第1話 悪夢の舞踏会
下記短編を長編化したものです。
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短編の続きは第8話からです。
「ヴィオレット、そなたとの婚約は破棄する!」
その冷酷な声は、凍てつく冬の嵐のように、豪華絢爛な王立学園大広間を冷え切らせた。
その凍りついたような空気の中、眩いばかりの光を放つ、幾重にも連なる大きなシャンデリアの下に立つのは、十五歳を迎えたばかりの侯爵令嬢ヴィオレット・ボーフォールだった。
隣に立つ婚約者、ロワナール王国第一王子オーギュスタンの口から出た信じがたい言葉に、ヴィオレットは息をのむほどの衝撃を受けた。
今宵は、王国中の名だたる貴族たちが、年に一度集う、華やかで盛大な舞踏会だ。
絹擦れの音、煌めくクリスタルグラスが優雅に触れ合うたびに響く、鈴のように澄んだ音。そして甘美でいながらどこか憂いを帯びたワルツの旋律が、祝祭の夜を優しく、情熱的に彩る。
モスグリーンの上質なシルクの夜会服を纏い、艶やかな深紫色の髪を丁寧に編み上げたヴィオレットは、銀色の髪飾りがシャンデリアの光を受けて輝いていた。希望に満ちた彼女の姿は、まさに今宵の舞踏会の主役となるはずだった。
未来への期待に胸を膨らませていたヴィオレットは、紫水晶のごとき輝きを宿す菫色の瞳を大きく見開き、目の前の婚約者をただ茫然と見つめていた。
周囲の喧騒は、ヴィオレットにとって遥か彼方の出来事のように、現実感を失っていた。
まるで濃密な霧に包まれ、五感が麻痺したかのように、一体何が起こっているのか事態が全く飲み込めなかった。ヴィオレットは美しい唇を小刻みに震わせながら、今にも消え入りそうな、か細い声で問いかけた。
「殿下……? いったい、どういう事でございましょうか?」
ヴィオレットの心臓は、激しい嵐に翻弄される小舟のように、激しく、そして頼りなく脈打っていた。冷たい汗が、背中をゆっくりと伝っていくのを感じた。
オーギュスタンの太陽光を閉じ込めたかのような金色の瞳には、いつもの優しい光は微塵もない。底知れぬ冷酷な光は、獲物を定める猛獣の眼光さながらに禍々しい。
「今更、白を切るつもりか! 他家の令嬢に毒を盛るなど、貴様の犯した罪は、もはや決して許されるものではない!」
オーギュスタンの声は、先程まで見せていた柔らかな王子としての仮面をかなぐり捨て、冷酷な断罪者の響きを帯びる。身に覚えのない罪状が、矢継ぎ早にヴィオレットに突き付けられる。
周囲の貴族たちの間に、静かに、しかし確実に、波紋が広がるように驚愕と困惑、そして隠しきれない好奇のざわめきが広がっていった。
誰もが息を呑み、世界から色彩が失われたかのように、この信じられない光景に目を凝らしていた。中には、面白おかしいとばかりに、嘲笑を隠そうともしない者もいた。
ヴィオレットは、華やかな舞踏会という舞台で、ただ一人、世界から見捨てられたような深い孤独に苛まれた。これまで大切に築き上げてきた侯爵令嬢としての誇りが、脆くも音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
会場に飾られた希望の象徴であるはずのリュミエールの花は、不吉な影に侵食され、ヴィオレットの瞳に映るその色は、淀んだ黒へと沈んでいた。
更にオーギュスタンは、残酷な言葉をヴィオレットに突きつける。
「その罪深き行いを断罪する! そなたには、死罪を申し渡す!」
その言葉に未来の国王としての威厳はなく、ただ冷酷で傲慢な悪意だけがむき出しになっていた。オーギュスタンの口元には、歪んだ笑みが浮かぶ。
あっという間に裁きは終わり、いくら無実を訴えても全く聞き入れてもらえなかった。それでもなお無実であることを訴えると、ならば神の裁きで判定するべし、と、有無を言わさず神殿へと連れて行かれた。
暗く冷たい神殿の中、神前裁判の壇上に一人立つヴィオレット。周囲には見慣れた貴族たちの顔。しかし、彼らの瞳には、好奇の色、そして冷酷な嘲りの色が醜く浮かんでいる。
厳かな神官の声が響き渡り、身に覚えのないおぞましい罪状が読み上げられる。そして、ヴィオレットの目の前に、銀色の光を鈍く放つ毒杯が差し出される。
震えるか細い手で、運命を受け入れるかのように毒杯を受け取る。一口喉を通すと、たちまち焼け付くような激痛が全身を駆け巡った。
ヴィオレットは苦悶の表情を浮かべ、床に倒れ伏した。身に覚えのない罪状、嘲笑する人々の冷たい顔、そして、決して逃れることのできない、残酷な死の宣告……
「いやぁああああ!」
喉が張り裂けるような悲鳴と共に、ヴィオレットは現実に引き戻された。
心臓が激しく鼓動し、全身を冷たい汗が覆っている。恐怖に全身を貫かれ、まるで悪夢から逃れるように、勢いよく自室の豪華な天蓋付きベッドから飛び起きた。荒い息遣いはなかなか落ち着かず、肩が小刻みに震えている。
十歳を迎えたばかりの夜。先程まで夢の中で体験した華やかで残酷な舞踏会の記憶は、悪夢の残滓となって幼い心臓を激しく、そして容赦なく打ち付けている。
絹のように滑らかな深紫色の髪は、寝汗で額や首筋に張り付く。まるで冷たい蛇が這っているかのような不快な感触が、より一層夢を現実のように思わせた。
胸を締め付ける強烈な不安感は、夢の鮮明さゆえだろうか。
(あの光景が、いつか本当に起こってしまうとしたら……)
夢の中で見た、十五歳の自分自身が鮮明に思い出される。あの時感じた底なしの絶望と骨まで凍り付くような恐怖が、幼い胸に深くそして重く刻まれた。
ヴィオレットの菫色の瞳は、まだ夢の残像を映しているかのように、深い絶望の色を湛えていた。