第一話
俺たちの関係の変化なんて関係なく、日常は繰り返す。
朝起きて、出勤して、仕事をして帰るだけのルーティンだ。
それまではその中に、恋人という存在が溶け込んでいた。
朝起きた時には隣に居る。ご飯を一緒に食べて出勤して、帰れば「お帰りなさい」と出迎えてくれる。何気ない会話をして風呂に入って、そして同じベッドに入って眠る。
最初はその一つ一つが幸福で、噛み締めるたびにドギマギとしていた。
好きな相手が常に隣に居るのだ。仕方がないことだろう。相手が帰ってしまう時間を意識しなくていいその時間が、何よりも楽しく、モチベーションを保つことにも繋がっていたと思う。
おはよう、と言うたびに、おかえり、と言われるたびに、心のどこかが温かく、満たされる感覚があった。
それらから、特別感が失せたのはいつからだったのだろうか。
「紗英さん、俺のこと好き?」
いつだったか、たった一度だけ聞いたそれ。
紗英さんはあの時、何と答えをくれたんだっけ。
「……うるせぇ……」
枕元で騒がしく鳴っていたアラームを止めて、ようやく目を覚ます。
何の夢を見ていたのか。もう覚えてもいないが、あまり良いものではなかったのは確かである。
起き上がってぼんやりとするまま隣を見れば、ダブルベッドのスペースが広く余っている。綺麗に一人分。いつもの癖で、端に避けて眠っていたらしい。
「……馬鹿らしい」
今日はど真ん中を陣取って眠ってやる。
そう思いながらベッドを下りて、出勤の準備をするべく洗面所へと向かった。
「え。じゃあまじで別れたのか」
いつもの喫煙所で偶然広瀬に会ったために、一服がてら近況を話すと、驚いたようにそう言われた。あれほど「別れてやるのも優しさだ」だのと言っていたのに、いざ別れるとこれだ。
他人とはそんなものと分かっていても、なかなかやるせない。
「……まあな」
「え、どっちが家出んの。つかもう出た?」
「紗英さんが出ることになった。まだ引っ越してはないけど」
「へえ……同棲してると別れるのも大変だな。てか、引っ越すまで一緒に暮らすとかも気まずくねえ?」
他意なくそう言われて、何と説明すべきかを一瞬躊躇ってしまった。
だって紗英さんは帰ってきていない。変わらず家をあけたまま、荷造りには戻ってくるねと言葉を残しただけである。
そういえば、結局どこにいるのかを紗英さん自身から聞きそびれた。思ったのは、そんなことだった。
「別に……家に居ないし。浮気相手のところにでも行ってんじゃねえの」
「は? 立花さん浮気したの?」
「風間課長のところに転がり込んでるらしい」
「……はあ?」
白い煙を吐き出しながら、広瀬はやけに小難しい顔をした。
「何。俺、そんな変なこと言ったか」
「いや、だって……風間課長、既婚だろ?」
「…………は?」
既婚。既婚とはつまり、結婚しているということだ。
紗英さんとは結婚しているわけではない、とすると、不倫でもしているということだろうか。
しかし家に迎え入れている時点で奥さんもそこに居るのだろうし、それならば不倫という可能性もかなり低いはずだ。
では、いったいどういう――。
(……風間課長の発言を考えたら、家に居るのは間違いないし……)
課長が既婚という上で紗英さんが家に居る、ということならば、考えられるのは課長の奥さんの方との繋がりだけど――――とそこまで考えて、ふと思い出す。
異動で赴任してきた風間課長と同時期に、紗英さんの周囲で引っ越してきた女性が一人だけ居た。
(……だから俺も、実家かそっちに転がり込んだんだろうと思い込んでたわけで)
姉の引越しの手伝いに行ってくるねと、紗英さんが外出をした休日があった。
疲れて寝ていたために何も聞かず、むしろ「もっと寝れてラッキー」くらいの気持ちだった朝である。その時に何かを言っていた気もするけど、当然半分寝ていた俺が聞いているわけもなく、起きても覚えてはいなかった。
それが、喧嘩をする少し前のことだ。
よくよく思い返せば、課長の赴任時期とその引越し時期は被るのではないだろうか。
「あー、まじか」
「ん? なんだよ」
「いや……俺、最低なことをしたのかもしれない……」
「立花さんに?」
まだ確証はない。しかしその可能性は高い。
元彼、という噂だって結局、姉の結婚相手であれば仲が良くて当たり前なのだろうし、そんな姿を見せていれば何も知らない周囲は噂をたてたがるのだろう。
一緒に出かけていたのだって変なことではない。あの時、俺からは見えなかったが、風間課長はにこやかに誰かのところに向かっているようにも見えた。
もしもその先に紗英さんのお姉さんが居たのならば、違和感もない構図である。
「はー……」
「つかさっきの立花さんの浮気の話だけど、むしろ立花さんの方がすっげえ心配してたイメージだったからなんか意外だったわ。ほら、前に言ったろ、安祐美ちゃんのこと聞かれたって」
「ん、ああ、そういえば」
一度灰皿にタバコを押し付けて、もう一本を取り出した。
火をつければ、すぐに細い煙が上がる。それを見ながら、そういえば広瀬が紗英さんに安祐美のことを聞かれたのはいつ頃だったっけと、そんなことをなんとなく思い出す。
俺が紗英さんに酷い言葉を投げる前。ちょうど、俺が紗英さんと風間課長のことを藤原さんから聞いて、紗英さんから一度連絡が入った後のことだった。
(そういや藤原さんもあん時、ちょっと考えてから答えてたな……)
