第16話 研鑽の日々と王宮での対立
夜の静けさが訪れたボーフォール侯爵邸の一室で、ヴィオレットは夜着に着替える間も惜しみ、専属執事レオンに向き直った。
常になく早口で、その声には抑えきれない憤りと落胆が滲んでいた。
「レオン……少し、聞いていただけますか」
「はい、お嬢様。何なりと」
レオンは音もなく歩み寄り、静かに主の言葉を待つ。その深く静謐な瑠璃色の瞳は、主の僅かな心の揺らぎも見逃さなかった。
「まず……先王妃殿下のことです」
ヴィオレットは、謁見での苦い経験を語り始めた。オーギュスタン殿下の将来を真剣に憂い、その資質と教育について尋ねたこと。それに対するマティルド殿下の冷淡な反応と、未来の王妃たる自身の努力不足を示唆する言葉。
「殿下は、『今はまだ、若者らしい自由闊達さをお認めになるべき』と……! そして、『そなたこそが、王太子を支え、王家を磐石のものとするべく、一層自己の研鑽に励むべき』と……!」
次代の王への危機感の欠片もないその態度に、ヴィオレットは深い絶望を感じていた。
「それに……今宵のオーギュスタン殿下も、あまりに理不尽ですわ!」
続けて、晩餐会での侮辱を思い出し、ヴィオレットの声は熱を帯びる。
「わたくしの故郷を、『地味なものしか誇るものがない』などと……! あまりにも、無知で傲慢ですわ!」
故郷と領民への誇りを踏みにじられた怒りに、唇が微かに震えた。
「お嬢様、お心を落ち着けてくださいませ」
レオンは静かにヴィオレットを制した。彼の完璧な執事の仮面の下には、主への侮辱に対する静かな、しかし底知れぬ怒りと、王子への明確な侮蔑の色が見て取れた。
「先王妃殿下のお考えは、おそらくは王家の因習とご自身の経験に固執されるが故。そして、オーギュスタン殿下のご発言は……誠に、配慮と見識を著しく欠いたものでございました。お嬢様のご憤慨、至極当然のことと存じます」
あくまで冷静な言葉の中に、深い共感が込められていた。彼は主の瞳を真っ直ぐに見つめて続ける。
「ですが、お嬢様。他者を変えることは叶いません。であるならば、今なすべきは、お嬢様ご自身が、いかなる理不尽にも屈せぬ『力』を身につけられること。
知性を磨き、技を極め、精神を鍛え上げ、確固たるご自身を確立なさることです。さすれば、周囲の雑音も、そして必ずや、悪夢の未来さえも、打ち破ることができると、私は信じております」
その揺るぎない確信に満ちた言葉に、ヴィオレットは乱れかけた心を鎮めた。
「ええ……わたくしが、強くならなければ……ありがとうございます。あなたの言葉は、いつもわたくしに勇気をくださるわ」
ヴィオレットの表情に、意志の光が戻った。
「お嬢様の道をお支えするのが、私の務めですので」
「さあ、今宵はもうお休みくださいませ。明日からの更なる研鑽のためにも、今は心身を休めることが肝要です」
レオンはわずかに表情を和らげ、穏やかにヴィオレットを促した。
その夜を境に、レオンによる新たな提案でヴィオレットの研鑽の日々は激しさを増した。
「お嬢様、いつも私とばかり剣術の訓練をしていては、他者との対応力がなくなってしまいます。今日からは護衛兼侍女であるマノン、フロランス、ナタリーとの剣術訓練を取り入れましょう」
重厚な剣撃を繰り出すマノン、疾風の如き速さで間合いを詰め翻弄するフロランス、相手の動きを読み切り変幻自在の技で対応するナタリー。三者三様の高度な剣技の前に、ヴィオレットは必死に食らいつく。
「侯爵様は、お嬢様の御身の安全を、常に第一に案じておられます。わたくし達三人は、いかなる時もお嬢様をお守りするべく、鍛錬を怠っておりません」
ナタリーが微笑みながら、毅然とした顔付きで言った。
(侍女の三人が、まさかこれほどの剣術の使い手だったとは……!)
