第四話
課長二人と主任の手腕もあって、結果的に契約は続行されたが、内容はしっかりと変更された。
そのため下準備は功を奏したし、ただ働きにもならなかったのだけど……ばたばたとした二日間を過ごして、現在。会社の仮眠室に差し込む太陽があまりにも眩しくて、強制的に覚醒させられた。
「……う、ん……朝か……」
家に戻らなくなって二日。流れに流されて今である。
「あー、くそ。頭おも……」
完全個室の仮眠室は、有名な大企業だからこそなのか綺麗で快適だ。外には共有のシャワー室もあるし、コーヒーも置いてくれている。仕事中のリフレッシュに、と設置されたらしいけど、ほとんどは飲み会で終電を逃したからと使われているホテル代わりの部屋である。
ひとまず部屋の外にあるトイレで洗顔やら歯磨きやらを済ませて、再び室内に戻った。
どういうわけか、頭が痛い。そして気だるい。あまり体調が良くないのだと気付いたけど、それでも仕事はしなければとシャツの袖に腕を通した。
「おはよう、川江。すまなかったね、この数日」
まだまだ早い時間のオフィスに入ると、高坂課長が苦笑気味にデスクに座っていた。例の先方が県外だったために緊急出張をしていた課長は、どうやら今朝帰って来たらしい。契約もひと段落ついたのだから、そのまま昼の新幹線で戻ってくると思っていたのだけど――――どうやら課長は、俺が思っているよりもずっと部下想いだったようだ。
「おはようございます、課長。この短期間に関係各所にも回ってくださってありがとうございます。課長もお疲れ様でした」
「僕よりも、みんなの方が大変だったろう。確認したけど、ざっと見る限り進行の停滞もない。不備も見当たらない。よく回してくれた。僕は優秀な部下を持ったなあ」
「……本当、みんな耐えてくれましたよ」
「川江だってそうじゃないか。――――顔色が悪いよ。体調が良くないね」
ニコニコとしているのにいつだって観察眼だけは鋭い課長が、変わらない表情で見事に言い当てた。しかし起きた時よりも幾分楽にはなっていたために、大丈夫ですよ、とだけ返事をする。
軽く何かを食べて薬でも飲めば治る程度の不調だ。
「帰るという選択もあるけど」
「いえ。トラブルは落ち着いても、押している業務があるので」
「やっぱりか。……おかしいと思ったんだよ。余計な業務が増えたのに進行には滞りがない、だけど泊まっているのは川江だけ。……部下を優先するのも分かるけどね、一人だけ激務になっていたんじゃあ意味がない」
「代理ですからね」
「関係がないよ。今日は帰りなさい」
「嫌です」
「川江」
じっとりと探り合う間が落ちた。お互いに引かないぞ、という空気の中で、とうとう折れたのは課長である。
「……分かった。だけど、僕が次に『帰れ』と言ったら帰りなさい。上司命令だよ」
俺が頑固な事を知っている課長は、呆れたように深い深いため息を吐いていた。
治るだろうと思っていた不調は、どういうわけなのか時間経過とともに悪化していった。
コンビニで軽く食べ物を買って食後に薬を飲んだけれど、それは無残にも戻されてトイレに流されていく。気だるさと頭痛。なのに嘔吐するとは――――果たしてこれは、ただの風邪、なのだろうか。
(っても、ふらつくとかないし……)
ストレスで胃でも壊れたのか。分からないけど、ひとまず昼食は入らないなとコンビニでゼリーを買った。
「川江代理。川江さん。川江くーん」
コンビニ帰りにオフィスビルに踏み入れたところで、背後から呼び止められた。
こんな奇怪な呼び方をするのは一人しかいない。今相手をするのは気鬱だなと思いつつ、それでもちらりと横目に振り向く。
「あー、なんすか、藤原さん」
総務部の藤原さんは、紗英さんと仲良しで同期の人である。落ち着いた雰囲気は紗英さんと同じで、大人の女性、という点では似ているのかもしれない。
キャラクターで言えば二人は正反対だけれど。
「今ってまだお昼休み? 時間ある?」
「まあ……」
「んじゃあコーヒーおごるからさ、ちょっといいかな」
面倒くさい。一番にそんな事を思った。それでも紗英さんに何かあったのかもしれないなと思えば、黙ってついて行くという選択しかなかった。
ちょっと、と言ったのは本当だったのか、連れられたのは廊下にあるくぼんだ自販機のスペースだ。そこは紗英さんと話し込んだあの思い出の場所である。今日は藤原さんと座っているというのがなんだか不思議で、それでも話の内容は紗英さんのことなのだから、この場所に何かしらの縁でもあるのかもしれない。
