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第二話

 




 



 こんな日に限って、段取りよく仕事が終わっていく。

 トラブルもなく、追加作業もなく、上司からの無茶ぶりもなく、緊急会議もなく。スルスルと仕事をこなしてしまい、あっという間に昼休みだ。

 十二時に昼食を食べれるなんていつぶりだろうか。

 これまでならば、コンビニに何かを買いに行く隙すらも見つけるのに苦労していたというのに。


「お、川江(かわえ)。珍しいな、社食に居るの」

 同期であり営業部の主任である広瀬が、慣れたように俺の正面に腰かける。

 確かにここ最近はデスクで昼食をとっていたから、広瀬に会うのも久しぶりだ。

「おう、ひと段落したからな」

「ほー。システム部にひと段落なんてあったんだな」

「一応あるわ」

 久しぶりに食べる温かな昼食は身に染みるように、ささくれだった心をなだめてくれる。

「そういやさ、広瀬。おまえ結婚して何年だっけ」

「なんだ急に。今年で三年目だな」

「楽しいか?」

「んー、まあな。まだまだ毎日楽しいよ。奥さんも俺のこと大好きだしなあ」

「……へー」


 まったく分からない感覚だ。

 好き、なんて、日々思う必要はあるのだろうか。

 紗英さんとは付き合って長いし、燃え上がって恋愛をしていた時期はとっくに昔の事だ。

(わかんねー……)

 過去の自分の気持ちさえ曖昧で、どうして必死に追いかけていたのかも不明である。

 どうして紗英さんだったのかも。どうしてあんなに突っ走れたのかも。もうなにもかもが昔の出来事で、何一つとして思い出せない。


「なに、川江もとうとう結婚すんの?」

「んや? しねえ」

「相手ってあれだろ、総務の立花さんだっけ。もういい年だし、もらってやんねえといけないんじゃね?」

「……また年の話かよ……別に結婚がすべてってわけじゃないだろ」

「そうかもしんないけどなー。女はそこんとこ男よりシビアなんじゃね? 五歳も年下だとそりゃあ余計にさあ」

「……余計に?」

「そ。結婚しないんなら、別れてやるのも優しさだぞ。いち早くな」


 広瀬曰く。

 相手が五歳も年下だと、女性側は焦るらしい。今になって捨てられても、とか、早く結婚して子どもも欲しいのに、とか。将来を考えて、気鬱になっていくのだそうだ。


 そういえば付き合う前、告白ばかりをしてグイグイ迫っている時に、紗英さんは繰り返し言っていた。

 若い子と遊んでいる暇はない。いい加減からかうのはやめて。そうやって何度も俺を拒否して、必死に婚活をしていたっけ。

(……焦る、か)

 まったく分からない感覚だ。

 結婚をしたところで、いったい何が変わるのか。これまで通り一緒に朝食を食べて、仕事に行って、帰ってきて晩御飯を食べて、一緒に寝て。きっとそんな「日常」は結婚をしてもしなくても続く。

 では、わざわざ「結婚」なんて事に縛られる意味は。


「俺さあ、めっちゃ謎なんだよな。川江が立花さんを選んだの」

「謎?」

「だって、あんま関わってない感じに思えたからさ。新入社員のうちに総務と関わる事なんてあったか?」

「あー、んー、まあそれは、うん。無かったな」

「だろ? だから何で? ってずっと思ってたんだよ」

「総務の研修とか無かったしな。……配属も結局システムだったし」

「だよなあ」


 ――――そういえば、なんでだったっけ。

 俺が紗英さんを追いかけるきっかけになった出来事。それは確かにあったのだけど、いったい何だったのか。どう思い出そうとしても、喉元に引っ掛かってあと一歩のところで出てこない。


「当時付き合ってた彼女も居たんじゃなかったか。ほら、大学同じだった、他県に就職した子」

「あー」

 あの頃は、本気で結婚するのだと思っていた子だ。

安祐美(あゆみ)ね」

「そう! 野元安祐美ちゃん! あの子とも確か三年くらい付き合ったって言ってたよな?」

「そういやそうだな」

「おまえのデッドラインなんじゃね? 三年って。それ超えても結婚に踏み込めなかったんなら、元カノみたいに別れるべきだと思うけどなあ」

 じっくりと他意なく言われて、つい聞き入ってしまった。

 デッドライン。広瀬曰くのそれは、もしかしたら本当に存在するのかもしれない。


(……ああ、思い出した)

 唐突に降ってわいた記憶。

 皮肉にも、紗英さんを好きになったきっかけは安祐美だった。


 当時恋人だった安祐美と、遠距離になって初めての大喧嘩をした時だ。一緒に居た時にもあんなに大きな喧嘩をした事がなかったために、正直かなり落ち込んでいた。その時に声を掛けてくれたのが紗英さんだった。

 オフィスまでの通路にある自販機の並ぶスペースで、狭いソファに並んで座り、ずっと静かに話を聞いてくれた。全く知らない人に話しかけられて最初は驚いたけど、聞き方が優しかったからか、ついスルスルとすべてを話してしまったのだ。終業後からだいぶ経って外は真っ暗だったのに、文句も何も言わずに相槌だけを静かにくれた。

