第20話 燃え盛る悪夢とプッツンする令嬢
王都での喧騒が嘘のように、ボーフォール侯爵領の本城での日々は穏やかに過ぎていた。初夏の眩しい陽光が庭園の緑を濃く染める頃、ヴィオレットは十四歳になっていた。
自室の涼やかな窓辺で書物を開く横顔には、少女の面影は薄れ、知性と気品を湛えた令嬢の姿があった。
背丈は伸び、手足はしなやかに、体には、女性らしい豊かな丸みが現れていた。厳しい訓練で引き締められた体躯は、ドレス越しにも健康的な美しさを感じさせる。
深紫色の髪は艶を増し、強い意志を宿す菫色の瞳は、時に紫水晶のように怜悧な輝きを放つ。
感情を表に出すのが苦手な性質は変わらないが、その静かな佇まいには、以前にはなかった確かな自信と、人を惹きつける凛とした美しさが備わっていた。
夢とはいえ、決闘での鮮烈な達成感は、今もヴィオレットの心を支える確かな光となっていた。
日々の厳しい訓練は変わらず続いているが、以前のような絶望的な焦燥感は薄れ、未来は自らの手で切り拓けるのだという静かな自信が芽生え始めていた。
(このまま、少しずつでも……着実に……)
そう、願っていた矢先のことだった。その夜、ヴィオレットは再び、奈落へと突き落とされた。抗いがたい眠りの淵で見たのは、これまでで最もおぞましく、理不尽で、そして逃れようのない悪夢だった。
♢♢♢
(熱い……! 黒煙が……! 息が、できない……! 苦しい……!)
ごうごうと地鳴りのような音を立てて燃え盛る炎。全身を舐めるような灼熱と、肺を灼き、視界を奪う刺激臭の黒煙。
手足は焼けつくように熱い杭に荒縄で固く縛り付けられ、身動き一つ取れない。熱で皮膚が引き攣り、破れるような激痛が生々しく全身を襲う。
見上げれば、夜空を禍々しく赤く染める巨大な焚き木。パチパチと爆ぜる火の粉が容赦なく降り注ぐ。そして、その炎の向こうに揺らめく、歪んだ憎悪と嘲笑を浮かべた無数の顔、顔、顔……。
「魔女め!」
「人殺し!」
狂乱した罵声が、燃え盛る炎の音と混じり合い、鼓膜を不快に打つ。悪意が物理的な圧となってヴィオレットを押し潰そうとする。逃げ場など、どこにもない。
ここは、どこかの村の広場だろうか。周囲には、恐怖に引き攣った村人たちの姿も見える。怯えながらも、彼らの目にもまた、ヴィオレットへの抑えきれない憎悪の色が燃えていた。
そして、少し離れた場所に設けられた壇上には、冷酷な表情でヴィオレットを見下ろす、あの男の姿があった。
婚約者であるはずの、第一王子オーギュスタン。その金色の瞳には、何の温かみもない、冷え切った金属のような光が宿っている。
「ヴィオレット・ボーフォール! そなたの罪は万死に値する!」
オーギュスタンの声が、燃え盛る炎の音にも負けじと、甲高く、舞台役者のように響き渡る。その声には、以前の悪夢で聞いた冷酷さに加え、この公開処刑を楽しむかのように、隠しきれない嗜虐的な喜びが滲んでいた。
「そなたは、伝染病『黒死斑』に冒されたこのビューコン村を、己の保身のため、領民もろとも焼き払うよう命じた! 病に苦しむ者、幼き子供、何の罪もない人々を、情け容赦なく火の海に突き落としたのだ!
その悪逆非道、人の心を持つ者の所業ではない! 断じて許すわけにはいかぬ!」
(違う……! わたくしは、そんな命令など、断じて……!)
ヴィオレットは必死に首を振ろうとするが、それも叶わない。ビューコン村――領地の端にある、古くからの言い伝えが残る小さな村。訪れた記憶はない。ましてや、焼き払う命令など、ありえない。
「わたくしは……命じてなど、おりません……! その村には、近づいたことすら……ありませ……!」
かすれた声で必死に訴える。ロワナール王国では、伝染病の蔓延を防ぐ最終手段として、王家の厳格な許可のもと、村の焼き払いが行われることがあるのは知っている。
だが、それは万策尽きた後の最後の手段のはず。そして何より、自分はこの件に関して、全くの無関係なのだ。なぜ、こんな理不尽な罰を……
しかし、オーギュスタンはヴィオレットの弁明に耳を貸そうともしない。むしろ、その苦悶の表情を愉しむように観察し、さらに唇の端を歪めた。
「まだ白を切るか! この期に及んで見苦しいぞ、ヴィオレット! そなたがこの村を通りかかった折、供の者に密かに焼き払いを命じたという確かな証言もあるのだ!
