第2話 十歳の誕生日と悪夢の始まり
朝の光を吸い込んだ紫水晶のブローチが胸元で輝き、その輝きを見つめるヴィオレットの心は、十歳の誕生日を迎えた今日への期待で高鳴っていた。
ロワナール王国第一王子オーギュスタン殿下との婚約式。王宮の祝宴の間は、朝から夢のように華やいでいた。
シャンデリアの眩い光が磨かれた床に反射し、色とりどりの花々が甘い香りを放つ中、集まった貴族たちの笑顔が溢れていた。
小さなヴィオレットの胸は、喜びと、初めての経験にほんの少しの緊張を覚え、ドキドキしていた。隣の第一王子の横顔をそっと窺うと、満足そうな、どこか誇らしげな表情をしていた。
(オーギュスタン殿下も、この婚約を喜んでくださっているのね……ほんの少しでも、わたくしのことを好いてくださると嬉しいのだけれど。)
二人で並び、フィリップ国王陛下の温かい笑顔と、イザベル王妃殿下の優しい微笑みに迎えられ、ヴィオレットはそっと胸をなでおろした。
温かい拍手が祝宴の間を満たし、ヴィオレットの心は、きらきらと輝く未来への希望でいっぱいになった。
昼食会では、両親であるボーフォール侯爵アルマンと、優雅な侯爵夫人セレスティーヌが、晴れやかな娘の姿を誇らしげに見守っていた。その温かい眼差しに、ヴィオレットは心からの幸せを感じていた。
友人たちの可愛らしい「おめでとう」の声が響き、ヴィオレットは今日がかけがえのない特別な一日になるだろうと心から信じていた。
婚約式のために王家から貸し出された、胸元で陽光を受けて煌めく紫水晶のブローチに、そっと手を添えた。
(このブローチを身に着けたわたくしの姿、殿下はお気に召してくださるかしら……綺麗でしょう?)
それは、先王妃マティルド様が大切にされていたという、由緒ある王家の宝物。陽光を浴びた紫水晶は奥底から光を放ち、ヴィオレットは思わず目を奪われた。
◇◇◇
昼間の喧騒が嘘のように、深夜のヴィオレットの寝室は、しん、と静まり返っていた。
広々とした豪華な内装で、窓からは柔らかな月光が差し込み、部屋を淡く照らしている。天蓋付きの寝台には、美しい刺繍が施された上質な寝具が置かれ、小さな令嬢を優しく包み込むようだった。
しかし、広々とした寝台の中で、ヴィオレットは小さく身を縮こまらせていた。昼間の笑顔は消え、菫色の瞳には、底知れない恐怖が宿っていた。
夢に見た華やかな舞踏会。シャンデリアの眩い光の下で、婚約者オーギュスタン殿下から突きつけられた冷酷な言葉が、まるで耳元で囁かれるように、何度も繰り返された。
「ヴィオレット、そなたとの婚約は破棄する! そして、その罪深き行いを断罪する!」
(あんなに優しかった殿下が、なぜ……?
わたくしは、殿下の嫌うことをしたのかしら?
……嫌われたくない。もっと、好かれたいのに……)
婚約破棄という言葉の衝撃以上に、ヴィオレットの幼い心を深く蝕んだのは、自らの最期だった。
暗く冷たい神殿。冷たい石畳の感触。毒杯を掲げ、苦痛に顔を歪め倒れていく自分。喉が焼け付く痛み、全身を駆け巡る苦悶。冷笑する貴族たちの顔。逃れられない死の宣告が重くのしかかった。
ただ息をするのさえ苦しく、心臓は喉元まで跳ね上がるように激しく鼓動する。額には嫌な汗が滲み、あの夢の景色が脳裏に焼き付いて離れない。拭えない嫌な予感が、小さな胸を締め付ける。
疲れ果てた小さな体は、温かい眠りを切実に求めていた。けれど、ヴィオレットの心は張り詰めていた。目を閉じれば、あの恐ろしい光景が再び現れるのではないかという強い不安に襲われ、なかなか寝付くことができない。
恐怖は幼い心を掴んで離さない。
(殿下に、こんな酷い目に遭わされるなんて……どうして……?)
