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第三話

 






 

 アラームを仕掛ける事なく目覚めた土曜日。誰に何を言われる事も無く、一人で自由な時間に目覚めて、ぐぐっと両手を伸ばした。

 よく眠れた。久々だった「一人」という空間が、癒しをくれたのかもしれない。

「ん、あー……ねむ……」

 寝ても寝ても眠たい。俺もまだまだ若いなと思いながら、その日は結局何度も何度も眠りについた。




 そうして気が付けば外は真っ暗で、時計を見ればすでに二十時を回っている。


 結局寝てばっかりだったなと、何かに対して申し訳ない気持ちになりながらリビングへ行くと、そこはシンと静まり返って電気も点いていない。

「紗英さー……あ。そうだった」

 出て行ったんだった、と思い出して、素早く携帯を確認する。もしかしたら何か連絡が来ているのではないかと思ったのだ。

 しかし、そんな俺のそんな気持ちも知らず、携帯は何の通知も表示しない。


 結局どこに行ったのかも、いつ帰ってくるのかも分からない。それでも紗英さんにとってここは「帰る場所」のはずだから、それならほとぼりが冷めたら帰ってはくるだろう。

 きっと、怒っている、と伝えるために家出という演出を行っただけ。なんとも女の子らしい「構って」アピールである。


「……飯食お」

 ひとまず腹が減ったために、何かないかと冷蔵庫を開けた。

 すると当然ながら、調理前の食材がずらりと並ぶ。もちろん俺は料理なんて出来ないし、調味料の置き場所すらも知らない。それどころか、調理器具が揃っているのかさえも分からない。

 どうしたものかと一瞬考えたけれど、なんだか面倒くさくて外食にしようと部屋に戻った。



 

 







 





「よお、川江。景気悪そうな顔してんなあ」

 週初めの月曜日。喫煙所で一息ついていると、入って来た広瀬が煙草を取り出しながら俺の隣に腰かけた。それを尻目にくわえていた煙草を灰皿に押し付けて、次の煙草の準備をする。

「禁煙してたんじゃなかったか?」

「ストレス」

「……なるほどな。日曜から仕事してんだって? そんなカツカツなのか、システム部」

「いや、俺が勝手にやってるだけ」

「立花さんは怒らねえの? 土日とかさ、落ち着いて過ごせる日だろ」


 ぼんやりと、のぼっていく煙を見ていた。

 そのうち換気扇に吸い込まれていくのであろうその煙は、それでもまっすぐに立ち上っている。まるで馬鹿の一つ覚えみたいに、疑う事無く突き進んで。最後には無情にも消し去られる未来なんて知らないが故に、そうやって歪みなくいられるのだろうか。


「……出てった」

 煙草をくわえたままだったためにあまりうまく喋れなかった。しかし広瀬はきちんと理解したのか、灰を落としながらもこちらに驚愕の目を向けている。

「は? え、立花さんが?」

「そう。喧嘩してさあ。金曜の夜から帰ってこない。土日も」

「それで日曜から会社来てたのか。嫌だよなあ、真っ暗な部屋に帰るのって」

「嫌……どうだろうな。なんかやる事なかったから仕事してただけだし」

 なんとなく、紗英さんはもう帰ってこないんじゃないかと思った。連絡も来ないし、一度だけ送った「どこに居る?」なんてメッセージにも既読がつかない。俺が外食に行っている間に帰って来た、という形跡もないし、本当に一切の消息がつかめないのだ。


 構って、というアピールだと思っていたのに、ここまで本格的だとさすがにそうではないと気付く。紗英さんは本気だ。本気で、あの家から出て行った。


「あー、まあ、早く謝って帰ってきてもらえ。変にこじれる前にな」

「何で俺が謝るんだよ。俺は悪くねえもん」

「俺は二人の事知らねえけどさ……立花さんて大人じゃん。なんつーか、感情的にならないイメージ? いっつも冷静だし、ちゃんと『正しい事』を分かってるというか……そんな人が出ていくとか相当だと思うぞ」

「……知らんし」


 これが「未来」だろうか。

 馬鹿の一つ覚えみたいに疑う事無く突き進んだ先にある、無情な未来。好きだと必死に迫っていた頃には、同棲を始めて浮かれていた頃にはまったく見えていなかった。


「もう分かんないんだよなあ。何で好きだったかとか、これからどうしたいかとか。別に今だって寂しいとか思ってないし、何とかなるだろって思ってるし」

「そりゃ川江、おまえが慢心してるんだよ」

「慢心?」

「そう。結局、最後には戻って来てくれるって思ってんの。今までがそうだったんじゃねえの?」

 今まで。言われて思い出せば確かに、喧嘩した時には紗英さんが折れてくれていた。


 俺はなんだかんだ紗英さんは帰ってこないとは思っていながらも、深層心理では結局紗英さんが折れると思っているらしい。気付いてしまえば今回も「仕方ないなあ」という顔をして戻ってくるような気がして、少しばかりささくれ立っていた心が凪いでいく。


「そうだわ、ずーっと紗英さんが折れてる」

「だろ。……お、噂をすれば」

 ガラス張りの喫煙室から外を見た広瀬を追って、俺もそちらに目をやった。

 すると、紗英さんが総務部の同僚らしき女と二人で歩いているのが見える。どうしてこのフロアに――とは思ったけど、そういえばこの喫煙所のあるフロアには総務部があったはずだ。紗英さんが来たんじゃなくて俺が来ていたのか、なんて納得したところで。


