手負蛇①
木製の床に白線が引かれた道場。
昼の日差しが窓から差し込み、篭った熱気に剣士たちの掛け声が響く。
踏み込みで揺れる床、竹刀が面に当たる渇いた音。
「やめ」
主将の言葉に一斉に打ち合いが終わり、道場は静まり返った。
遠くからは野球部の声がぼんやり聞こえてくる。
剣道部の面々は主将に従い、正座をして面を取った。
「黙想」
目を閉じる。
私はへその前で両手を組み、今日の稽古のことを振り返った。
今日も暑かったな。中盤の抜き胴が上手くいかなかったな。でも掛かり稽古は一息でできて良かったかも。ああ早く水分補給したい。
色んな思考が浮かんでは消えていく。
ふと気を抜いた時、瞼の裏には頭だけの白い顔をした女が現れた。
「〜〜っ!」
思わず目を開いてしまう。
悲鳴は飲み込んだので道場は静寂を守り、私が身じろぎしたのに誰も気づかなかった。
やがて本日の稽古終了が告げられ、どっと疲れた私は手ぬぐいで額の脂汗を拭う。
「ねっ、スモモも行くよね!」
「え? なんの話?」
突然話しかけられて我に帰る。
顔を上げた先には膨れっ面の部活同期。
「もお、この後みんなで回転寿司行こうって話! なんか最近ぼーっとしてない?」
「そう? 私は毎日元気だけど」
身体的には、と心で付け加える。
部室へ入り汗でベタベタだった道着袴を脱ぐと、藍染めの匂いが鼻についた。
「それで回転寿司は?」
「ごめん、行きたいんだけどこの後バイトあってさ」
部室に充満する制汗剤の香り。
女子部員たちはこの暑さで服を着たくないらしく、みんな下着姿でわいわいお喋りしている。
私も右に同じく下着のまま部室内の扇風機の前を陣取った。
動くのが不思議なくらいオンボロなその扇風機は、何代も前の先輩が大学卒業時に寄付してくれたものだとか。
ガタガタいいながらも一生懸命に熱い夏の空気を掻き回してくれる。部室の環境をないよりマシにしてくれる優れものだ。
同期は不思議そうに、
「スモモのバイト先居酒屋じゃなかったっけ。こんな昼から行くの?」
「最近新しいの始めたんだよ。この間参加したゼミ合宿で知り合ったゼミ同期の紹介でさ」
他の部員からどけと肩を押されたので、渋々扇風機前ポジションを譲る。
まだ剣道で溜まった身体の火照りは冷めてないけど、諦めて白いブラウスを頭から被った。
「バイト紹介って随分仲良くなったのねえ。どんなバイトなの?」
「えーと……その同期の家業補佐みたいな?」
スカートのホックを留め、首を傾げる。
何それ? と怪訝な表情の友人に、私も肩をすくめた。
大学二年の夏休み序盤。
私、鹿角寿桃は新たに所属したゼミの合宿で友達を作ることに燃えていた。
うちの大学はそこそこ規模が大きく、学部学科の数も豊富だ。
部活の同期や新歓で仲良くなった友人はいても、学科まで共通している友達はそう多くない。
日本民俗学を研究する智森ゼミが例年実施するフィールドワーク合宿は、ゼミ同期と仲良くなる絶好のチャンスであった。
日本に残る村の特異な催事や習慣を調査するというその合宿で、私は生まれて初めて怪奇現象に見舞われる。
不運にも、その村に昔から存在する祟り神、『いしも様』に憑かれてしまったのだ。
危うく取り殺されそうになったのだけれど、ゼミ同期の火時丸菖太くんはなんと拝み屋の生まれであり、私の命を救ってくれた。
しかし一度いしも様と通じ合ってしまった私は、それ以来この世の理から外れた不可思議な存在が視えるようになってしまったのである。
火時丸くんはそんな私に拝み屋でアルバイトをしつつ、怪異から身を守る方法を学ぶように提案してくれた。
「大っきい……これ本当に家?」
独り言でも大袈裟に驚いてしまうくらい、目の前に建つ火時丸邸は巨大だった。
八月初旬の午後。
近くのデパ地下で購入したフルーツゼリー詰め合わせの入った紙袋を下げ、私は門前で立ち尽くす。
大学から電車で数駅いった閑静な住宅街に、火時丸くんの家はあった。
高い築地塀で囲まれたその日本家屋はざっと中学時代の校庭くらいありそうな敷地面積。
塀の向こうから覗く建物は立派な瓦屋根の建物で、家というより古い寺社仏閣と説明された方が納得できそう。
門もまた重厚な薬医門。
来る者を拒むような分厚い木製の戸が私を見下ろしていた。
東京ではそれなりに名の知れた高級住宅街にこの広さ——お手軽お中元セットのフルーツゼリーは手土産にならないかも。
意を決してインターホンを鳴らそうとすると、ちょうど内側から門が開いた。
「おや、お客様でしょうか?」
門の隙間から現れたのは白の道着に浅黄色の袴を履いた三十代くらいの男性だった。
神社でよく見る宮司さんのような格好だ。
「は、はい! あの、今日こちらの火時丸菖太さんとお会いする約束してて」
慌てて頭を下げる。
似てないけど、年齢的に火時丸くんのお兄さんかな?
