After The butterfly.【入賞記念作品】
────パシャッパシャッ、パシャパシャッ────煌めくライトに目が眩む。
たくさんの報道陣に囲まれて、笑う“彼”。
「──さん! 今回、発見された蝶には奥様の名前を付けられたそうですが、」
記者からマイクを向けられ、問われた内容に“彼”は気恥ずかしいとばかりに頬を染めて、笑んだ。
「……えぇ、ずっと約束していたんです。新種を見付けたら、彼女の名前を付けるって、昔から────」
「────……お母さん!」
呼ばれて、ハッとなって反射的に体を起こす。突然、叩き起こされた頭は空白をままに、状況を把握しようと周囲へ目線を走らせた。
十年は見慣れた室内に、私を覗き込む、娘。
どうも私は自宅のリビングで、ソファへ横になって転寝をしていたらしい。「……ぁ、」吐息と共に声を洩らして、ぼんやりと辺りを眺めた。
「もー……こんなとこで寝るなんて風邪引くよ?」
小言めいたことを言って、娘が肩を竦める。
反抗期が在るんだか定かでない昨今の若者に分類される娘であるが、とは言え、まぁまぁに生意気で。それは私の若かりし頃と何ら変わらない気がする。そんな娘に呆れられるのも致し方無い状態だった私は、誤魔化すみたいに苦笑いを浮かべた。
「……それでさ、今から出掛けるけど、何か買って来て欲しいものとか在る?」
「あら、どこ行くの?」
「雨が凄いからさー、お父さんを迎えに行こうかなって。車で」
ふと娘の言葉に窓を見遣れば、確かに雨が降っていた。それも、とんでもない土砂降りだ。
「……」
あの夢は雨のせいだったのね、なんて密かに考える。
「今日、午後から雨が降るって教えてあげたのに、お父さんたら“まぁ良いや”って持って行かなかったんだよぉ。本当に、いい加減なんだからぁ」
朝は晴れていて、朝は学校に行くため夫と同じ時間に家を出た娘は、父親が雨具の類いを持って行かなかったことを憶えていたようだ。
親切に教えてあげたのに、と唇を尖らせて、ぶちぶち愚痴る娘は何だかんだお父さん子なのだなと笑えてしまう。時計を見れば午後八時。
「……あなたが出掛けるには、ちょっと遅くなぁい?」
外は雨も相俟って真っ暗だ。息子はおろか娘なんて、親としては以ての外に思う。
「だーかーら、車で行って来るんだって」
「車で? 免許取り立ての、あなたが?」
私は眉を顰める。娘は現在、大学一年生。つい最近、高校生時代から取りたい取りたいと騒いでいた運転免許を、取得したばかりだった。
外は屋内からもわかる程の大雨だ。視界が悪いに決まっているし、幾ら慣れた道でも滑るかもしれない。私は最悪を想定してしまって「絶対駄目」反対した。
「えー? 大丈夫だよー! そりゃあ雨の日に走らせたことは無いよ? けどさー、運転はしてみないと出来ない……」
「駄目ったら駄目。雨の日に、しかもこんな普通じゃない量の雨の日に、初心者が運転なんて危なっかしいったら無いでしょ」
「いや、本当にそこだよ? 歩いたって二十分も無い駅だよ?」
「駄ぁ目ぇですぅ。見通しだって悪いだろうし、見えててもスリップしたら、どうするの?」
頑なに許可しない私に娘は「雪じゃ在るまいしぃ」と零しつつ、尚も私を説得しようとして来る。
「ちゃんと気を付けるし、スピードも出さないしぃ。お父さん、仕事で疲れてるのに、こんな雨の中で帰って来るの可哀そうだよー」
「じゃあ、お母さんが行くわよ」
「お母さんだって、あんまり運転しないじゃない。第一、今から夕飯の用意するんでしょー? 私が迎えに行って、その間にお母さんは用意したほうが効率的じゃん」
「だったら、お父さんにはタクシーで帰るように伝えます。コレで良いでしょ?」
それでも、私は頑として首を縦には振らなかった。
「えーっ。勿体無いよぉ。ねぇー、大丈夫だからぁ、」
「ただいまー」
食い下がる娘を遮って、私と娘の攻防に挿し込まれたのは帰宅してリビングの扉を開けた、夫の声だった。
「えっ! お父さん、帰って来ちゃったのっ?」
「帰って来たら、いけなかったの?」
娘が大仰に問えば、夫は飄々と訊き返す。「いや、そんなこと無いけど、」と口籠っている娘を後目に私は「タオルは?」尋ねた。
見たところ、余り濡れてはいないようだが……私が考えていると夫は立てた手を横に振った。
「あー、大丈夫、大丈夫。方向が同じって同僚がさ、乗せてってくれたんだよ」
「やだ、そうなの? じゃあ、あとでお礼しないとね」
