第八話
安祐美と喧嘩をしたのは、本当に些細なことが原因だった。
『そんなこと、って何? 大輔さあ、自分の基準でもの言うのやめてよ』
確か、職場での愚痴を聞いていた時だったと思う。女性同士での面倒くさいことが起きていたために、そんなこと気にしなくていいだろ、とかなんとか言った直後だ。
いつもなら、安祐美だってその程度で愚痴なんか言わない。しかし溜まりに溜まったものがあったのか、そもそもそれまでに俺との関係にわだかまりを抱いていたのも原因だったのか。
いろいろと言い合って結局、もう大輔が分からないから、と冷たく言われて電話を切られた。
当時はもちろん落ち込んだ。
俺は安祐美と結婚するつもりだったし、だからこそそんな相手に初めて冷たい態度を取られて傷つかないわけもなく、だけどどうすれば良いのかも分からない。俺の頭で思い浮かぶのはもう謝ることだけで、しかしそんなことはすでに済ませていた上に、それに対しては「何に謝ってるの? 私が怒ってる理由分かってないよね」と言われていたから行動にも移せそうにない。
その時の俺には「別れる」という選択肢はなかった。安祐美の隣は楽しい。気楽で、いつも笑顔でいられる。そんな安祐美とだから、夫婦になって、家族になりたいと思えていたのだ。
しかし何を送っても連絡は返ってくることなく、焦りは高まるばかり。次の一手が見つからず、このまま自然消滅するのかもしれないと思えば、不安を打ち消すように仕事に集中することしかできなかった。
「……大丈夫? 顔色悪いけど……新入社員の子?」
声をかけられたのは、自販機の並ぶスペースのソファに座っていた時だ。
目に余るほど落ち込んでいたのだろう。顔をあげて目があうと、一瞬だけ躊躇った紗英さんは、何か飲む? とコーヒーを奢ってくれた。
「そっか。恋人と喧嘩を……」
「すみません。仕事の話とかじゃなくて」
「いや、それが仕事に影響あったりするから、別に……私は当事者じゃないから何も言えないし、いいアドバイスとかもできないんだけどね。……彼女と、仲直りできるといいね」
無責任な発言だけどねと。事情を全部聞いた紗英さんは小さくそう付け足して、苦く笑った。後に聞けば、仕事で失敗して落ち込んでいると思い声をかけてくれたということらしい。
正直、この時の俺がどうして全部を話してしまったのかは分からない。
紗英さんの雰囲気が優しかったのはある。声も、言葉も優しく、年上だったのもあり、もしかしたら相談することで解決できるかもと期待をした部分もあったのかもしれない。
結局解決はできなかったものの、その時の俺の心が救われたのは事実だ。
誰に言っても「もう別れたら?」とか「そんな女捨てろ」なんて、あまりにも軽率な言葉しか返らなかった。男友達は安祐美を責めて、女友達は俺を責める。どちらかに偏った意見しか得られていなかった中で、どちらでもなかった紗英さんの言葉が一番腑に落ちたのもあるのだろう。
全てを話すことで、安祐美とのことを落ち着いて考えることができた。
その後、安祐美から連絡が来てフラれた時も、縋ることなく受け入れることができたのは、何も言わずに話を聞いてくれた紗英さんのおかげである。
本当に、特別なことなんかない。手が触れたとか、ビビッと来たとか、そんな話もない。
気が付けば自然と、目が紗英さんを探した。お礼だからと声をかけて、食事に誘って。少し距離が近づいたかと思えたところで、休日も外に連れ出した。
紗英さんは大人だ。だけどたまに、子どもみたいに笑う。言葉はいつも優しくて、たまに見守るような目が心地いい。苦いものが苦手で、コーヒーはブラックだと飲めない。なのにケーキとかパフェは、甘すぎるからとあまり好まない。
ボリュームを上げすぎない声も、常に偏らない視点から話を聞く姿勢も。
俺にとっては、紗英さんの何もかもが新鮮だった。
好きと気付くまでに一年。アプローチを始めて二年。付き合うまでに三年を有して、紗英さんが折れる形で恋人という関係になった。
――――今は、どうなのか。
俺は今、紗英さんとどうなりたいと思っているんだろう。
(やり直そう、か……)
