第六話
イライラとしていると、無駄に仕事が捗るのはどうしてなのか。
有給で溜まっていた仕事もサクサクと終わらせて、他部署への連携から相談までも滞りない。午前中でおおよその目処がついたために、またしても正午に昼食に向かうことが出来た。
紗英さんの元彼の存在を知った昨日。紗英さんはやっぱり帰ってこなかった。
来ていたメッセージも開いていない。元彼に言われて送ったメッセージなのかもしれない、と思えば、素直に受け入れようとは思えなかったのだ。
(……あいつに言われて謝ってたりしてたら最悪だ)
日替わり定食を持って、席に着く。昼時の社食は騒がしい。そんな些細なことにさえイライラとしながらも、パキッと割り箸を割いた。
それと同時。正面の席に、うどんの載ったトレーが置かれる。
「お疲れ」
「おー、広瀬。今日外だって福田主任から聞いた気がするけど、居たんだな」
「外だった。けど、あっちの都合で時間ずれてな、一旦戻ってきたんだよ。……体調悪かったのは治ったのか?」
「まあそれなりに」
「にしては不機嫌だな。怖い顔してたぞ」
うどんをすすりながら、広瀬は興味もなさそうにそんなことを言った。
確かに体調は悪かった。それでも今はもう完治して、別にどうということもない。
――――顔が怖い、と言うならば、それは昨日、最悪なことがあったからだろう。
「……広瀬さ、総務の風間課長って知ってる?」
「ああ、風間さんな。一緒に仕事したことはないけどデキる人らしいな。それで人事に目を付けられて総務に異動したって話は聞いた」
「へえ」
「なんだよいきなり。……あ。総務だからなんか心配してんの? つか立花さんとはどうなったんだよ」
「変化なし」
いや。「悪化した」というのが正しいのか。
広瀬は風間課長が紗英さんの元彼であることは知らないらしく、そのことについては何も言ってこなかった。藤原さんのあの言い方では、噂にでもなっているのだと思っていたのだけど――――もしかしたら、総務内での噂なのかもしれない。
「……俺さ、もう分からないんだよな。好きとか好きじゃないとか。紗英さんじゃないといけないのか、別にこのまま別れるのもいいのか。……なのに、他の男と居るのはなんかムカつくし」
「あー……」
側にいるのが当たり前になりすぎて、何もかもが分からない。
俺は、紗英さんをどう思っているのか。
恋人と思っているのか。それとも奥さんとして見ているのか。友人の感覚があるのか、母親とでも思っているのか。
この先、一緒に居たいと思っているのか。
「…………そういう時期、俺にはなかったからあんま分かんねえけどさ」
ずるずるとうどんを吸い上げて、広瀬は難しい顔でそれを咀嚼している。
「立花さんからはアクションないわけ?」
「俺が体調崩しても、知ってて戻ってこなかった。……一回荷物取りに来てる時にも会ったけど、話そうよって言っても拒否られたし。意味分かんねえ」
「ふーん……?」
広瀬は腑に落ちないような顔をして、一度グイッと水を飲んだ。
いったい何を考えているのか。コップを置いても、再び箸を持っても、何かを考えるように眉を寄せたままだ。
「なんだよ」
「いや……昨日な、帰る前に煙草吸ってたら立花さんが喫煙所に来てさ。川江のことについて聞かれたんだよなあ……」
「俺のことって何」
「最近どんな様子か、とか」
「なんだそれ。俺に直接言えばいいだろそんなこと」
「言えないんじゃね? ……分からんけど、なんか気まずそうだったし。あと、安祐美ちゃんについてちょっと聞かれたけど」
「……安祐美? なんで今安祐美のこと?」
「それこそ本人に聞いてくれよ。俺は何も知らなかったから、知らないとしか言ってないよ」
元恋人である安祐美とは、今も連絡は取り合っている。だけど友達としての距離感はしっかり保っているし、そもそも今も安祐美と交流があることは紗英さんも知っているはずだ。