「紗英の事なんだけどさあ」
コーヒーを飲みながら、藤原さんが開口一番にその名前を出す。
紗英さんと仲の良い藤原さんは、すべてを聞いたのだろう。それこそ何があったのかも、紗英さん自身の気持ちも知っているはずだ。
その上でいったい何を言われるのか。そんな事に、少しだけ耳を塞いでしまいたくなる。
「もうさ、スッパリ言ってあげてほしいんだよね」
「……言う?」
「そう。別れますって、切ってあげてほしいの」
てっきり、結婚してあげて、と言われるのかと思っていただけに、突然心がずしりと沈んだ。
藤原さんと紗英さんは仲良しだ。その藤原さんが言うのならば、紗英さんが相談した内容である可能性が高い。
つまり。――――紗英さんは、俺と別れたがっているという事になる。
「もうあの子も三十五だし、いい機会だと思うんだよね。ほら、川江くんだってまだまだ若いじゃん? だからさ、年下の子とか合うと思うよ」
「……それ、紗英さんが言ってたんですか?」
「うーん。紗英は悩んでるって感じ。だから、川江くんからフッてほしいなって」
「それはあんたの意見だろ」
どうして俺たちの事に口を挟まれないといけないんだと睨みつけると、藤原さんは驚きも無く、焦る様子も見せず、ただふうと息を吐いた。
「…………私もねえ、川江くんの気持ちわかるよ」
「何のことすか」
「私が新入社員の頃ね、付き合ってた人が一回り年上だったの。付き合って二年は経ってたから、相手は結構結婚を焦ってて、事あるごとにそればっかりチラつかせてきてね」
コーヒーをぎゅうと握りしめて、藤原さんはつまらなさそうな顔で続ける。
「しんどいんだよね、正直。まだまだ結婚とか考えてなかったし、焦られても『知るか!』って感じだったし。重いっていうか、キツイっていうか。まだまだ遊びたい盛りだったし? ……だから川江くんもそうなんじゃないかなって思って」
――――俺は、紗英さんを「重たい」と思ったのだろうか。
ぼんやりとする脳みそでは正解が分からない。ただ、事あるごとに年齢を理由にされるのに腹が立っていたという事だけは覚えている。
「結局別れたしね。……結婚相手が今の旦那で良かったって思うよ。同じ年でね、すっごく楽だし」
「……それで?」
「別れてあげられないかってだけ。私が口出す事でもないんだろうけどね。…………なんとなく、今の二人を見てると、関係が平行線でやきもきしちゃって。川江くんだってさ、五年付き合って結婚しないってことは紗英とはするつもりないんでしょ? なら時間の無駄だろうし、切ってあげてよ」
そう言って、藤原さんは苦笑を漏らす。
悪意は感じられない。そこには怒りも見えない。だからきっと、藤原さんは善意で言っている。
それが分かるからこそ、何も言えなかった。
「……出来るだけ早く言ってあげて。別に紗英だって恨まないと思うよ。私もなにも思わないし。……いきなり呼び止めてごめん、それだけだから」
結婚するつもりないよね。別れてあげて。そんな藤原さんの言葉がやけに頭に残っていた。
疲れているとか、重いとか、そんなことも話に上がった気がするけど、それでもさらに悪化した体調が深くは考えさせてくれなくて、どうしたいとか、どうすべきなのかとか、何もかも分からないまま。
気が付けば終業後、フラフラと家に戻ってきた。
しばらくぶりの家だ。だというのに、気分の悪さと頭の痛みでそんなに感動的にもなれない。
明日までに治さなければと、そんな事を思いながら玄関を開けると、明かりが点いているのが見えた。
玄関ではない。奥のリビングである。
明かりが点いているということは誰かが居るということで、この家に関しての「誰か」とは、俺でなければ一人しか居ない。
帰ってきたのかとリビングにやってくると、思った通り、ちょうど紗英さんが荷物をごそごそとまとめていた。
「なにやってんの」
久しぶりの紗英さんだというのに、動きが不穏すぎて問うことしか出来ない。
よく見れば、なんとなく部屋が寂しくなっている。今まとめている大きさのバックには入らなさそうな量だから、もしかしたら俺が居ないこの数日間に紗英さんは何度か帰ってきて、自分の物を持ち出していたのかもしれない。
「……帰ってきたんだ」
「何してんのって聞いてんの」
「荷物、まとめてる」
悪びれもなく、紗英さんはそんな事を言ってのける。手は止めないまま、俺の方も見ないまま。ただ黙々と、手際よくカバンに物を詰め込んでいた。
