第五話
翌日は起き上がることも出来なかったために、さすがに有給を使った。
課長は「だから言ったのに」と呆れた後に二日間は絶対に安静にしなさいと、一日だけでなく二日目までも休みとして見込んでくれたらしい。
確かに、一日では治りそうにもなかったために有難い処置である。ここは従って甘えようということで、二日間暇な日が出来た、のだけど。
(……しんどい……)
床の寝心地の悪さに深夜に起きて、ベッドまで這いずりながらも向かえたまでは良かった。しかし問題は、朝になっても動く気になれないということだ。
病院には行かないといけないだろう。薬がなければ、さすがに治せる気がしない。
不意に。
以前、インフルエンザにかかった時の事を思い出した。
あの時は紗英さんが居てくれて、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。ご飯を作って、病院に連れて行ってくれて、体を拭いてもくれたし、熱さまシートも取り替えてくれて、氷枕の管理も完璧だった記憶がある。
あれがどれほど有難かったのか。不覚にも身に染みて、情けないことに涙でも出てきそうだった。
(……ダメだ。考えないようにしよう)
弱っていると人肌が恋しくなるというのは本当である。そちらに向けば紗英さんをあっさりと許してしまいそうで、それではダメだと深く息を吐き出した。
俺は紗英さんが謝らない限りは絶対に折れない。今回ばかりは、紗英さんが悪いのだから。
結局初日はずっと眠って、少し落ち着いた二日目になってようやく病院に向かった。薬を処方してもらって、食事もスーパーで調達して無事に戻る。
この調子ならあと一日眠れば完治するだろう。
案外一人でもどうにでもなるものだなと、課長に「もう一日休みます」と連絡を済ませて食事をとりながら、ぼんやりと考える。
たとえばこのまま、紗英さんとなんとなく終わっていく未来だ。
(……もう、別れたのか)
最後には、出ていくから、とはっきりと突き付けられた。
俺はその時、何を思ったのだろうか。
紗英さんは泣きそうな顔をしていた。唇をかみしめて、それでも何も言えないのか一度言葉を詰まらせて。結局言われたのは、面倒くさくてごめんなさい、なんていう、思ってもない事に対する勢い任せの形だけの謝罪だった。
あの時。
確かに俺は、後悔をした。
(……売り言葉に買い言葉で、面倒くさいとか言った俺が悪いとは思ってるけど)
だけどそれは別れたくないからではなくて、不用意に人を傷つけてしまった良心が、発言に対する後悔をさせただけのような気もしている。
(……若い子が似合う、か)
年下の子とか合うと思うよ、と。何の悪意も無く純粋にそう言われた。
確かにそうなのかもしれない。年下の女の子を可愛いと思わないわけではないし、街で見てもいいなあと思う事も少なくはない。
だけど別に俺には紗英さんが居たから、付き合いたいとか抱きたいとか、そういった事は思わなかった。
結局俺はどうしたいのか。
体調も落ち着いて、切羽詰まった状況でもない今、そんなことも冷静に考えることが出来る。
このまま喧嘩別れで終わらせるのか、しっかりと話し合うべきなのか。まずはどうするのが最善なのかも、今ならばしっかりと分かる。
(……まあ、俺も言い過ぎたし……)
体調が悪くて余裕がなかった、というのは、紗英さんからすれば知ったことではない。結局、俺が自分を正当化したいだけの言い訳である。
仕事に復帰したら話しかけてみるかなと、そんなことを思いながらも、完治するべくその日もだらだらと過ごしていた。
有給から復帰して出社すると、課長から安心したように迎え入れられた。俺が休んでいる間のフォローは極力やってくれていたらしいが、終わらなかったこともあったらしく、そこだけは申し訳ないとひたすら謝られたのだけど……そんなことすら気遣わない人が多い中で、手をつけてくれただけで有難いことである。