安祐美とのトーク画面を見て、なんとなくため息を吐く。
日常の会話が続いているそのトークルームには、悩む要素は何一つ感じられない。しかし先日言われた言葉が尾を引いて、そしてそれからも定期的に送られる復縁の言葉を見て、純粋に楽しむこともできないのだ。
(……別れる……)
紗英さんと別れて、安祐美と付き合う。うまくいくということは明白だ。だって結婚まで考えた。一緒に居て楽しくて、明るい家庭が築けると確信ができていた。
(……たとえば)
たとえば。
本当にそうなったら、どうなるだろう。
俺が紗英さんと別れて、安祐美と付き合ったとしたら。その後は、いったいどうなるのか。
(紗英さんは、あいつと結婚でもすんのかな)
思い出すのは、余裕のある雰囲気で勝気に笑う顔だった。
年齢も紗英さんと釣り合っている。出来る男だと聞いたし、これからも職位は上がっていくのだろう。
風間課長は、紗英さんに未練はあるのだろうか。
――ピンポン、と短くインターホンが鳴る。
二度ほど鳴らされてようやく気付き、重たい体を持ち上げた。
仕事が終わって家に帰り、今の今まで何もかもが面倒くさいからとぐったりとしていたさなかである。スーツは脱いだものの、ネクタイを緩めただけでシャツを脱ぐこともなく、夕飯さえも食べないまま。玄関に向かう途中で時計を流し見れば、すでに二十時前になっていた。
それにしても、そんな時間にいったい誰が来たのかと。不審に思いながらもドアスコープを見てみると、立っていたのは安祐美である。
「あれ? 何してんの」
「あ! お疲れ! ここに住んでる友達がね、これから彼氏と会うって言って追い出されちゃってさ。……大輔暇かなって」
「……あー、まあ、暇といえば暇だけど」
――――あれ、だけど。
俺はいつ安祐美に、部屋の番号を教えたんだったか。
「上がっていい?」
「ダメに決まってるだろ」
「言うと思った。大輔、真面目だもんね」
「普通だろこのくらい。忘れてるのかもしれないけど、俺、一応彼女居るからな」
「……知ってるよ。浮気してた人でしょ」
あえて言ったのか、嫌な響きだ。
不愉快な言葉に眉を寄せると、さすがにダメだと思ったのか、取り繕うように安祐美が笑顔を浮かべる。
「ごめん、ごめんって! ……でも、大輔ばっかり傷ついてるのっておかしいじゃん。ちょっとは彼女を忘れてさ、楽しもうって思ってもよくない?」
「いいのかもしれないけど、家に上がるのはよくない。送るから、帰って」
「なんで。……ねえ、なんでそんなにあの人がいいの? 私の時はあっさり別れたじゃん」
「やけにつっかかるな」
「だっておかしいじゃん。あの人そんなに魅力ある? ただの年増で頼りなくてさ、話だって合わなさそうだし、仕事出来るタイプでもなさそうじゃん。なのに、大輔があの人にこだわる意味が分かんない!」
「声がでかい。近所迷惑だから」
夜ということもあり、声も響く。強引に連れ出そうかと玄関先にあった鍵を持って、すぐに外に出た。
「ちょっと!」
「ほら、行くぞ」
半ば引きずるようにして、エレベーターに連れていく。
「ねえ、本当になんで? めちゃくちゃ気になるんだけど」
「理由ねえ……まあ、いろいろ考えることがあるんだよ。俺だって歳とったしな」
「私の時は考えてくれなかったじゃんか。それにあの人、もう三十五歳だよ? 早く別れてあげた方があの人のためだと思う」
そんなことを言われて、思い出すのは藤原さんの言葉だった。
――――川江くんだってさ、五年付き合って結婚しないってことは紗英とはするつもりないんでしょ? なら時間の無駄だろうし、切ってあげてよ。
誰も彼もが、俺たちの関係に口を出す。
俺たちの気持ちを置いてけぼりにして、あたかも俺たちのためだと言わんばかりに。考える時間でさえも不要だと言うように、さっさと完結させろとうるさい。
紗英さんのためだなんだと、そうやって綺麗に綺麗に飾った言葉に、どうして俺が従わなければならないのか。
「……大輔くん?」
エレベーターが開く。するとそこには、紗英さんが驚いた顔をして立っていた。