やがて、まどろみ始める。しかし、安らかな眠りはほんの一瞬で途切れた。
あの神殿の光景が、再び容赦なくヴィオレットを襲う。今度は、冷笑する無表情な神官が差し出す毒杯が、より大きく迫ってくる。喉を焼く苦い毒の味。意識が遠のくような恐怖感。
それは現実と区別のつかない感覚で、ヴィオレットの体は震えた。
「いや……!」
ヴィオレットは悲鳴のようなうめき声を上げ、勢いよく跳ね起きた。額には冷たい汗が滲み、心臓は激しく鼓動していた。部屋は静寂に包まれ、聞こえるのは自分の荒い呼吸音だけだった。
夢と現実の区別がつかず、しばらくの間、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。けれど、見慣れた自室の様子に、ようやく恐ろしい夢から覚めたのだと理解する。
それでも、夢の中で味わった生々しい恐怖は、彼女の幼い心に深く刻まれていた。
(どうすれば、殿下に好かれるようになるのだろう……いつか殿下の妃となる身なのに、こんなにも嫌われてしまったら、わたくしはどうなってしまうのだろう……)
ヴィオレットは、自分が一体どうなってしまったのか、誰かに助けを求めたいと、切実に願った。けれど、王家に絶対的な忠誠を誓う両親を心配させたくない。打ち明ければ、その内容の重大さに叱られてしまうかもしれない。
侍女に話しても、ただの怖い夢だと笑われるだろう。「お相手は王子様なのですよ」と、諭される情景が目に浮かぶ。
今日、昼間にはあんなにも優しかった第一王子に、冷酷な言葉を浴びせられた衝撃は大きかった。もし、あの光景が本当に未来なのだとしたら……
(殿下に嫌われたら、わたくしはどうなってしまうの……? ボーフォール侯爵家の令嬢として、王太子殿下に嫌われるなど、あってはならないことだわ……)
誰かに話したところで、信じてもらえるはずもない。自分の気持ちを上手く言葉にできず、感情を表に出すのが苦手なことが、ますます誰にも頼れない状況を作り出しているように感じられた。
誰にも打ち明けられず、ヴィオレットは孤独な恐怖に耐えるしかなかった。自分の身にこれから一体何が起こるのだろうか。あの鮮明な夢は、本当に遠い未来なのだろうか……? そう考えると、不安で押しつぶされそうになる。
(殿下に、もっと笑顔を見せていればよかったのかしら……)
殿下の冷たい言葉は、幼いヴィオレットにとって、まるで未来を閉ざす鉄の扉のように、重くのしかかるようだった。
華やかな舞踏会、冷酷な婚約破棄、残酷な死の宣告。同じ光景が何度も頭の中で繰り返され、幼いヴィオレットの心を少しずつ蝕んでいく。
恐怖と孤独が、幼い心を締め付けるばかりだった。
広々とした寝台の中で膝を抱え、ヴィオレットは小さく震えていた。菫色の瞳から静かに涙が溢れ出し、美しい刺繍が施された上質な寝具を濡らしていく。その涙は、誰にも気づかれることなく、夜の闇に吸い込まれていった。
婚約式から三日が過ぎ、ヴィオレットは生気を失い、菫色の瞳は光を失ったようだった。重い倦怠感に囚われた体は、朝食も、趣味の読書さえも拒絶する。
午後の陽光は、ヴィオレットの意識を悪夢の残像へと引きずり込む。夜の訪れは恐怖で塗りつぶされ、目を閉じれば、冷たい石畳と毒杯の記憶が蘇る。
せめてもの慰めにと、庭園のリュミエールの花畑へ向かったヴィオレットは、一人佇んでいた。少し離れた場所には、付き従う専属執事レオンの姿があった。彼はそっとヴィオレットを見守り、その表情には明らかな心配の色が浮かんでいた。




