を美しく結い上げたロザリー・レジェモン嬢がぴったりと寄り添うように立っている。
ロザリー嬢は、蜂蜜色の髪に薄水色の瞳。シャンパンゴールドのドレスはクリスタルやビーズが散りばめられ、動くたびに眩い輝きを放つ。髪には輝きと調和したティアラ風の髪飾り。
二人の装いは、会場の誰よりも目を引く華やかさに満ちている。二人のその親密すぎる様子は、会場の華やかな雰囲気に、一瞬にして不穏な影を落とした。
(……あの方たち、このような公の場で……)
ヴィオレットの胸に、冷たい予感が走る。オーギュスタンは、周囲の注目を集めていることをむしろ楽しむかのように、ロザリーを伴って、まっすぐヴィオレットの方へと歩みを進めてきた。楽団の演奏も止まり、会場は水を打ったように静まり返る。
オーギュスタンはヴィオレットの目の前に立つと、挑戦的な光を宿した金色の瞳で彼女を見据え、傲慢な声で宣言した。
「ボーフォール侯爵令嬢ヴィオレット! そなたとの婚約は、本日をもって破棄する!」
その言葉は、静寂を切り裂き、大広間に響き渡った。周囲の生徒たちは信じられないといった表情で固まり、息を呑む。カミーユは顔色を蒼白にし、クラリスはヴィオレットの腕を強く掴んだ。
ヴィオレットは、その瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われた。五年前に見た悪夢――あの冷たい声、嘲る人々の視線が脳裏に鮮明に蘇り、寸分違わぬ形で現実として目の前に突きつけられる。ひやりと、悪寒が背筋を這い上がった。
王子の隣で、ロザリーが勝ち誇ったような、それでいて甘美な微笑みを浮かべているのが視界の端に入った。
周囲からは、抑えきれない囁き声が聞こえ始めた。
「嘘でしょう……?」
「婚約破棄ですって?」
「いったい何故……」
「ロザリー様は……?」
オーギュスタンは、会場の動揺など意にも介さず、ヴィオレットへの侮蔑を隠そうともせずに言葉を続けた。
「そなたのような、陰気で可愛げのない女が、私の隣に立つなど、もう耐えられん! 王太子妃に期待される輝きも、私を惹きつける魅力も一切ない! 見た目は地味で、見る度に興ざめする!
態度は高慢で、常に私を見下しているのだろう!? そして、その陰湿さで、家柄ばかりを鼻にかける様には、心底うんざりした! これ以上、そなたのような女の顔を見るのは御免だ!
聞くがいい! 私はついに、真実の愛を見つけた! 私の魂が求める運命の淑女は、このロザリーをおいて他にいないのだ! 私はそなたとの婚約破棄をもって、ロザリーと新たに婚約する!」
王子はそう言って、ロザリーの肩を強く抱き寄せ、彼女に陶酔したような視線を送った。ロザリーは、頬を染め、うっとりとした表情で王子を見上げながらも、その瞳の奥には、ヴィオレットに対する明確な嘲りの色が浮かんでいた。
その表情が、ヴィオレットの心に冷たい怒りの火を灯す。
(……真実の、愛……ですって? ……なんと、身勝手で幼稚な……)
王子の言葉とロザリーのあからさまな態度に、怒りを通り越して、もはや冷めた感情しか湧かない。かつて、婚約者として支えようとした相手の本性が、これなのか。
(……あら……? ……ひょっとして……断罪はないのかしら?)
衝撃と怒りに身を任せるわけにはいかない。彼女はぐっと、背筋を伸ばした。感情に支配されてはならない。ここで取り乱せば、彼らの思う壺だ。クラリスが、心配そうにヴィオレットの腕を握る力が強くなった。
ヴィオレットは、王子が言い放った理由と、悪夢で恐れ続けた「断罪」がないという決定的な違いに、冷静な思考を取り戻し始めた。これは、予期せぬ、しかしある意味では好都合な状況なのではないか?
会場の隅では、教師たちが慌ただしく動き始め、事態を収拾しようとしているのが見える。だが、オーギュスタンが放った言葉は、すでに会場全体に広まり、取り返しのつかない状況を生み出していた。
ヴィオレットはクラリスの手を離し、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、王子とロザリーを真っ直ぐに見据える。
長年の悪夢との闘いで培われた精神力と、妃教育を積み重ねてきた侯爵令嬢としての矜持を胸に、彼女は反撃の言葉を紡ぎ出そうとしていた。