それなのに、今更何が気になったのか。
(浮気を疑われて……はないか。安祐美とは半月前に会ったけど、紗英さんとご飯に行ってる時に偶然会っただけで、そこには紗英さんも居た。別に変な空気もなかったし……)
少し話しただけですぐに安祐美とは離れた。あの短い間に何かがあったとは思えない。
「あー、じゃあ俺行くわ」
何かメッセージが入ったのか、会社用の携帯を見て広瀬が立ち上がる。すでに昼食は食べ終わっていたらしく、軽く手を上げてすぐに食器の返却口に歩んで行った。
とはいえ俺もそんなに時間がかかるわけでもない。広瀬が戻ってからあまり経たないうちに、食べ終わると同時に席を立った。
「おや。システム部の……」
声を掛けられたのは、オフィスに戻る前に立ち寄ったトイレから出た時である。
聞き覚えのある声だ。できれば思い出したくもないのだけど、それでも一応面識はないのだから無視をするなんて非常識なことができるわけもない。
「……ああ、総務の」
あえて同じように返しても、嫌な顔はされなかった。
風間課長がどうして俺に声をかけるのか、なんて今更疑問にも思わない。
そもそも昨日の今日である。会話の内容からしても、紗英さんからメッセージが来たのを考えても、この人は全部を知っているということで間違いはないだろう。
「何か不備でもありましたか」
「いや。高坂課長には異動の挨拶が出来たんだけどね、代理である川江くんには出来てなかったなと思って」
「…………俺は代理でも職位は主任ですから。いちいち主任にまで挨拶してたらキリないですよ」
何が挨拶だ。白々しい理由を取ってつけやがってと。じろりと強く見るのだが、それさえも飄々と流される。
大人びた、落ち着いた雰囲気だ。そんなことにも腹が立つ。
「怖いなあ。そんなに敵視しないでよ」
「……心当たりがあるんじゃないですか」
飛び出した「敵視」なんて言葉に確信を持って言ってみれば、風間課長は何が楽しいのかニヤリと笑うだけである。
「まったくないね」
「……ああそうですか。それじゃあ急ぐので」
「川江くんがそんなにつんけんする意味もよく分からないよ。紗英ちゃんのこと放ってるのは自分のくせに」
まるで、俺が悪いような言い草だ。
出て行ったのは紗英さんで、話し合いを拒否したのも、何もかもを勝手に決めつけているのも紗英さんである。
それなのに。
どうして俺が、責められるように言われているのか。
「首突っ込まないでくださいよ。関係ないでしょう」
「あのね、ちょっとは落ち着いて『どうしてかな』って考えてあげてよ」
「はあ?」
「普段と違う行動の裏側にはね、ちょっと面倒くさいことが起きてるかもよ、ってこと」
――――普段と違う行動の裏側。
それは、紗英さんが出て行ったことなのか。それとも、話し合いを拒否したことなのか。どれもこれも「普段と違う」と言い切るには大袈裟な気がして、むしろ「女らしい行動」と考える方が自然に思える。
(面倒くさいことが起きてる……?)
はっきりとしない言い方だ。それにもさらにイライラとして、目つきもいっそう強くなる。
「睨まない睨まない」
「……他人にあれこれ言われるのは不愉快なんですよ」
いい加減オフィスに戻るかと、風間課長を無視して歩き出す。
早く離れなければ今以上に険悪になりかねない。いや、そうなる未来しか見えなかった。
しかし、追いかけてきた小さな言葉が、後ろ髪を思い切り引っ張る。
「川江くんと仲直りしないと、紗英ちゃんが帰ってくれないんだよ」
それは、つまり。
自然と足が止まる。そうして振り返った時には、風間課長はすでに俺に背を向けていた。
(……帰ってくれない……)
そんな言葉は、家に居なければ出ないはずだ。
(……なんだよ。じゃあ紗英さんは今、あいつの家に居るのか?)
