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たとえば、きみが居ない日常  作者: 長野智


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第二話


「あ。川江。ちょっといいかな」


 オフィスに戻ると、すぐに気付いた課長が手招きをして俺を呼んだ。あまり珍しい光景でもないそれを、仕事に打ち込む同僚や部下は気にも留めていない。かくいう俺も、課長に呼ばれることなんて茶飯事なために、特に何も考えずに課長のデスクへと向かう。

「はい。何でしょうか」

「うん。川江、前にここの会社の仕事担当した?」

 パソコンの画面を示されたために課長のそれを覗き込めば、確かに以前担当した企業のホームページが開かれていた。というか、この会社に関してはホームページ制作からやたらと俺の仕事を気に入ってくれて、社内システムのほとんどを担当した記憶がある。

「そうですね。今は向こうの担当者が変わったので、自分からは外れましたが」


 それまで俺を気に入ってくれていた長谷部さんという担当者が、栄転して本社に異動になったのだ。

 昇進祝い兼送別会もしたほどには最終的には仲良くなった相手で、最後まで長谷部さんは「ぜひ本社でも仕事を依頼させてくれ」と笑いながら言っていた。本社ともなれば固定の担当者が居るのだろうからそうはいかないと分かっていた長谷部さんの、最後の冗談である。俺もそれを分かっていたから、笑いながら「よろしくお願いしますね」なんて言っていたが……思い出せば懐かしいものだ。

 俺がまだ主任になりたての頃の仕事相手だけど、長谷部さんは今も元気だろうか。


「あー。やっぱりそうだったかー」

「え? 何かあったんですか?」

「いやね。向こうのお偉いさんが、ぜひ川江に仕事を依頼したいと言ってるんだ」

「……はあ。自分に? 直接、名指しで?」

「そう、直接名指しで。以前は支社の方を担当していたよね?」

「そうですね」

 俺が担当していたのは、長谷部さんがそれまで居た支社の方だった。

「……僕は受けてもいいんだけどねえ。問題は、管轄が違うんだよね。支社なら確かにうちなんだけど、本社の方から依頼が来てるから、そうなると担当支部が変わるんだよ」

「企業の面倒くさいところですね」

「そう、話はしてるけど、いかんせん融通が効かない」

 高坂課長はそう言ってうーんと唸ると、ひとまず、と言葉を続ける。

「今度、出張で行ってみてくれる? こちらの諸事情を伝えた上で、それでも話だけでも聞いてほしいと言われてる。名指しだからそうとう気に入ってくれてるんだろうし、相手が大物だから無下にもできなくてね。長谷部さんって方なんだけど」

「あ、長谷部さんですか。前の担当者の方ですよ」

「そうなの? ……ああ、でも、だからか。今は取締役部長になられたそうだから、システムの担当の変更もできる立場になったってことなんだろうね」


 前の担当の時から立場が上の人ではあったが、あれからも着々と上にいっているらしい。

 俺もあれから少しだけ偉くなったから、それを思えばやり手の長谷部さんがぐんぐん上がっているのも当然だろう。


(当時から俺と直接やりとりしてたのだって、上の人なのにこだわりが強いから、って感じだったし)

 あの時「気に入っている」だの「本社でも担当してくれ」だのと言っていたのは、どうやら社交辞令ではなかったようだ。

「とりあえず、来週に時間があれば、と先方には聞かれてる。来週前半ならいいかな?」

「ああ、はい。それで返事をお願いします。あと、前の番号から変わってるので、僕の今の連絡先も返信に入れてもらっても良いですか」

「分かった」

 助かるよと、課長が安堵したように笑った。よほど緊張していたらしい。そういえば長谷部さんは社内では怯えられていると、酒の席で言っていた気がする。俺に対してはにこやかだったためにまったくイメージにないのだが、仕事になれば人が変わるタイプなのかもしれない。

(にしても、仕事の依頼の時もにこやかだった記憶あるけど)

 それほど気に入ってくれていた、ということなのだろうか。あの時は主任になりたてで張り切っていたのもあるのだが、あの頃から変わらないと思ってもらうためにも、俺も気を引き締めていかなければならないだろう。


 出張に出てこの地を少しでも離れれば、紗英さんとのことを考えずに済むかもしれない。そんなことを思いながらデスクに戻り、今の仕事を終わらせるかとパソコンを起動した。



 その日の夕方、会社携帯が鳴った。喫煙所から出て、オフィスに戻ろうとしたところである。

 知らない番号からだったために、昼のやりとりを思い出して長谷部さんだろうと見当をつける。仕事が落ち着いた頃なのだろう。ちょうど良いからコーヒーでも飲むかと、自販機のあるスペースへと足を向けた。

