206.バレンタインの魔女
なんとか無事に放課後を迎え、俺は皆と別れてバイトへ。
今日はバレンタイン当日という事もあって予約でぎっしりだ。
その分バイト代は弾んでもらえるからそう文句も言えない。
「さて、今日1組目のお嬢様は……あれ?」
予約票を確認した俺は自分の所に書いてある名前を見て首を傾げた。
こういう店の予約は、しかも指名ならば初見の人というのはまずない。
一度来店して接客されて良かったら次は指名しようかなっていうのが普通だ。
今日みたいな特別な日の予約なら何度も来ている常連さんが大半だし、実際他の予約はそうだ。
なのにそこに書いてあった名前に見覚えは無い。
『天上 照子』
3歳の幼女から60代のお嬢様まで振り返ってみたけどやっぱり該当する人は居ない。
ならやっぱり初見で予約してきたってことなのか。
でも店長曰く俺の席は予約解禁直後に埋まったって話だから相当入念に狙ってないと無理だったはずなんだけど。
ま、どっちにしろ後10分ほどで予約の時間だ。
なら会ってみれば分かるか。
そうして予約時間の2分前になって、外が何やらおかしな雰囲気になっている事に気が付いた。
え、まさかまた暴走車でも走ってるのか?
慌てて入口から外に出て確認してみれば、よそ見をしてぶつかっている通行人は多数見られたが別に暴走車は走って無いし、悲鳴も聞こえないので何か危険がある訳では無さそうだった。
その代わりに、周囲の人達全員がある1点を注視していた。
その注目の先に居たのはまだ若い、20代半ばの女性だった。
すらりと伸びた足、腰まで届く銀髪。
顔立ちも整っていて、モデルか女優か、いやそれ以上に内から来る輝きによって周囲を魅了していた。
流し目1つで目が合った男性数名が陥落していた。
その彼女が俺の方に向かってくる。
いやこの店に向かってきているというべきか。
なら俺の取るべき行動は1つだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「お出迎えご苦労様」
こちらが恭しく頭を下げれば向こうも当然のように頷き返す。
そして目が合った瞬間。
まるですべてを見透かられたような感覚を覚えた俺は咄嗟に腹に力を入れてその視線を受け流した。
これはもう眼力を通り越して魔眼だな。
どうやら見た目以上に並のご婦人ではないようだ。
「お席までご案内します、照子お嬢様」
「あら、良く私の名前が分かりましたね。初対面の筈ですけど」
「だからこそです」
以前来店したことがあるならここまでインパクトのある女性を、例え自分が担当していなかったとしても見逃すはずは無いし仲間内で話題にならないはずもない。
ならばこそ、今日の予約客の中で唯一顔と名前が一致しない彼女がそうだと分かった。
「なるほど、噂は本物だったという事ですね。
それで、前情報によると席までお姫様抱っこで連れて行ってくださると伺ったのですが?」
「お嬢様がお望みとあらば」
てっきり男に馴れ馴れしく触れられたくないタイプだと思って手を引く事すらなしにしようと思ってたんだけど。
そっと抱き上げて歩き出す。
触れた体は柔らかく、どこか甘い匂いが漂ってくる。
ま、お嬢様に邪な感情を抱く訳にはいかないし、気にせず平常心だ。
すると彼女は楽しそうに笑いながら俺に顔を近づけて囁いた。
「ここまで私に反応しない男性はあなたが初めてね」
「恐れ入ります」
どうやらお眼鏡に適ったようだ。
そこからは問題なく席までご案内して、メニューを見るまでもなく「あなたのおすすめで」とオーダーを受けて紅茶セットを提供した。
まぁ、問題と言えば周囲の席のお嬢様方が普段ならホスト役の店員の方を見てるのに、今日ばかりは俺が案内した彼女ばかりを見ていたことくらいか。
流石に店員も一緒になって見ていたのはどうかと思うけど、クレームになって無いからいっか。
当の本人はどこ吹く風って感じだけど。
「ところで」
「はい」
一つ目のケーキを食べきったところで彼女が俺に話しかけてきた。
今日の話題と言えばあれだろうな。
「今日はバレンタインデーですわね」
「そうですね」
「あなたはもう沢山の女性からチョコレートを貰ったのかしら」
「残念ながら」
これは嘘じゃない。
村基一会としては貰っているがキヒトとしては今日はまだ誰からも貰っていない。
この後の予約のお嬢様方からは貰える可能性は非常に高いけど。
「ふむ、嘘ではないようですね。
では喜びなさい。
私からあなたにプレゼントしてあげましょう」
そう言って彼女はバッグからハート形のチョコレートを取り出し、その半分を自分で咥えて俺の方へと向けてきた。
どうやらポッチーゲームのように残りの半分を口で受け取れということらしい。