元彼とかですか、と聞いた時だ。藤原さんは何かを探るように俺を見て、そんな噂を聞いたかも、と肯定も否定もない返事を寄越した。あれも、紗英さんのために別れてやってくれと言っていた藤原さんなりの、紗英さんへの援護射撃だったのかもしれない。
俺が勝手に勘違いをして、勝手に酷い言葉を吐いた。確認もしなかった。聞けばよかったことを、聞くことを避けて思い込んで押し付けた。
聞けばよかった。そうすれば、未来は違っていたかもしれない。
(……いや……俺はどうせ、聞けなかったか……)
今「聞けばよかった」と思えるのも、風間課長が浮気相手ではない可能性が浮上したからだ。
そうでもなければ避けたい話題である。それに、もしも、万が一聞けていたとしても、紗英さんが向き合ってくれたかは分からない。
最後に話した時の態度も、自己完結して諦めたような雰囲気があった。もしあの時に誤解が解けていても、年下で頼りない俺では同じことが繰り返されると思われたからだろう。
きっと聞いていても、紗英さんには呆れられていた。そしてそのまま別れに繋がったかもしれない。
(……そりゃ、そうか)
そもそも。
片方が折れる形で始まった関係が、いつまでも続くわけがない。
「……だから俺のイメージだと、立花さんの方が川江のこと追っかけてた感じあったけどな」
広瀬はそう言うと、煙草をくわえたままで「ん、あれ」と顎を動かして喫煙所の外をさす。見れば、紗英さんが藤原さんと並んで廊下を歩いているところだった。
目が合う。すると紗英さんは控えめに笑って、こちらに軽く手を振った。そこには特に気まずさはなく、俺が喫煙所に居ることもさして気にかけてもいない。手を上げてアクションを返せば、すぐにパッと前を向いて、藤原さんと楽しそうにどこかに向かう。
「ふーん?」
「なんだよ」
「いや、意外と普通な。別れた後って気まずいとかねえの?」
「……俺はちょっと考えたりするけど……紗英さんは違うんじゃねえ? 俺がガキなんかも」
俺ばっかり。もう何度も考えたそれを、繰り返し思わされる。
「……さっきも言ったけどさあ」
広瀬は煙草を押し潰して灰皿に投げると、ふうと一つ息を吐いた。
「立花さん、安祐美ちゃんのことめっちゃ気にしてたぞ。なんだっけな……当時は二人はどんな様子だったかとか。あと、安祐美ちゃんと居る時は川江は楽しそうだったかとか? そん時、なんか必死だったし、知らないっつったらちょっと落ち込んでたしな。だから俺は立花さんは川江のこと追いかけてんだって思ったけど」
「思い過ごしだろ」
「興味ないなら、元カノとのことなんて聞かないだろ。ま、別れたんなら関係ないかもだけどな」
言い残して、広瀬はすぐに喫煙所を出て行った。
しかし確かに、疑問は残る。
広瀬の考えをすべて受け入れるわけではないが、喧嘩をしてから、紗英さんに謎の行動があったのは確かなのだ。
(何であのタイミングで安祐美のことを……?)
いや、それよりも。どうして紗英さんがそこまで安祐美を気にかけるのか。
紗英さんと安祐美はたった一度、しかも偶然会ったきりのはずで、別に関わりがあるわけでもない。俺が、頻繁でないにしても安祐美とまだ連絡をとっているのもきちんと知っているし、それは偶然安祐美と顔を合わせる前からも分かっていたはずのことである。
隠していたわけでもない。だからこそ友人として今も連絡を取り合っているよと普通に話した時にも、紗英さんは嫌な顔をしなかった。あの表情が嘘だったとは、到底思い難い。
(……違うか。それ以前のところから)
紗英さんは大人だ。
俺がうんざりするくらいには、悔しくなるくらいには大人なのだ。
謎、と言うなら、最初からおかしかった。
紗英さんは喧嘩をしたくらいで、出ていくような真似をしない。
『普段と違う行動の裏側にはね、ちょっと面倒くさいことが起きてるかもよ、ってこと』
不意に、風間課長の言葉が過ぎる。
あれはいったい、どこからのことを言っていたのか。
(……あー……だせぇ)
これだけ考えているのも俺だけだと思えば、唐突にすべてが無駄に思えてきた。
だって結局、紗英さんはその「面倒くさいこと」を最後まで語らず、一方的に終わらせたのだ。俺に話してもどうにもならないと、これまでのことを考えて諦めた。
これから先、こんな俺のことを頼れないとも思ったのかもしれない。頑張って仕事に打ち込んでいたのも、周囲から評価されて立場が上がっていったのも、紗英さんにはまったく響いていなかったということである。
だから、見限られた。
俺が頼りない存在である限りは理解が得られないだろうと、紗英さんに今後も同じことが繰り返されると判断されたからだ。
さっきの態度もそうだ。別れたというのに、微塵も気まずさを感じさせなかった。俺は少し身構えたが、紗英さんはいつもどおり。
こんなことを気にしているから、諦められたのだろうか。
そこでようやく、我に返る。
恋愛感情なのかも分からない、とは思っていたし、今もよく分かってはいないのだが、別れた後もわりとそちらに思考を奪われてばかりな気がする。
なぜ。どうして。そう思うのは、納得ができていないからだろうか。
(まあそうか。ろくに説明もされてないし)
むこうは自己完結で終わったのかもしれないが、こちらはモヤモヤが残っている。
最後に安祐美の名前が出たというのも、今となっては気になる要因になっているのだろう。
ようやく気まずい関係が無くなったというのに、まったく気分が晴れない。
それがどうしてか分からないまま、ひとまず仕事に戻るかと煙草を灰皿へと押し付けた。