「はい、川江です」

『川江くん? 俺だよ、長谷部です』

「ご無沙汰してます」

 ボタンを押すと、かこん、と紙コップが落ちてきた。そこにコーヒーが注がれるのをぼんやりと見つめて、やはり長谷部さんだったかと、変わらない様子に安堵する。

『本当だね。何年ぶりだろう。元気だった?』

「はい、変わりなく。長谷部さん、取締役部長になられたって聞きました。なんか、遠い存在な気がします」

『あはは、まあ俺だからね』

 ぴー、と音がしたために、紙カップを取り出した。そうしてそのまま、ソファに座る。

『こっちに来て余計にね、川江くんの仕事が丁寧だったんだと気付いたよ。というか、レスポンスが早いよね』

「それはそうですよ。取引先ですから、いち早く対応しないと」

『みんながみんなその気持ちなら有難いんだけどなあ……。ほら、SEって結構気難しい人が多いというか……だからなんていうか、話が通じないことも多くてね』

「あー。まあ、否定はしません」

 広瀬は、俺は絶対にシステム部になんていけない、と頻繁に言っている。それというのも、取りまとめるのも難しい人材が多いからということらしい。

 否定はしない。俺があまり人のことを気にしないために年上の部下の存在もあまり気にはならないが、広瀬からすればそれも理解ができないとのことだ。

『来週、久しぶりに会えるのを楽しみにしてるよ』

「はい。ありがとうございます」

 長谷部さんが「それじゃあまた」と言葉を残して、電話を切った。


 当時から長谷部さんは、良く話を聞いてくれるね、と言っていた。確かに他の部下たちは自身の仕事のやり方に誇りを持っていてあまり譲ろうとしないし、しっかりと話を聞いて仕事に取り入れる俺のスタイルは珍しいものなのかもしれない。しかしそこを気に入ってくれたのであれば、この仕事のやり方をしていて良かったとは思えてくる。

 ただ、仕事を多くこなしたいという下心があっただけだ。それがこんなふうに生きてくるとは思ってもなかったが、過去の自分の仕事ぶりを褒めてやりたい気分だった。


「あれ、大……川江さん」

 聞き慣れた声に振り返れば、いつもと変わらない様子で紗英さんが立っていた。

 見かけたから声をかけた、のだろうけど、その普段と変わりない雰囲気にはつい嫌な気持ちが湧き上がる。

 確かにこの場面で無視をして通り過ぎる方が感じが悪いのだろうし、大人として、何事もなかったように過ごすのが正しいのも分かる。分かるのに、気持ちだけがついていかない。


(……気まずそうに逃げられた方がましだ)

 喧嘩をしていた時のように、顔を背けるだけでもいい。これでは本当に、俺ばかりが紗英さんのことを考えているみたいじゃないか。


「……ああ……何?」

「うん、見かけたから。……聞いたよ、すごいところから依頼もらったって」

「噂って回るの早いんだな……」

 いや、総務だからこそだろうか。

 女性が多いために、噂話が好きなのだろう。ましてや自分はまだ課長代理にしては若い方で、噂の的にされやすい。少しでも餌があれば、すぐに良いネタだと好き勝手に述べられてしまう。

 その証拠に今回の話だって、依頼をもらった、と言っているが、まだ正式に決定したわけでもない。訂正を入れるつもりもないが、噂が一人歩きしているような感覚はあまり気分が良いものでもなかった。

「頑張ってね」

「……ん。……あのさ」

 そそくさと離れようとした紗英さんを、つい引き留めた。

 それで何を言おうというのか。まったく考えていなかったのだが、紗英さんは続く言葉を待つように俺を見ているだけである。


「あー……えっと。風間課長って、お姉さんの旦那さん?」

「え? あ、うん、そう。前に言わなかったっけ」


 なぜ、今になって知ってしまうのか。

 自身の最低さが浮き彫りになり、みょうに居心地が悪くなる。


(……くそ。結局俺が悪いってことかよ)

 それではもしかしたら、風間課長が言っていた「面倒くさいこと」というのも紗英さんは一切悪くなくて、もしかしたら安祐美のことを聞いてきたのだって、喧嘩の時に出て行ったのだって、何かしら理由があったから、ということなのだろうか。


 一つ、自分が悪いところが出てくると、全部を疑ってしまう。

 もしかしたらまた何かを見落としているのではないか。もしかしたらまだ何か疎通できていない部分があるのではないか。


「……荷造りにはいつ来る?」

「えっと……そうだね。次のお休みにお邪魔しようかな」

 お邪魔する。その言い方も、あまり好きな響きではない。

「じゃあ私、行くね」

 何も言わなくなった俺に、会話は終わったと思ったらしい。紗英さんはあっさりと踵を返して、その場を離れていく。


 ――――別れても、どう思っているのかはやっぱり分からない。激情もない。衝動も起きない。俺はいったい紗英さんのどこに惹かれていたのかも、今もまだ思い出せないでいる。


(や、もう別れたんだし、考える必要もないんだけど……)

 たぶん、すっきりしないのが気持ち悪いのだろう。すべてが明らかになっているのなら、こんなにも考えなかったはずなのだ。それも、俺が悪いということが多い可能性もある。


 ふうと一つ息を吐き出すと、ポケットに突っ込んでいた個人用の携帯が通知を知らせる。見れば、安祐美からだった。

(そういえば、こっちの問題もあったか……)

 よりを戻そうと言われた。きっとうまくいくよ、とも。

(あー。もう何も考えたくねえ……)

 恋愛は面倒くさいことだらけだ。考えることが多すぎて、いっそすべてを放棄してやりたくなる。きっと俺には向いていない。広瀬は恋愛を楽しめるタイプだった。そういう感覚でいられる方が、何もかもうまくいくに決まっている。


 それでも紗英さんを追いかけていた時には、恋愛が楽しいと思えていた。紗英さんが俺に優しくするたび、俺に笑いかけるたび、確かに嬉しいと思えていた。そのおかげで仕事も頑張れたし、紗英さんと釣り合えるようにならなければと大真面目に励んでいたものだ。


 それなら、いつから。

 俺はいつから、恋愛を「面倒くさいもの」だと思ってしまったのか。


(……忘れた)

 楽しかった気持ちも、好きだった気持ちも。それらがあまりにも日常に溶け込みすぎて、今も見えないままである。


 

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― 新着の感想 ―
[一言]  日常化することで大事な気持ちを忘れてしまう。よくあることですけど、 気づくのは難しいものですね。  今、非日常であったものが日常となってきて、初めは持てていたはずの 今を支えてくださってい…
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