「甘いものが好きなヤツだから、クッキーで良いよ」
今度買って来る、と、のほほんと話す夫は私と娘のほぼほぼ女所帯な環境にいるせいかお菓子選びのセンスが抜群に良い。何なら、私や娘より良いくらいだ。
「……。もー、何で帰って来ちゃうかなぁ。せっかく練習になると思ったのに……」
娘のボヤきに本音を見て、私は賺さず「危ないから駄目だって言ってるでしょ」と叱る。
「でもでも、こんな日じゃなきゃ練習出来ない……」
「何も大雨にしなくて良いでしょ。もう少し少ないときにしなさいな」
「むぅう……」
叱責する私と膨れる娘に、夫は上着を片付けながら言った。
「こうなってると思ったんだよなぁ。絶対、ゆるさないお母さんVS運転したい病の娘」
「むーん……だけどさぁ、ちょっと過保護過ぎるよー。私もう大学生だよぉ?」
「年は関係無いよ。お父さんはお母さんの味方だな。……そうでなくても、お父さんは今日みたいな日に、娘の車に乗りたくないでーす」
「え、どうしてよっ?」
驚いて素っ頓狂な調子で問い質す娘に夫は肩を竦めた。先程、私を起こしたときの娘とよく似ていて、ああ、父娘だななんて不意に考えた。
ただし、次の夫の爆弾発言で、こんな感慨は吹っ飛んでしまったが。
「この前、コンビニの買い物付き合ったとき。何か轢いちゃった、猫かもって……」
「えっ!」
「確認したら、ただの空の弁当箱が入ったビニール袋だったけどさ。晴れた日でアレなのに、雨の日なんか怖過ぎるよ」
「……初耳なんだけど」
私が半目にしてジト目で睨むと、娘は、いやーアレはー、と視線をキョロキョロと右往左往させた。
「……。当分、運転は無しね」
「そんなぁ……」
「あのね、何か在ってからじゃ遅いんだからね? そこまで注意散漫で、死んじゃったらどうするの?」
私の発言に娘が「出た」と呟く。
「お母さん、すぐ言うよねー。何か在ると“死んじゃうよ”って」
「……だってそうでしょ。ニュースを観たら、わかるでしょ」
「まぁね。だとしても、川や海行ったら“流されて死んじゃうよ”、山とか階段とか“踏み外したら死んじゃうよ”、道路とかは“飛び出したら死んじゃうよ”」
事有る毎に、私が娘に言い聞かせて来たことを、娘は復唱する。
ずっと娘に言い聞かせて来た。
だって真実だ。
蝶の羽ばたきが、遠くで嵐になるように。
人は、些細なことで命を落とす。
「大人だって不注意で死ぬんだから、子供はもっと気を付けなきゃでしょ?」
「言わんとしてることは、わかるけど……。ちょっと言い過ぎじゃない?」
「お母さんは、慎重なんだよ」
娘の意見を、夫がやんわり受け留めた。
「お父さんだって言ったでしょ。年は関係無いって。お父さんはお母さんの味方だよ。だから、そこまで大きくなれたんでしょ? 大学生さん?」
「それは……そうですがー」
「だから、あきらめなさいね。急用も無いのに雨の中、わざわざ出掛けなくて良いの」
「あーっ! そこ戻った!」
わーきゃー騒ぐ娘の肩をポンポンと叩いて夫は「ご飯にしようね」と自らは着替えに部屋へ向かってしまった。
夫は大学の同期生で。
“彼”が助手をしていた教授のゼミにいた人だった。
私は窓へ目線をやった。雨は小雨程度になっていた。
あの日。
連日降り続いた雨が、二日程止んだ日。
彼は乾き切っていない山道の傍ら、崖の下へ滑落し、死んだ。
最悪なことに、その日の夜から再度、雨が降り始めて。
私が電話で訃報を受けた日も全国的に酷い土砂降りで。
窓は雨粒と結露で曇っていて、外の道を行き交う車や面した店の光を乱反射していた。
ザーッと打ち付ける雨が時折、木々や葉っぱに当たってパシャパシャ音を立てていた。
まるで、大勢の記者に囲まれて、カメラのフラッシュを焚かれているようだった。
“……えぇ、ずっと約束していたんです。新種を見付けたら、彼女の名前を付けるって、昔から────”
……。もし、あの日が雨じゃなかったら。
もし、彼が晴れ間だからと行かず、もう少し日を改めていたら。
あるいは発見が遅れず彼が助かっていたら────彼が生きてさえいたら、あんな夢みたいな日も在ったかもしれない。
けれど。
「お母さん、コレあっためて良いのー?」
「……」
この景色は、きっと、終ぞ無かったかもしれない。
幼虫が蛹になって、ドロドロに融けて、蝶になるように人生は不可逆で。
蝶の羽みたいに、簡単に壊れてしまうから。
私は一日を、今を、たいせつに生きたかった。
【 Fin. 】