その目はすぐに、隣に居た安祐美を見つける。固まったのは一瞬だ。紗英さんは一歩足を引いて、俯いてしまった。
「紗英さ、」
「大輔、行こうよ。家に来てくれるんでしょ」
「送るだけだろ」
エレベーターが閉まる前に降りて、紗英さんに何を言うべきかと言葉を探す。
前回の別れ際は最悪だった。話をすべきだったということは分かっていても、これまでずっと課長の家に居たのだと思えば、優しい言葉も浮かばない。
思い出すと、腹が立ってきた。
どうして俺ばかりが、こんなに考えているのかと。
「……何か用あった?」
思ったよりも低い声が出た。
――苦い気持ちが巡る。後悔するくらいなら出すな、とは思うものの、抑えられるものでもない。
「……話をしようと思ったの」
「別れ話ならここでしたらいいじゃん」
「安祐美は黙ってて」
「イヤ。大輔優しいから、泣き落としとかされたらすぐ決心揺らぐし」
「俺たちの問題だから関係ないだろ」
「関係なくない!」
安祐美の声に、紗英さんの肩がびくりと揺れた。大きな声に驚いたのか、それにしては少し怯えているようにも見える。
どこか違和感は覚えるものの……ひとまずこの状況をどうにかしなければと、安祐美の腕をグッと掴んだ。
「紗英さん。部屋で待ってて。安祐美送ってから戻るから」
「もー。痛いってば」
マンションを出ると諦めたのか、安祐美が渋々といった様子で帰路をたどり始めたために、それに黙ってついて歩いた。
そこでふと気がつく。俺が安祐美と居たことを、紗英さんはどう思っただろう。
自分のことでいっぱいいっぱいでそんなことに頭を回す余裕もなかったが――――あの場面であんなふうに出くわしてしまうと、これまで安祐美が家に居たように思われるのではないだろうか。
そんなことを思って、つい自嘲の笑みがもれた。
だって、紗英さんだってこれまで元彼の家に居たのだから、俺だけがそんなことを考える必要はない。事実は違うにしても、前の彼女を家に少しあげるくらい、元彼の家に入り浸るよりも全然マシだろう。
「なんかごめん」
言葉の後、安祐美は大袈裟にため息を吐き出す。
「さっき、感情的になったかも。……あの人はライバルだし、これまで浮気相手と居たのかとか思ったら、余計にカッとなっちゃって」
「なんで安祐美がカッとなんだよ。俺だろ、普通」
「ライバルだからだってば。……あの人が居なかったら私たちやり直せてたのかなとかさ、浮気してるなら大輔をキープせずにそっち行ってよとか、いろいろ思うんだよね」
たとえば、なんて、少し前に考えたことが頭によぎる。
「大輔が何を躊躇ってるのかも分かんないし……。大輔はどうしたいの?」
たとえば、紗英さんと別れたなら。
その後は、いったいどうなるのか。
(……俺は、どうしたい)
分からない。だけど、冷静な話し合いをしなければと分かっていても、すべてを「紗英さんが逃げ出したから無理だ」と紗英さんのせいにして、避けているのも事実である。
自分の気持ちは曖昧なくせに別れようと踏ん切りがつかないのは、慣れてしまった生活の変化が恐ろしいからなのか、単純に紗英さんのことが好きだからなのか。
何が正しいのかも分からなくて、どこから考えれば答えにたどり着けるのか糸口さえも見つからない。
たとえば、紗英さんが居なくなったら。
そんなことを考えては、思考が止まってしまうのだ。
「……大輔、帰るの?」
安祐美の住んでいるアパートに着くと、別れ際に気まずそうに俺を見上げる。
寂しそうな目だ。安祐美は明るく無邪気だが、寂しがりな一面もある。付き合っていた頃には、こんな表情も可愛いと思っていた。
「帰る。紗英さん、話あるって言ってたし」
「別れ話でしょ」
「カリカリするなよ」
「するに決まってる。……私、諦めてないから。絶対大輔を幸せにするって自信もあるし」
「……あのさ、」
「じゃあね」
言葉を遮った安祐美は、振り向かずに歩き出した。
どうしたいのかが分からない今、安祐美のことを考える余裕はないと。そう言われることを察したのかもしれない。
安祐美が部屋に入るのを見送って、踵を返す。なんとなく、心がざわついて苦しかった。