見よ、そなたの悪行に怒り、真実を語る者がこれほどいるではないか! もはや言い逃れはできぬ!」
壇上のオーギュスタンは芝居がかった仕草で周囲の群衆を指し示した。彼らの憎悪に満ちた視線が、再びヴィオレットに突き刺さる。
「神よ! この罪深き悪女に、正義の鉄槌を! 燃え盛る浄化の炎を与えたまえ!」
オーギュスタンの声が合図だったかのように、周囲の群衆の狂乱は頂点に達した。
「魔女め!」
「地獄へ落ちろ!」
「焼き殺せ!」
石が雨のように投げつけられ、ヴィオレットの体を打つ。熱い。痛い。苦しい。息ができない。そして、何よりも……この仕組まれたかのような悪意と、逃れようのない絶望が、骨身に沁みて悔しい。
燃え盛る炎がすぐそこまで迫り、ドレスの裾に燃え移る。灼熱が直接肌を焼き、悲鳴すら上げられないほどの激痛が走る。
意識が急速に薄れ、黒煙に霞む視界の中、ヴィオレットの脳裏に最後に焼き付いたのは、オーギュスタンの冷酷な、それでいてどこか満足げに歪んだ、無邪気な子供のように残酷な笑顔だった。
(この方は……本気で、わたくしが苦しみ、死ぬのを見て、悦んでいる……?)
そのおぞましい真実に思い至った瞬間、ヴィオレットの中で、これまでかろうじて保っていた何かの箍が、ぷつりと音を立てて外れた。
恐怖も、絶望も、悔しさも、痛みも、全てを超え、凍てつくような絶対的な拒絶が、内側から湧き上がってきた。
「――いやあああああっ!」
飛び起きたベッドの上で、ヴィオレットは激しく喘ぎながら、全身を濡らす冷たい汗に気づいた。心臓は警鐘のように激しく早鐘を打ち続け、火あぶりの幻影が赤くちらついた。
生々しい熱さと焦げ付くような痛みが、幻だとわかっていても肌にこびりついているかのようだ。
しばらくの間、浅く速い呼吸を繰り返すことしかできなかった。窓の外はまだ深い闇に包まれている。しんと静まり返った部屋が、悪夢の恐怖と生々しさを一層際立たせた。
(……また、悪夢……今度は、火あぶり……なんて、おぞましく、残酷な……)
身に覚えのない罪で断罪される。その筋書きは同じ。だが、今回の罪状と結末は、これまで以上に陰惨で、悪意に満ち、理不尽だった。後味の悪さが、胃の腑に鉛のように溜まる。
そして何より、ヴィオレットの心を真に凍りつかせ、決定的に変えたのは、夢の中のオーギュスタンの表情だ。あの、歪んだ満足感。
まるで、ヴィオレットが断罪され、極刑に処され、苦しみ悶えること自体を、心の底から望み、愉しんでいるかのような……
(もう……駄目だわ……あの方とは、もう)
十歳の頃、初めて悪夢を見た時、オーギュスタンに嫌われたくない、好かれたいと必死で願った幼い日の気持ちは、もう一片たりとも残っていなかった。
馬術比べの後、ほんの少しでも分かり合える、共に成長できると期待した自分が、愚かで滑稽に思えた。
彼は変わらない。悪夢の中では邪悪さを増し、現実の彼もまた、ヴィオレットが努力し、成長するほどに、幼稚な対抗心を燃やし、足を引っ張り、時には公然と侮辱してくる。
(あの歪んだ笑顔は、夢の中だけのものなのだろうか? )
いや、違う。現実の彼の心の奥底にも、あの醜い感情が潜んでいるのだ。そうでなければ、あんな表情はできない。
(あの方と添い遂げる未来など……考えたくもない。想像するだけで、おぞましくて吐き気がするわ)
ふつふつと、腹の底から冷たい怒りが湧き上がってくる。なぜ、自分ばかりがこんな目に遭わなければならないのか。
なぜ、未来の王たる者が、これほどまでに未熟で、歪んでいて、他者を顧みないのか。否、もはや未熟という言葉では生ぬるい。あれは、悪意だ。純粋な、害意だ。
(もう、結構ですわ。あのような方、こちらから願い下げよ!)