そのため感謝だけ伝えて、いつも通りの業務についた。
なんとなく、その日は喫煙所には行かなかった。行っても良かったのだけど、紗英さんと会ったらまた無視をされるかもしれないとか。そうなればまた自分は変に意地になってしまい、せっかくの「話しかけてみよう」という気持ちが萎むかもしれないとか。そんなことを思えば、喫煙所に行こうとは思えなかったのだ。
自分のことは自分が一番知っている。だからこそ、少しでも自分の気持ちが揺らぐ可能性があるかもしれないことは避けようと、紗英さんに会いに行くまでは総務の近くには行かないようにと努めていた。
俺が悪い訳じゃないから、謝ろうとは全く思っていないのだけど。それでも俺から話しかけようと思うのは、先日、勢いででも「面倒くさい」なんてことを言ってしまったからである。
なんとなく、話しかければ、それだけでもこの険悪な空気が変わる気がした。そうしたら、もしかしたら俺だって謝ろうと思えるかもしれない。紗英さんだって、意地を張らないかもしれない。
もしかしたら。
付き合い続けるにしても、別れるにしても、関係は明白になるのかもしれない。
「あれ、川江くんだ。あ、川江代理?」
「もう本当、なんで呼び方定まらないんですか」
昼食を終えて総務のフロアに向かうと、エレベーターを出てすぐに藤原さんと会った。藤原さんも昼食を終えたばかりなようで、その手には財布だけがある。
「何、紗英に会いに?」
「あー……まあ、そんなとこです」
「へえ。話し合う気になったんだ」
「話し合うというか……別に、ただちょっときっかけをあげようかなとか思うだけです」
「うっわ、素直じゃない」
総務に向かう道中を、藤原さんと並んで歩く。あまりないことのためになんとなく気構えてしまうけど、藤原さんはそんなことないのか、特に気にした様子もなく普段と変わった様子は見られなかった。
そんな道すがら。途中にある談話スペースが見えたところで、藤原さんが「あっ」と声を上げて俺を進めないように手で制した。
「っ、なんすか?」
「シー」
ぺたりと壁に背中を引っ付けた藤原さんが、その先にある談話スペースを盗み見るようにちらりと覗く。
まるで忍者みたいな動きだ。いったい何が始まったのか。
「それにしても驚いたね、紗英ちゃんとまた仕事出来るなんて。それも同じ部署だ」
紗英ちゃん。そんな単語に、藤原さんにならってそちらを覗こうとしていた動きも止まる。
「そうですね。前は私、営業事務でしたもんね……というか、会社では名前で呼ばないでもらいたいのですが……」
「おっと、そうだ。ごめん、いつもの癖で」
「こんな会話聞かれたらどう思われるか……気をつけてくださいね」
明らかに困ったような声を出す紗英さんに、姿も見えない男は笑いながら「分かった分かった」と分かっていなさそうに軽く答えていた。
親密そうな雰囲気だ。名前で呼んでいることを差し引いても、ただの「会社の人間」という関係でないことは明らかである。
「……藤原さん」
「あー。ちょっと前に総務の課長が異動出たのは知ってる? 紗英、送別会には来てたんだけど」
「ああ、はい」
喧嘩した朝。あの前夜に確か、そんな飲み会があった。
「今紗英と話してるのは、その後任の課長。風間さんって言って、前のところで紗英と一緒だったんだって。今回の異動で、営業ではもったいないからって部署異動したって聞いた。ほら、紗英も営業事務だったでしょ」
それで「また仕事出来るなんて」かと、ようやく納得する。
紗英さんは、俺が入社するよりも前にここに異動してきたと言っていた。異動前の職場でのことは俺には関係ないからと、深く聞いたこともなかったのだけど――――今の喧嘩した状態であれば聞き出すことも出来ないために、当時の自分がなんだか憎らしい。
いや、そもそも。
職場の上司に名前で呼ばれる、とは、普通の関係なのだろうか。
「……なんか、おかしくないすか」