 確か、それからだ。

 だんだんと紗英さんに気持ちが傾いた。安祐美には結局フラれて、俺もそれを受け入れて、視線の先には紗英さんを置いて。

 どうしたら話せるかなとか。どうしたら近づけるかなとか。そんな事ばかりを考えて、結局特攻を仕掛けたのだ。


 そうしてフラれまくる未来になるのだが、俺はまったくめげなかった。

 そんなに恋愛に必死になるタイプではなかったはずなのに、あの時は生まれて初めてとも言える程に必死になったものだ。


 何度も何度も、年齢を理由に拒絶された。だから俺は何度も何度も、関係がないと言い募った。

 関係がないと軽く言えるくらいには、俺は紗英さんの事が好きだった。

 この人だと思った。この人がきっと最後なのだと、頭のどこかで信じていた。


 ――――だけど、本当のところはどうなのだろう。

 あの時は直感で「最後の人」だと思っていた。


 俺は、今も変わらずそう思っているだろうか。



「広瀬さあ……なんで結婚しようと思った?」

「突然だなー。なんでって、まあ、全部一緒がいいと思ったからじゃね?」

「……はあ?」

「楽しい時も、悲しい時も、嬉しい時も、大変な時もさ。――――よく聞くだろ、健やかなる時も病める時も、ってやつ。あれだよ、あれ」

「……へえー」

 益々分からなくなって、それからは広瀬ののろけ話へと話を切り替えた。




 

 

 

 紗英さん自身も、広瀬さえも共通して口にすることがある。

 それが、年齢差、だ。

(……年下なのって、そんなに気になるか……?)

 あまりにもそこを押し出されると、だんだん自分に自信がなくなってくる。


 俺のこの若さで「課長代理」は昇進している方だと思う。将来だって有望なはずだし、それこそ年齢差なんて気にならないくらいにはなれているはずだ。

 毎日毎日残業して、人より仕事を多くこなして終わらせて、精度も高く上司を喜ばせて。そこまでしているのだから当然の結果といえばそうなのだろうけど、俺はいつだって大人な紗英さんに追いつけるようにとがむしゃらに頑張って来た。


 それなのに。

 どうして紗英さんも広瀬も分からないのだろうか。


(……別れたがりなんだよな、結局。俺の事を好きじゃないのは、紗英さんだ)

 俺の気持ちもあやふやになったのかもしれないけど、紗英さんは最初からどうなのだろう。

 俺の事をきちんと好きな時はあったのだろうか。

(好きだって言われたことなんかあったか……?)

 付き合い始めたのも、紗英さんが「川江くんには負けた」と苦笑して折れたからだった。好きと言われたわけではない。


 ハグもキスもセックスも消極的で、デートだってどこか遠慮がちにしていた。俺が誘わない限りは会う事も無く、同棲に踏み込んだのも関係に後ろ向きな紗英さんを捕まえておくための処置として俺が提案したのだ。

 紗英さんはもしかしたら、嫌々俺と付き合っていたのではないだろうか。

(しつこく年の差の事を言うのも、結局は都合よく別れる理由をこじつけてるだけとか……)

 ありえない事ではない。

 すべてを俺のせいにして、逃げようとしている可能性もある。


(三年がデッドラインか……)

 広瀬の言った事は案外当たっているのかもしれないなと、そんな事を思いながら、無駄に進行の良い仕事を終わらせてオフィスを出た。

 今日に限って残業がない。課長さえ定時上がりで、主任連中も部下たちさえも規則正しくオフィスから居なくなっていた。そんな中で、俺だけが残るわけにもいかない。

 帰るのも気まずいというのに――――神様はどれほど天邪鬼なのだろうか。

(どんな顔して会えばいいんだよ……)

 疲れていたとはいえ思っても無い事を言い過ぎたし、きっと傷つけた。それは認めるし、謝罪すべきだという事も分かっている。

 だけど今はなんとなく一人で居たくて、紗英さんの顔を見るということに心が重たくなっていた。


 同棲とはそこが厄介なところだ。

 嫌でも相手の顔を見ることになる。


 ぽてぽてとどれほどのんびり帰っても、定時あがりなためにいつもより早めの時間にマンションにたどり着いた。そうして一度足を止めて気鬱になりながらも、エントランスホールを抜ける。

 一言目は何にする。ただいま、は必要か。顔を見ずに寝室に入れば何か言われるのだろうか。いや、それ以前に帰った時点で罵られるか。あるいは話があると別れ話を切り出されるか。


 思いつく中に絶対に答えがあるはずだと、そんな事を考えながらも恐る恐る鍵を開ける。


 すると、室内は真っ暗だった。

 どこにも明かりはついていなくて、視線を落として玄関を確認すると、紗英さんがいつも履いていた靴がなくなっている。

 


 あ。出て行った。

 気づいて、肩の力が抜けた。



 ――――焦りはなかった。だって俺は、一人になりたいと思っていた。

 顔を合わせるのも気まずいし、紗英さんに対する気持ちさえもあやふやなのだ。


 部屋を確認すると、紗英さんの服は減っていて、キャリーケースも消えていた。どうやら本格的な家出らしい。ならいったいいつまで――――と書き置きを探したけれど、それはどこにも見当たらない。

(……あー、まじか)

 どこに行ったのかも分からない。だけど安心している自分が居る。

 五年ぶりに、自分の事だけを考えられる時間を得た。それが、かけがえのない時間のように思えたのだ。


「わー、明日とか暇じゃん。やった」

 映画を観る予定だった土曜日。その日のスケジュールが唐突に空白に変わる。

 ひとまずゆっくり風呂にでも浸かって久々に広いベッドを占領して眠るかと、のんびりとした仕草でスーツを脱いだ。

 

 

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 作者様の文体が凄く好みです。 [一言] どことなく主人公の気持ちが分かります。 何だか胸に刺さるもので、他人事ように思えなかったり。
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