「菖太さんから話は聞いております。鹿角様ですね」
男性は柔和に微笑むと、戸を更に開いて私を通してくれた。
確実に年下の火時丸くんに菖太さんという呼び方。
兄弟じゃないのかな?
もしかしてお手伝いさんとか、火時丸くんの親御さんの秘書とか?
案の定広大な庭を歩きながら辺りを見回す。
敷地内には私の案内をしてくれている男性と似たような服装の人がたくさんいた。
彼らは庭で水撒きをしたり、道場のような場所で複数人で座禅を組んだり、まるで修行僧のよう。
少ないけれど女性もぽつぽついる。
庭はどこぞの自然公園にできそうなくらい立派な日本庭園で、見事な枯山水もあれば紅い鯉が悠々と泳ぐ池には太鼓橋まで掛かっていた。
火時丸くんがこんな豪邸に住むおぼっちゃまだったなんて。
拝み屋ってそんなに儲かるんだと感心。
「こちらに菖太さんがいらっしゃいます。どうぞ」
たどり着いたのは弓道場。
男性が恭しく指し示す先には、今まさに矢を放とうとしている火時丸くんの姿があった。
ぴんと伸びた背筋。
涼やかな目元は真摯に的を見つめている。
気づけば飛び出した矢は真っ直ぐ的の中心近くに突き刺さり、思わず感嘆の息が漏れる。
「菖太さん、お客様がいらっしゃいましたよ」
「ああすみません。ありがとうございます」
ようやく私たちに気づいた火時丸くんは男性に軽く会釈し、弓を片付けて来た。
ゼミ合宿の時のシンプルな私服と違って、今日は弓道の道着袴。
凛とした和風イケメンの火時丸くんにものすごく似合う。
「月刊弓道」とかの表紙を飾っていそう。雑誌が存在するかも知らないけど。
「弓道やってたんだね」
「中高では弓道部だったんだ」
一週間ぶりの火時丸くんはやっぱり無表情だ。にこりともしないし、口数も少ない。
「大学ではやってないの?」
今度は火時丸くんの案内で建物の方へ向かう。
「大学に入学した頃から拝み屋の仕事を引き受けるようになって、部活に割く時間がなくなった。今はこうしてたまに弓を引いてる」
「家に弓道場があるなんてすごいね! 私びっくりしちゃった」
「そうか」
相変わらず会話は続かない。
でも出会った当初の気まずさは無くなって来ている。
火時丸くんは良くも悪くも日本男児で、笑わないのも話さないのも悪意があるわけじゃない。
ゼミの同期である彼と前より仲良くなれた気がして、私は口角が上がりそうになるのを必死に抑える。
彼に通された部屋は八畳ほどの和室だった。
高そうな掛け軸に高そうな座卓、高そうな布地の座布団といった調度品が上品に鎮座している。
「侘び寂びって感じ」
着替えのために火時丸くんは奥へ引っ込んでしまったので、誰もいない部屋で呟く。
誰が生けたのか、床の間には黄色と青の花が調和する夏らしい生け花。
身の回りにあるもの全てが格式高くて、いるだけで緊張してしまうような空間だ。
ここは客間らしい。すぐにお茶を持ってくるとか話していたけど、またあの宮司みたいな格好の人たちが来るのかな。
いつ人に見られてもいいよう、私は崩していた正座を整える。
「待たせた」
自らお茶の湯呑みを乗せたお盆を持って来た火時丸くんは、またシンプルなシャツにジーンズといった服装に替わっていた。
座卓の向かい側に座った彼と、しばし無言でお茶を楽しむ。
数分後、火時丸くんはようやく口を開いた。
「その後はやっぱり視えてる?」
「うん、たまに……。大学にもあんなにいるんだね、驚いたよ」
「見たのか」
「私剣道部だから、着替えにいく時部室棟にいっぱいいるの見ちゃったんだ。でも火時丸くんのくれたお守り持ってたからか、何もされなかったよ!」
スカートのポケットを探り、先週の別れ際に火時丸くんから貰った小さなお守りを掴み出した。
するとなぜか気まずそうにする青年。
「そのお守り、もう捨てていい」
「えっ!? なんで?」
「プラシーボ効果にしかならないから」
ぷ、プラシーボ?