「……そう?」
「そうでしょ。……ただの上司が名前で呼ぶとかセクハラですよ、今の世の中」
「やっぱり察するよねー」
藤原さんが気まずげにちらりと二人の方を見て、俺に戻す。
何かを探るような目をしていた。しかし口に出されないために居心地が悪く、逸らされないことにも違和感しかない。
――――測っているのだろうかと。そんな風にも思えてくる。
「……察する、ってことは……元彼とかですか?」
遠回りな会話は好きではないために直接的に聞いてみれば、思った通りに藤原さんが言い淀んだ。
「……うーん? ……まあ、そんなことを私も聞いたけど」
俺に気を遣って言い方を濁したのか、返ってきたのは肯定とも言える言葉だった。
俺が一人で体調を崩している間も、俺が一人で「少しは悪かったかもしれない」と後悔している間も、紗英さんは元彼と楽しく仕事をしていたのだ。
俺のことなんて忘れたように、楽しく会話をして、親密な雰囲気を醸して。紗英ちゃん、なんて普段呼ばれないように呼ばれて、少しでも心は浮かれただろうか。
本当はあいつと一緒になりたいのにと。そんなことすらも思ったかもしれない。
「そういえば、彼とはその後、連絡とってないの」
突然俺の話が出て、ついピクリと眉が揺らぐ。
その後、とはいつからのことか。そもそもどうして、元彼の方がその話を気にするのか。
やっぱり紗英さんのことをまだ狙っているのかと、静かに聞き耳を立てていると、とてつもなく躊躇った後に紗英さんが小さく声を出す。
「……そう、ですね……」
「ふーん? ……システムの川江くんだよね。彼、ここ三日くらい有給使ってたみたいでね、倒れたみたいだけどそれは知ってる?」
「…………知ってます……けど……」
気まずそうな声。それに乗せられた意味が、残酷に突き刺さる。
俺が休んだことを知ってる。
俺がどうして有給を使ったかも知ってる。
なのに紗英さんは、帰ってくることをしなかった。
(俺のことなんかどうでもいいのか……)
馬鹿みたいだ。何で俺は今、ここに立っている。
どうして俺から、声をかけないといけない。だって紗英さんはもう別れたと思っているのだ。
なのに。
どうして俺が、歩み寄る必要がある。
「あ、ちょっと川江く、」
オフィスに戻ろうと歩き出すと、後ろから藤原さんの声が追いかけてきた。
それでも止まれないのは仕方がない。だって、こんなところに居る自分があまりにも滑稽だった。
紗英さんは最後に、出ていく、と言った。それが全てだ。話し合いの余地なんてない。元彼が出てきたのであれば尚更、そしてその元彼が紗英さんとの関係を望んでいるのであればもはや俺の出る幕はない。
じくじくと、胸の奥が痛む。気持ちの悪い感覚だった。
――――付き合って五年。同棲して三年半。紗英さんと一緒に居ることが「生活」になるには、充分な時間である。
だからだろう。それを侵されることが、こんなにも腹立たしい。
こんなにも、悔しい。
(……だせえ)
紗英さんのことが好きなのかとか。結婚はどうなのかとか。何一つとして分からないのに、ただ「腹が立つ」という感情だけは確かだった。
それは、紗英さんに対してだったり、あの元彼に対してだったり、首を突っ込んでくる藤原さんに対してだったり、たまに茶化してくる広瀬にだったり。
何より、感情で動いてばかりで上手く言葉で伝えられない、自分に対してだったり。
オフィスに着くと、すぐにパソコンに向かった。
同時に、ポケットの中でスマートフォンが震える。それを取り出してみれば、液晶には紗英さんの名前と、新着メッセージがあります、という文面が見えた。
さっきまで元彼と楽しげに話していたのに、俺に連絡してくるということは……。
(……元彼に絆されでもしたのかよ)
俺のことなんか放っておいた紗英さんからのメッセージなんて、良い報せなわけがない。
先ほどよりもイライラとした心中のまま、スマートフォンは乱暴にカバンに突っ込んだ。