第22話 古文書庫
燃え盛る悪夢以来、ヴィオレットとレオンの日常は、侯爵家の広大な書庫、そしてその奥に続く古文書庫に籠もる時間で占められた。埃っぽい古文書の山と向き合う、静かな夏の日々だった。
目的はただ一つ。悪夢で断罪された伝染病「黒死斑」と、舞台となった「ビューコン村」に関する情報を探し出すこと。
悪夢のことを正直に話したところ、両親は協力を約束してくれた。レオン独自の情報網に加え、侯爵家の正規の報告ラインも活用できるよう手配されたことは心強かった。
ボーフォール侯爵家本城の古文書庫は、地上階の書庫とは異なり、地下深くの古い石造りだった。湿気と乾いたインクと古い羊皮紙独特の匂いが立ち込め、外の夏の暑さとは無縁のひんやりとした空気に満ちている。
埃を被った羊皮紙や巻物が、壁一面の棚にぎっしりと並んでおり、どれから手をつければ良いのかも判然としない。
だが、ヴィオレットの隣には、レオンがいた。
レオンは、まるでこの場所の主かのように棚の間を音もなく縫い、目当ての書物を速やかに探し出す。「古い時代の疫病に関する記録を」と曖昧に伝えても、すぐに適切な書物を数冊選び出してくれた。
悪夢回避への強い意志を原動力に、ヴィオレットは古文書を読み解く。医学書、領内の歴史書、村々の記録……二人で難解な記述と向き合った。ビューコン村に関する記述は、特に注意深く読み返す。
レオンはヴィオレットの隣で、難解な古語や地方の訛りを解読し、情報を整理し、温かいハーブティーをテーブルの端に置くなど、自らも調査する傍ら、お嬢様を支えた。
何十時間もの調査が過ぎたある日。棚の奥深く、忘れ去られたかのような一角で、ヴィオレットは古びた羊皮紙を引き抜いた。ビューコン村に関する、これまで見つけられなかった古い記述。独特の筆跡に、彼女の視線が釘付けになった。
『ビューコン村、古よりリュミエールの神秘と深く結びつく地。稀人の伝承あり』
「稀人……?」
ヴィオレットは思わず呟き、顔を上げて隣のレオンを見た。
「レオン、これをご覧くださいませ。『稀人』とは、どういう意味なのでしょうか?」
レオンはヴィオレットの手元の記述にすっと目を落とし、静かに答えた。
「『稀人』とは、おそらく、この国に古くから伝わる、特殊な力を持つ人々のことを指すかと。ソール教の古い伝承にも、リュミエールと心を通わせる特別な力を持つ者たちの記述が見られます」
彼の言葉に、リュミエールとソール教の奇跡がヴィオレットの脳裏をよぎる。そして、さらに読み進めるうちに、彼女は決定的な記述を見つけた。
『かの地には特有の風土病あり、稀に黒き斑点現る。古より、かの地にて『黒死斑』と恐れられし』
「……! レオン! これですわ! 『黒死斑』! そして、『風土病』とありますわ!」
ヴィオレットは興奮してレオンにその箇所を指し示した。燃え盛る悪夢と一致する病の名。それがビューコン村特有の「風土病」であるという記述。
レオンもその記述に目を凝らし、静かに頷いた。
「やはり……あの悪夢は、この村の風土病を示唆していた可能性が高いですね。そして、リュミエールとの関連性も……」
レオンはリュミエールの特殊な性質、「リュミエールの感受性共鳴」の可能性に言及した。
「人々の強い感情や精神状態が、リュミエールに影響を与え、そのリュミエールが更に人々に悪影響を及ぼす。それが病気を引き起こし、あるいは悪化させる。もしこのビューコン村に特有のリュミエールが自生しており、それが人々の感情に強く反応する性質を持つとしたら……」
レオンの仮説に、ヴィオレットは深く頷いた。悪夢の断罪場面で、周辺から集まったであろう村人たちの狂乱した憎悪の視線に焼かれた感覚を思い出す。
「あの悪夢の中の村人たちは、まるで何かに煽られているかのようでしたわ……人々の『不安』や『恐怖』、あるいは『憎悪』といった感情が、リュミエールの異常な活性化を引き起こしている……?」
それは単なる病気ではなく、人々の感情や、何らかの「意図」が関わる可能性を示唆していた。悪夢で自分が罪を着せられた状況を思うと、人為的な悪意の可能性も否定できない。
レオンもヴィオレットの考察に同意した。
「お嬢様のおっしゃる通り、単なる自然発生的な流行ではない可能性が高いかと存じます。特に、お嬢様が悪夢の中で罪を着せられた状況……そこに何者かの意図が働いている可能性は十分に考えられます。そして、そのような陰謀を企む者といえば……」