息も絶え絶えになりながら、ヴィオレットは己の才能の限界と、埋めがたい実力差を痛感した。剣筋には、残念ながら恵まれなかった。
だが、それが諦める理由にはならない。予知夢で見た凄惨な決闘の結末を覆すために、基礎体力、受け流しの技術、そして何よりも、窮地に陥っても決して折れぬ精神力だけは、徹底的に体に、魂に刻み込むのだ。
「まさかノエミも、強いのですか!?」
ヴィオレットが問うと、お茶とお菓子を運んでくれるノエミが慌てる。
「わ、わたくしは本当に侍女の仕事しかできませんので!」
慌てるノエミの姿だけが、張り詰めた空気の中で唯一、ヴィオレットの心を和ませる清涼剤となっていた。
剣術以外にも、レオンという得難い師の下、ヴィオレットはあらゆる分野で己を磨き続けた。
ボーフォール領に戻ってからは、愛馬ゼフィールと一体となり、高度な馬術を習得。
書斎や訓練施設では、その類稀な魔法の才能を開花させ、制御技術、守護魔法、そして自衛のための攻撃・補助魔法の理論と実践に励んだ。
もちろん、未来の王妃として求められる膨大な座学も並行してこなしていく。妃教育のマダム・グランブータンも容赦がない。
息つく暇もない日々。しかし、ヴィオレットの心は静かな充実感に満たされていた。悪夢に打ち克つために、自分は日々、確実に力をつけ、前進している。
その確かな手応えこそが、彼女を突き動かす原動力だった。
(今日も、全力を尽くした。明日のわたくしは、今日よりも少しだけ成長しているはず)
一日の終わり、寝台に身を沈め、ヴィオレットは未来への決意を新たにするのだった。
♢♢♢
王都での衝撃的な晩餐会から、二年が過ぎた。十三歳となったヴィオレットは、大貴族の子女としての洗練された教養と、複雑な社交界を渡り歩く術を身につけつつあった。
王宮や有力貴族の邸宅で催される集まりへの参加も増え、二年後の王立学園入学への準備を着々と進めていた。
その日、ヴィオレットは春の日差しが降り注ぐ王宮の庭園で開かれた、格式高い茶会に招かれていた。
季節の花々が咲き誇り、同年代の着飾った貴族の子弟たちが優雅に談笑している。銀のティーセット、彩り豊かな菓子、香り高い紅茶。完璧に整えられた空間。
だが、その和やかな雰囲気を乱す者がいた。第一王子オーギュスタンである。
輝く金髪に整った顔立ち。しかしその表情には、年若い王子に似合わぬ、拗ねたような不機嫌さが浮かんでいた。午前中の何事かで、彼の自尊心が傷つけられたのかもしれない。
周囲の令嬢たちが流行のドレスや宝飾品、あるいは王都で評判の劇団の噂話に興じる中、ヴィオレットは少し離れた席で静かに紅茶を嗜んでいた。
話題が、ちょうど貴族の嗜みとしての乗馬や狩猟に移った、まさにその時。
オーギュスタンは、待っていたかのように、ヴィオレットにわざと聞こえるように、しかし周囲にも注意を促す声量で言った。
彼の不機嫌の矛先が、ヴィオレットに向けられたのだ。
「ほう、乗馬かね。そういえば、ヴィオレット」
彼はヴィオレットを一瞥し、嘲るような笑みを浮かべた。
「そなたは将来の王太子妃でありながら、もっぱら厩舎で馬と戯れてばかりいると聞くが、本当か? 妃として必要な淑女教育は、一体どうなっているのだ?」
周囲の空気が凍る。王子の言葉は、明らかな当てこすりであり、非難だった。
「それに、聞き捨てならぬ噂もあるぞ。なんでも、淑女にあるまじき『両跨ぎ』で乗馬の練習をしているとか。それは貴婦人として、いかがなものか?
優雅さのかけらもない、ただの男の真似事ではないか。そのような野蛮なことに現を抜かして、一体何の意味がある? 王太子妃たるもの、もっと優雅でなければ、私が妃として認めるわけにはいかないのだがな。」
彼の言葉は、明確な侮辱であり、一方的な価値観を振りかざした挑発だった。
(あなた様がそれを言いますか!? 夢とはいえ、執拗にわたくしを害そうとなさったからこそ、剣術や馬術の両跨ぎの訓練を特別に初めたのですよ!?)
周囲の令嬢たちは困惑し、扇で口元を隠して様子を窺う。
(殿下がもっとしっかりと教育を受けられていれば、それを補う為の、わたくしの過剰な詰め込み帝王学の負担から解放されるのですけれども!?)
しかし、ヴィオレットの表情から微笑みが消えることはなかった。完璧な淑女の仮面の下で、彼女の心は冷たく燃えていた。
「殿下、それは全くの事実誤認でございますわ」
ヴィオレットは優雅にカップを置くと、オーギュスタンに向き直った。
「ボーフォール侯爵家は武門の家柄であり、馬術は必須の嗜み。そして、どのような乗り方を選ぶかは、個人の自由であり、目的によって最適な方法は異なるものと心得ております。
わたくしの馬術の腕前、そしてその『意味』にご疑問がおありでしたら、いつでも、この場でご覧にいれましょうか?」
その声はあくまで静かだったが、一歩も引かぬ強い意志が込められていた。内心の怒りは微笑みに隠してわずかにも現さない。
透き通るような菫色の瞳が、真っ直ぐにオーギュスタンを射抜いた。