これまでは、悪夢の未来を回避することばかり考えてきた。どうすれば生き延びられるか、そればかりだった。
だが、今は違う。この理不尽で、屈辱的で、もはや有害でしかない婚約そのものを、終わらせたい。自分の意志で、この忌まわしい繋がりを断ち切りたい。ヴィオレットの中で、何かが決定的に吹っ切れた。
(そうだわ……むしろ、好都合かもしれない。わたくしが努力を重ね、殿下にとって目障りな存在であり続ければ……いつか、殿下の方から愛想を尽かしてくださるかもしれない。ええ、きっとそうだわ。その方が、ずっと自然で、波風も立たないはず)
悪夢の断罪は絶対に回避しなければならない。火あぶりなど、絶対に御免被る。彼から一方的に婚約破棄されるという結末は、確かに屈辱的かもしれない。
(けれど、火あぶりにされるよりは、ずっとましだわ。そう、この未来のために、今から布石を打たなくては。誰にも明かせない、わたくしだけの秘密の企み)
もはや、世間体などどうでもいい。なんと謗られようと構わない。自分の尊厳と未来は、自分の手で掴み取るのだ。
(そのためにも、まずはこの『火あぶり』の未来を、絶対に回避しなければ……!)
ヴィオレットは震える手で、胸を押さえる。夜明けが来るのが待ち遠しい。この忌まわしい悪夢と、そこから生まれた決意を、早くレオンに伝えたかった。
(伝えるのは悪夢の内容と回避への決意だけにしなければ。誰にも悟られないように、婚約破棄を待ち続けるのよ)
やがて夜が明け、ノエミによる身支度を済ませると、ヴィオレットの私室の応接間にレオンが入室した。
彼はヴィオレットの蒼白な顔と、常ならぬ硬い表情、そして瞳の奥に宿る激情の光を一瞥するなり、即座にただならぬ事態を察したようだった。その深く静かな瑠璃色の瞳に、鋭い憂慮と、何かを覚悟したような色が浮かんだ。
「お嬢様、また悪夢を……? いったい、今度はどのような……」
彼の声には、隠しきれない心配と、そして主を繰り返し苛む見えざる悪意への、氷のような静かな怒りが滲んでいた。
「レオン……今度の悪夢は……わたくしが、伝染病に冒された村を焼き払ったという、身に覚えのない罪で……火あぶりにされる、というものでした……」
途切れ途切れに、ヴィオレットは夢の内容を語った。ビューコン村の名、オーギュスタンの残酷な断罪の言葉、そして燃え盛る炎の恐怖と、最後に見た彼の歪んだ笑顔。
話しているうちに、再び体が小刻みに震えだすのを止められなかった。
レオンは黙ってヴィオレットの話を聞いていた。完璧な執事の仮面の下で、彼の眉間には皺が刻まれ、その拳が固く握りしめられているのを、ヴィオレットは見逃さなかった。
その静かな佇まいからは、理不尽な苦痛と侮辱を受けた主への、抑えきれない憤りが痛いほど伝わってきた。
「火あぶり……なんと、おぞましく、許し難いことを……。承知いたしました、お嬢様。そのビューコン村、そして黒死斑について、早急に、徹底的に調査を開始いたします。そのような未来、このレオン、断じて現実にはさせません。決して」
彼の力強い言葉には、絶対的な決意が込められていた。その揺るぎない響きに、ヴィオレットは僅かに強張りかけた心を解きほぐされた。
そうだ、自分は一人ではない。この誰よりも頼りになり、誰よりも自分を理解してくれる執事が、いつもそばにいてくれる。
「お願いします、レオン。わたくしも、できる限りのことをしますわ。わたくしは、もう決して諦めません。どんな手段を使ってでも、この運命に抗ってみせます」
ヴィオレットの声には、もう涙の響きはなかった。あるのは、研ぎ澄まされた刃のような、硬い決意だけだった。その言葉に、レオンは力強く頷いた。彼の瞳には、主の強い意志を支えようという、揺るぎない光が宿っていた。