 紗英さんが、不意に俺を見た。

 一瞬驚いた顔をして、何かを言いかけた唇はそれでも、視線を逸らすと同時に閉じる。

(……紗英さんだ)

 久しぶりに見た。そんな事がなんとなく感慨深い。


「ありゃ、ちょっと深刻な感じ?」

「はあ?」

「これは急いだ方が良いかもしれない」

「なんでだよ」

「おまえが禁煙してたの、立花さんに言われたからだろ。んでも今吸ってるわけよ、で、それを立花さんも見た。でも何も言わなかった」

「喧嘩してるからだろ」

「ばか、見てただろ、立花さんは何か言いかけたんだよ。それでもやめたんだ。喧嘩してるとかしてないとか関係ねえんだって」


 ――――確かに。紗英さんはこれまで、どんなに気まずい空気でも俺が何かをしたらそれをしっかりと咎めてくれていた。


(……じゃあなんだよ、本当に俺たち別れたわけ?)

 ならせめて別れ話をするのが筋だ。それを省かれても、こちらも訳が分からない。

 勝手に俺たちの事を一人で決めて、勝手にあの家から出て行って、勝手に俺の事も避けて勝手にフェードアウトするのかよ。

 そう思えばなんだか苛立ちが湧いてきて、ならそのまま勝手にしてろよ、なんて投げやりな心が騒ぎ出す。大真面目に考えている俺が馬鹿みたいだ。

「絶対俺からは折れないからな」

「おーい、川江、」

「うるせ。広瀬には関係ないだろ。じゃあな。仕事しろよ」

 もうすっかり短くなった煙草を、灰皿に押し付けた。

 過度な程に力を込めて潰したそれはぐしゃりと歪に曲がって、まるで再びささくれ立った俺の心みたいだなと、なんとなくそう思ってしまった。


 




 


「川江代理!」

 オフィスに戻ると、部下の早川が慌てたように駆け寄って来た。オフィス内もどこか焦った様子で、上司である高坂課長の姿はない。

 そのため俺に頼って来た、のだろうけど――――少し離れていた間に、いったい何があったのか。

「どうした、早川」

「田中商事との商談で、新人の営業がやらかしたらしくて……」

 どうしてよりによってこんなタイミングで、と思いながらも、早川から差し出された報告書を受け取る。

 そうしてパラパラと確認して、そこに記された無茶な商談内容に眉を寄せた。無茶、どころではない。どうしてこれで営業は頷いたのか。

「……担当誰だ、これ」

加瀬(かせ)です」

「あの新卒か」

 チャラチャラとした若者で、言葉遣いも礼儀も知らないような男だ。キツイ香水も、派手な髪形も何度も注意されているのに直そうとしないため、加瀬の扱いには上長も頭を抱えているらしい。


 広瀬は営業一課の主任だが、加瀬の所属する営業二課の主任である福田主任が不憫でならないと話はこれまでに何度も聞いている。

 広瀬も今頃話を聞いて、フォローに回っているのだろうか。


「……んで高坂課長が居ないのか」

「はい。高坂課長は営業の課長と先方に出向くと……どうなるか分からないために、この契約書に書かれている下準備だけはしておいてほしい、という事と、ひとまず今日の取りまとめは川江代理に任せると言ってました」

 ――――加瀬は、営業部だけではなく、システム部にまで負荷のかかる契約を結んでいた。馬鹿らしい内容だ。幼稚園生にでも分かりそうな不利益な契約である。

 口車に乗せられたか、何も考えず頷いて終わらせたか。どちらにせよこんなものを受け入れるわけにもいかない。それでも一度頷いてしまったのなら、課長曰くの「どうなるか分からない」という言葉の意味も分かるけれど。

(……なんで今なんだよ)

 納期が近い。管理メンテナンスも挟むこの時期に仕事を増やすトラブルとは、まったく迷惑極まりない。


「川江代理……」

「おー。不安そうな顔するな。とりあえず今から呼ぶ奴らは俺のところに来て、契約書にある『下準備』とやらを進めてほしい。で、それのフォローについて……」

 これは今日は帰れそうにないなと。そんな事を思いながらも紗英さんの事を思い出してしまって、まあいいかとため息を吐いた。



 一通りの説明を終えた頃、ちょうど広瀬から電話が掛かって来た。内容はもちろん今回の事に関する謝罪で、どうやら営業部も主任陣はフォローで忙しいらしい。

『加瀬連れて、福田主任と課長たちが先方に行ってたけど……さすがに加瀬、異動かもなあ』

「いい加減しょうがないだろ。むしろ今までよく置いてたよな」

『いやー……そっち大丈夫か? ただ働きみたいなもんだろ、あんな契約』

「まあなあ。一応下準備はしとけって事で枠あけてるけど……仕事させるならせめてもっと契約の条件良くしてって言っといて」

『任せとけ』

 俺の揶揄に苦笑を漏らした広瀬は、その後に「ありがとうな」とだけ言って通話を終えた。茶化されて、少し楽になったのかもしれない。


 ふと見たブラインドの外はもう真暗だった。俺だけではなく、このオフィスの人間は、今日はいつ帰れるだろうか。

(……俺は別に、紗英さん居ないしいいけど)

 帰っても何をするわけでもない。話す相手がいるわけでもない。

 それでもこのオフィスには既婚者も居るために、せめてそいつらだけでも帰してやらなければと一度両手をぐっと伸ばして気合を入れた。

 

 

 

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