レオンの美しい瑠璃色の瞳に、一瞬、氷のような鋭い光が宿った。それは第二王子、もしくは第三王子派閥への警戒を示唆する光と重なる。彼は言葉にはしなかったが、その眼差しが何を意味するのか、ヴィオレットには痛いほど理解できた。
「さらに、こちらの記録には……このビューコン村は、古くからリュミエールと深く結びつき、稀人の伝承が残る土地……。
そして、古文書の中には、この村のリュミエールが、他の場所とは異なる性質を持つこと、そして、この地が過去に『古代文明』が栄えていた土地と一致するという記述も見受けられます」
レオンが別の棚から素早く探し出した古文書の記述を指し示す。そこには、古代の文字や、リュミエールに関する不思議な図形が描かれていた。これは、風土病とリュミエールの関連性が、さらに深い謎に繋がっていることを示唆していた。
調査に熱中し、時間が経つのも忘れてしまう二人。気づけば、地下の書庫は夜の冷気を帯び始めている。冷え始めたヴィオレットの肩に、レオンがさりげなく上質なショールをかけてくれた。
いつもの完璧な執事の所作。だが、ショール越しに彼の指先が、ヴィオレットの肌に微かに触れた。微かな熱を感じた瞬間、彼女の体はぴくりと反応した。すぐ隣にいるレオンの存在が、やけに大きく感じられる。
(……レオン……!)
ヴィオレットは思わず顔を上げ、彼の真剣な横顔を見つめてしまった。地下書庫に灯るランプの薄明りの中、彼の横顔はいつも以上に精悍で、そして、どこか近寄りがたいほどの憂いを帯びて見えた。
彼の博識さ、冷静な分析力、そして常にヴィオレットを案じる彼の眼差しが、静かに彼女の胸に響いた。
目が合うと、レオンはわずかに驚いたように瑠璃色の瞳を見開き、そしてすぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。その完璧な微笑みの裏で、彼が白い手袋に包まれた手を、ほんの一瞬、強く握りしめたのをヴィオレットは見逃さなかった。
(この仕草……まるで何かを耐え忍ぶかのような……レオンも、わたくしと同じように、何かと戦っているの……?)
ヴィオレットの頬は、自分でも気づかぬうちに微かに熱を帯びていた。レオンが優しく声をかける。
「お嬢様、冷えていらっしゃいましたか。無理はなさらないでください」
(そんな……! 見ないでくださいませ、レオン! わたくし、今、どんな顔をしているのでしょう!)
胸の奥が、まるで朝の光を浴びて花びらがゆっくりと花開くように、ほんのりと温かくなる。これは、レオンへの「感謝」だけではない。彼が側にいるだけで、心が安らぎ、彼の言葉一つ一つに、胸が高鳴る。これは、まるで……。
(わたくし、レオンに、惹かれている……?)
自分自身の感情に気づき、戸惑い、ほんの少しの喜び、そして既に第一王子という婚約者がいる現実の壁に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「コホン。お嬢様、本日はそろそろ終わりにいたしましょう」
「……ノエミ? そうね、そろそろ切り上げましょうか」
翌日以降は、発見された手がかりを元に、今後の対策について更に話し合う。文献調査だけでなく、実際にビューコン村とその周辺地域を視察し、現状を確認する必要があることを確認する。
「お兄様にも、何か古い記録がないか伺ってみましょう。もしかしたら、ビューコン村やリュミエールに関する手がかりを持っているかもしれませんわ」
レオンはヴィオレットの提案に静かに頷いた。
「リュミエールの研究をなさっているマクシム様ならば、確かにお力になってくださるかもしれません。ですが、この調査は水面下で進めるべきですゆえ、くれぐれも慎重に。全てをお話しになるかは、お嬢様のご判断にお任せいたします」
彼の言葉には、この問題の根深さ、そして陰謀の危険性が潜んでいることへの警戒が滲んでいた。ヴィオレットは改めて気を引き締めた。
「ええ、承知いたしましたわ」
地下書庫に静寂が戻る。ビューコン村、古より『黒死斑』と呼ばれた風土病、リュミエール、稀人、古代文明、そして陰謀……。いくつもの線が、複雑に絡み合っているようだ。悪夢は、単なる病気ではなく、もっと深い、そして人為的な闇を示唆しているのかもしれない。
だが、ヴィオレットは一人ではない。レオンがそばにいてくれる。そして、もしかしたら、お兄様も。
(必ず、この未来を変えてみせますわ)