てっきり実家に戻ったか、最近引っ越してきたと言っていたお姉さんの家に押しかけているのだと勝手に思っていた。
なのに。
紗英さんはずっと、あいつの家に……。
ありえない行動だ。
俺が今から、安祐美を家に呼んで過ごし始めるのと同じくらい、ありえない。
あまりにも酷い行動に、もうダメだと総務に歩み出す。
もう付き合っていられない。俺は我慢した方だろう。
俺は、出て行かれても、真剣にこれからを考えていた。どうすべきかとも悩んでいた。なのに紗英さんは、何もかもを曖昧にして元彼のところに逃げ込んだのだ。
その節操も常識もない行動に、これ以上振り回されたくもない。
総務部は、営業やシステムよりもうんと柔らかな雰囲気だった。
顔を出すと、一番に藤原さんと目が合う。するとすぐに紗英さんを指したために頷いて返せば、察したように紗英さんを呼んで俺が来たということを伝えてくれた。
久しぶりに、紗英さんが俺を見た。
そんなことに少しだけ心が跳ねたけど、風間課長のことを思い出せばすぐに濁る。
「……えっと、喫煙所、行く?」
「談話スペースでいい」
気まずげにやってきた紗英さんにそう言って、間も無く早足に歩み出した。
いつもは紗英さんに合わせて歩く。だけど今は自分のペースで歩いているために、紗英さんは少し駆け足になっていた。
昼休みがもうすぐ終わるからか、談話スペースには誰もいない。
これから紗英さんと話す内容を考えると都合が良い。そんなことを考えながらも振り返ると、少し離れたところで紗英さんも足を止める。
「俺さ、もう無理だわ」
イライラするままに言葉を投げると、紗英さんは驚いたように目を見開く。
「口を開けば歳の差がとか結婚がとか……結局別れたかっただけなんじゃないの? いっつも何言ってもそうやって俺のこと見ようともしないでさ。しかも勝手に出て行ってメッセージも無視、話し合いもしたくないって逃げ出して、俺が体調悪いの知ってても放置。なんか、俺も紗英さんに酷かったかもしれないし、傷つけたんだろうけどさ、紗英さんも結構勝手だよ」
「…………勝手……って……」
「そうだろ。……俺も紗英さんと居ることが当たり前になりすぎて、正直、紗英さんに対して恋とか愛とかそういうの分からなくなってたけどさ……紗英さんもだろ。つか、今思えば最初から好かれてたのかも分かんねえし。もう無理だわ。いろいろ無理。俺だけこんなに考えて馬鹿みたいだし……浮気されるとか本気で一番無理」
「浮気?」
「結婚したいんなら相談所にでも行ってれば。俺じゃなくてもいいもんな、紗英さんは」
一度思ったことを吐き出すと、次から次に流れ出す。
あえて傷つけるような、酷い言い方ばかりだ。分かっているのに、俺は悪くないのだと思えば遠慮なんてする気にもなれない。
紗英さんは浮気をした。
だって、風間課長の家に居るのだ。
「そういうことだから。荷物は俺が居ない間に取りに来てよ、顔も見たくない」
――――案外、俺はちゃんと紗英さんを好きだったのかもしれない。
止め処なく溢れる苛立ちに、そんなことを思う。
今までどれだけ考えても分からなかったのは、奪われるなんて思ってもいなかったからだろうか。
(馬鹿らしい。俺ばっかり)
追いかけたのも、好きだったのも、全部俺だった。
きっと最初からそうだったのだ。
紗英さんは何も言わなかった。
ただ俺を茫然と見つめたままで、唇を震わせているだけである。
まるで俺を責めるようなそんな姿さえも腹立たしく、何も言わずにその場を離れた。
俺が悪いわけがない。
藤原さんも別れてやってくれと言っていた。紗英さんも、藤原さんを仕向けてまで別れたがっていた。
だから、俺が決定打を打ってやっただけだ。
知るもんかと、オフィスに戻る。胸の奥がズキズキと痛むことには、気付かないふりをした。