「あのさあ、少しは話そうとか思わないわけ」
「話す?」
「そりゃそうでしょ。別れるにしても、きちんとしようよ」
「…………別れ……」
何故か、紗英さんがキョトンとした。それの意味が分からなくて黙ってしまったために、自ずと重たい沈黙が落ちる。
別れることに決めたから荷物をまとめていたのは紗英さんだ。なのに何故、そんな風に驚いているのか。
「なに」
「……別に。うん……」
「言いたいことあんの」
「何でもない」
そう言いながら、紗英さんは再び荷物をまとめ始めた。俺と話すつもりはないというその態度にはさすがにカチンときて、やや乱暴にその手を掴む。
「話くらいしようって言ってんだけど」
「じゃあ次の休みにでも時間作るから」
「はあ? 今話してけばいいだろ」
「いや。放してよ」
ばし、と乱暴に手を払われた。気分の悪さでぼんやりとした脳みそではそれを正常に受け止める事が出来なくて、反射的に苛立ちが這い上がる。
――――勝手に出て行ったのは紗英さんだ。別れると決めたにしても、それのけじめもつけない方がおかしいのに、どうして俺が責められているような気持ちにならなければならないのか。
どうして、二人のことを一人で決めるのか。
結局紗英さんは別れたいだけだ。全部を年齢とか俺のせいにして、紗英さんが俺と結婚なんてしたくないだけなのだ。
「……最近忙しいんだよね? トラブルのことは聞いてる。だから今よりもまた今度の方が、」
「そうやって先延ばしにいて何になるわけ。……別れたいんならはっきり言えばいいだろ」
「何の話?」
あくまでもしらばっくれる様子の紗英さんには、ため息しか出ない。
そういえばちょうど今日、藤原さんから紗英さんと別れてやってくれと言われた。
タイミング的に考えても、紗英さんが藤原さんに頼んだという説が濃厚だろう。きっと紗英さんが自分の口から言い出せずに、俺から「別れよう」と言うように仕向けてくれと藤原さんに頼んだのだ。
それなら合点がいく。
やっぱり紗英さんは、俺と別れたがっている。全部の責任を俺に押し付けて、逃げる形で終わらせようとしている。
(……なんだ、それ)
無性に腹が立った。
気分が悪くてむしゃくしゃしていたのもある。余裕がないということもある。だけど今回は俺は悪くなくて、絶対的に紗英さんが悪いのだから仕方がない。
だって、何か気に入らない事があるなら俺に直接言えば良いだけだ。
なのに間接的に伝えるなんて、馬鹿にしているのかとも思える行為である。
「あー、もうなんか、わっかんねえ。紗英さんが分かんねえ」
ぐらりと、足元がふらついた。それに従って壁にもたれると、投げやりな言葉に対して自然な仕草だったからか、紗英さんは何も気付かなかったらしい。
「分からないって何が?」
「別れたいんならさあ、まだるっこしいことせずに言えばいいじゃん」
「別れたいとか……別に」
「いいって、もう。誤魔化そうとすんの見苦しいよ」
「……何それ。というか、最初に別れるって言ったの大輔くんだよね?」
「最初って言うなら、普段から年齢を理由に『遊んでられない』とか言ってた紗英さんが最初だろ。俺のせいにするなよ」
ああ、ダメだ。ムカムカしてきた。
足元が覚束無いから動けないけど、意識はある。体調の悪さを悟られないようにと気丈に紗英さんを見ると、紗英さんは俺の事なんか見ていなくて、手元に視線を落としていた。
「だって事実じゃない。何歳違うと思ってるの。男の人と女の人じゃ年齢の重みとか全然違うんだよ」
「だからってタイミングとかもあんだしさあ、結婚結婚ってそんな必死にならなくてもいいだろ。夢見すぎなんだよ」
「夢って……そうじゃない! 私は現実的な話をしてるの!」
「あーもう、何回も聞いた。紗英さんのそういうとこ、本っ当面倒くせえ!」
その言葉で、紗英さんが俺を見た。
ハッとしたような表情をして、すぐに唇を噛み締める。
「ああ、そう。面倒くさくてごめんなさい! もうこんな女出て行くから!」
紗英さんにしては珍しく、荒々しい仕草で出て行った。
バン! と、強く扉が閉まる音が響く。それに緊張が解けたのか、力が抜けてずるずると座りこんだ。
何が起きた。いや、何を言った。何を言われて、どうなった。
(……分かんねえけど……無理)
ベッドに行くことも出来ないままで、その場で横になる。
すると自然とまぶたが落ちて、眠りに落ちるのは一瞬だった。