いしも様②
その夜、私は夢をみた。
何も見えない真っ暗闇の中、どこか水中に落とされる夢だ。
水は冷たく流れは激しい。苦しくて手を出しても荒波に呑まれて岩にぶつかり、服が水を吸って浮上できない。
苦痛に声をあげれば泥臭い水を飲みこんでいしまい、意識が遠のいていく。
ああ私、死ぬんだな。
そう悟り、胸に浮かぶのは憎悪と寂寞。
相手も分からないのに、あまりに強い想いに支配される。
強大な感情に飲み込まれ、私は死の淵へ沈んでいった。
「ちょっとスモモぉ、顔色悪いよ。どうしたの?」
合宿二日目の朝。
寧々ちゃんから起き抜けに心配されてしまった。
敷いていた布団は尋常でない汗でぐっしょりと濡れ、鏡に映った自分の顔は死人のように血色がない。
異様なほど真っ白な肌はまるで、昨夜目撃した女のようだ。
そんな考えが過ぎった瞬間、私は猛烈な吐き気に襲われてトイレに駆け込んだ。
「マジでやばいよ、ちょっと先生呼んでくるからね」
嘔吐を繰り返す私に背中をさすってくれていた寧々ちゃんがバタバタと去っていく。
「鹿角さん、あなた今日はこの宿で休ませてもらいなさい」
腹の中の物を全部吐き切った私と向かい合い、智森先生は嘆息。
「本来なら東京に帰って医者に診せたいところですが、昨日歩いて来たようにここは最寄駅からも遠い。タクシー会社も運悪く休みらしくてね、移動に耐えられる体力が戻るまでここにいなさい」
「はい……。あの、グループワークは」
「グループワークは安倍くんと火時丸くんがいますから、彼らに任せなさい。大丈夫、昨日あなたが村の人たちと十分交流したと言う話は聞きました。元気になってからレポートを書けば単位はあげるよ。重い熱中症だと思うので、まずは治すことに専念して」
「分かりました」
先生に頭を下げ、しきりに心配してくれる寧々ちゃんに礼を言い、私は民宿の人が敷き直してくれた布団に横になった。
ゼミ生と先生が昨日と同じように出かけていく物音。
すっかり人気がなくなって静まり返った民宿で私は目を閉じた。
高熱と吐き気は確かに熱中症の症状だ。
でも昨日就寝するまで体調に問題はなかったのに。この客室だってエアコンが効いていた。
色々考えていたけれど、昨夜は夢見が悪く寝不足だった私はすぐに眠りに落ちた。
次に目が覚めたのは十六時を過ぎた頃。
「嘘、そんなに寝てたの!?」
窓からは西日が差し込み、屋内は薄暗い。世界がセピア色になったみたいだ。
飛び起き、激しい頭痛にこめかみを押さえた。
フィールドワークの調査日は今日が最終日だからか、最後の追い込みでみんなまだ帰ってきていないらしい。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか〜」
喉が渇いてカラカラなので、客室から這い出るように民宿の人を探す。
二階の客室部分には人気がない。
「あの、誰か」
夕食の時間が十八時なのでそろそろ準備をしていてもおかしくないはず。
なのに一階の厨房を覗いても民宿には私以外の人間がいない。
喉の渇きは我慢できないレベルで、心で謝りながらコップを拝借して厨房の蛇口を捻った。
「ひぇっ」
変な声が出る。
蛇口からはドボドボと泥水が流れ出てきたのだ。
驚いて落としてしまったガラスのコップが甲高い悲鳴をあげ、床の上に粉々に散らばる。
「やば、片付けなきゃ」
慌てて破片を拾い上げようとしゃがみ込もうとすると、インターホンが鳴った。
誰か帰ってきた!?
「はーい!」
時間は逢魔時、なんだか心細くなっていた私は深く考えずに正面玄関へ向かう。
「開けてくんねー?」
「タツヤくん?」
タツヤくんのよく通る元気な声だ。
玄関のすりガラスの向こうには黒い人影。
ちょうど私のグループが帰ってきたのかと、玄関を開けようとする。
「……タツヤくん、だよね?」
鍵を開けようとして手を止め、ふいに口から疑問符が漏れる。
「鹿角さん開けてよー」
私と玄関越しに向き合う相手は、質問に答えない。
私の名前も知っているし、声も話し方もタツヤくんそのもの。でも、すりガラスの先の影は私よりも少し小さい。
タツヤくんは背も高く体格も良かった。
「火時丸くんはどこ?タツヤくん先に帰ってきたの?」
「開けてくんねー?」
声と同時にけたたましく鳴り響くインターホン。
震える手を引っ込めると、「そいつ」は玄関を叩き始めた。
タツヤくんじゃない!
「鹿角さーん」
「来ないでッ」
まるで壊れたおもちゃのように同じセリフしか言わない。
なんなの、あれ!?
もつれる足で元いた客室へ駆け上がり、携帯を取り出した。
「警察、警察呼ばないと」
手が震えるせいで上手くボタンが押せない。
「開けてくんねー?」
声が、聞こえた。
それもすぐ側から。
はっと顔を上げると背後の窓から差し込む夕日に私の影が室内に伸びている。
それに重なるように、もうひとつの影が私のすぐ隣にあった。
涙が流れ、声にならない叫びをあげる。
窓に張り付くように両手を上げているのが見えた。
ここは二階。外に、後ろに、あいつがいる。
昨日の夜見たあの女だ。なぜか確信した。
あの真っ白な頭だけの女が、窓に張り付き、私を見ている。
凍りついたように動けなくなった。
絶対に振り返ってはいけないと本能的に察する。
「鹿角さん開けてよー開けてくんねー? 開けてよー開けてくんねー? 鹿角さーん」
全身から汗が噴き出る。息が苦しい。
どこか行って、早くいなくなって、と必死に念じるも声も窓を叩く音も止まない。
強い力で殴打され、窓ガラスはもう割れそうだ。
きっと窓が割れたらあいつは入ってくる、きっとそうだ。
「もう、やめて」
耳を覆って泣きながら口を開いた。
その時、
「鹿角さんっ!」
客室に人が飛び込んで来る。
「……か、火時丸くん」
息を切らせて現れたのは火時丸くんだった。
彼は刹那に窓の外へ視線をやると、呆気に取られる私の手を引っ掴み階段を駆け降りた。
細身な身体からは想像もつかなかった腕力で、私はすぐさま民宿の浴場に投げ入れられる。
「なんでお風呂?」
「いいから入って」
浴槽に張ってあった水にパジャマごと突き落とされた。
バシャン、と跳ねる水飛沫。
小さな民宿の浴槽は大した深さも広さもない。
全身ずぶ濡れになりながらも即座に私は立ち上がる。
水を吸った布が肌に張り付いて気持ち悪い。
「ちょっと何するの!?」
当たり前のように上がろうとするのを火時丸くんは片手で制した。
「あとで説明する。とにかくそこにいれば安全だから、僕がいいと言うまで絶対に浴槽から出るなよ。それとこれからは何があっても声を出すな」
どういうこと? 言いかけた言葉を飲み込むほど、火時丸くんの眼差しは真剣だ。
まるで呪文でもかけられたように私は口を噤む。
「大丈夫だから」
そんなセリフを残し、火時丸くんは浴場から去って行った。
気がつけば激しく窓を叩く音が聞こえない。
「開けてよー鹿角さん鹿角さん開けてくんねー? 開けてよー開けてよー」
相変わらず声は聞こえるけれど、音量は小さくなったり大きくなったり。建物の周りをぐるぐる回っているようだ。
私の位置が分からないのか。
それでも浴槽の隣にある窓にあいつの影が映ったら悲鳴をあげてしまいそうで、窓に背を向け祈るように両手を握りあわせる。
火時丸くんにはあいつが見えているのか?
今から何をしようとしているのか?
そもそもあいつは何なのか?
疑問が押し寄せてくるけど、今の私には何もできない。
まだ沸かされる前の水の冷たさを感じながら浴槽の中で佇んでいると、どこからか煙草の臭いが漂ってきた。
また誰か帰ってきた……? いや、玄関の開く音なんて聞こえなかったし、民宿の中は禁煙のはず。
煙草の臭いが濃くなっていくのと反比例して、あいつの声は細く小さくなり、いつしか完全に消えてしまった。
「もう出てもいい」
火時丸くんが再び浴室に姿を現した時、外は完全に夜の世界へ様変わりしていた。
「ねえ一体何が起きたの」
「悪いけど説明はもう少し待って。鹿角さん、君は急いで荷物をまとめてこの村を出るんだ」
「村を出る!?」
水の滴る服が重い。
少し疲れたように見える火時丸くんは近づくと煙草の匂いがした。
「先生に事情を話したら最寄り駅まで車を出してくれることになった。ここにいたらまた危ない目に遭うかもしれないから、早く」
そんなことを言われたら従うしかない。
私は急いで服を着替え、女子部屋に散らかしていた荷物をキャリーケースに詰め込んで立ち上がる。
いつの間にか体調は良くなっていて、頭痛も吐き気も熱っぽさもない。
火時丸くんに促されて玄関から出ると、ちょうど調査を終えて帰って来たゼミ生たちと鉢合わせる。
「えっ、スモモ帰るの!」
「はい、残念ですが鹿角さんは体調が悪化したので急ぎ病院に連れていくことになりました。皆さんは先に入浴と夕食を済ませておいてください」
なんて答えるか迷っていた私に助け舟を出したのは、外の車で待ってくれていた智森先生。
「そういうことなの。寧々ちゃん、また新学期に会おう」
「朝よりだいぶ顔色も良くなったのに……お大事にしてね」
嘘をつく罪悪感に後ろ髪を引かれながら、私は先生と火時丸くんのいる車に乗り込んだ。
せっかく仲良くなってきていたのに、リュックを抱きしめため息を吐く。
慣れた手付きで車を発進させる先生。
後部座席で私と並んで座り、無表情の火時丸くん。車内は静かだ。
民宿が見えなくなるのを待って私は口火を切った。
「何が起きたのか、説明してもらえますか」