第一話
朝起きて隣を見ると、同棲中である恋人が眠っていた。お互いパジャマを着て、向い合って抱き合う事も無く、彼女は俺に背を向けている。
暗い部屋だ。眠っている彼女の横顔も薄暗く、しかし差し込む朝日がカーテンで柔らかな光に変わり、彼女の表情に陰影を生んでいた。
静かな朝。いつもと変わらない一日の始まりである。
ひとまず両腕を伸ばして大きなあくびをすると、すぐに脱力してぱたりと両手を投げ出した。
今日は花の金曜日、とはいえ、仕事の日に違いはない。だるいなと感じながらもベッドをおりて、早々に洗面所へと向かった。
のんびりと、洗顔、歯磨き、髭剃り、を終えたところで、キッチンから物音が聞こえてくる。
どうやら彼女が起きたらしい。昨晩は遅くに帰ってきたのか、俺が寝る頃になっても家には帰って来なかった。
飲み会、と言っていたか。いや、もしかしたら女子会だったかもしれない。定かではないが、〇〇会、的な用事があったのは聞いていた。
「おはよう、紗英さん」
「おはよー」
キッチンにやってきた俺に見向きもしないまま、彼女は朝食の準備を進める。
無駄が無く手際の良い慣れた仕草を尻目に、スーツに着替えるべく寝室へと戻った。
「紗英さん、昨日遅かったんだ」
「まあね、日付跨いだよ」
「ふーん。なんだっけ、飲み会?」
「うーん、まあそう。送別会だけど」
送別会、と言われてようやく思い出した。
上司に突然辞令が出されて、飲み会なんて嫌いだけどさすがに上司の異動だったために行く事にした、と。確かに彼女はそう俺に説明した。
話半分に聞いていたからか、言われるまで思い出さなかったけれど。
「楽しかった?」
いつものトーンでキッチンの彼女に呼びかければ、少し先から「楽しかったよ」なんておうむ返しで返ってくる。
寝室とキッチンは近い。そのため、言葉ははっきりと届くし、こちらにも聞こえてくる。
「あ。紗英さん、明日一緒にどっかに行くって話だったっけ?」
ようやくスーツに着替えてキッチンへと向かうと、彼女は「んー?」と考えるような顔をしながらも、朝のコーヒーを淹れてくれた。
「ああ、そうそう。観たい映画あったんだった」
「えー、紗英さんの観たい映画って恋愛かアニメ映画じゃん」
「だから何よ」
「俺はアクションかSFがいい」
「いや」
「いっつも俺が譲歩してんだから今回くらい譲ってよ」
「今は面白そうなアクションやってないじゃん。……そんなにアクションがいいなら、一人で行ってきたら?」
つれない事を言いながらも、テーブルに朝食を並べていく。
表情は怒っているわけではない。彼女はただ今日の天気でも語る時のように、なんてことのない顔で拒否を示しただけだった。
――――彼女、立花紗英と付き合い始めたのは、今から五年も前の事だ。同棲を始めたのは付き合い始めてから一年と半年が経った頃。俺が二十七歳で、彼女が三十二歳になった時だった。
三年間も一緒に過ごすと、良いところも悪いところも見えてくる。だからこそ、感情の起伏や怒りの沸点もよく理解しているし、さっきの「一人で行ってきたら?」という言葉が不機嫌からきているわけではないということも分かる。
分かるのだけど、俺がいつも譲歩して紗英さんにばかり合わせるのは違うのではないか。
(……いや、別にこだわりがあるとか、観たい映画があるとか、そういうんじゃないけど……)
俺だってたまには優先されたいとか。俺だってたまには優しくされたいとか。
特に今週は仕事が忙しくて、毎晩毎晩残業で日付をまたいで帰ってくる生活を送っていた。明日はようやくの休みだし、本当はまったりと一人の時間を楽しみたいとか思っているのだ。
それを我慢して、紗英さんに付き合うというのに。
一人で行ってきたら、なんて、不機嫌でないにしろ、そんな言い方はないのではないか。
「はあ……じゃあ紗英さんが一人で行ってくれば? 俺だってやりたい事あるし」
言ってから、しまった、と思った。
そんな言い方はない。つい今しがた、彼女に対して思った事だったはずなのだ。
謝るべきか。どう切り出せばいいか。考えている間に、慣れた様子の彼女があっけらかんと口を開く。
「……なに? 寝起き悪いね」
彼女は大人だ。俺の感情の起伏なんてものには今更動じない。だからこそ変わらない様子で朝食を並べ終えると、そのまま洗面所へと向かった。
さらりと流してくれたのだから、この話題はもう追いかけるべきではない。
分かっているのに、その余裕な態度に何故か腹が立つ。
「……寝起き悪いってなんだよ。規則正しく定時に上がれる紗英さんには分かんないんだろうけどさあ、俺だって疲れてんの。こんな年から課長代理なんか任せられて、毎日帰れてないの知ってるだろ」
刺々しい声は洗面所まで届いたはずだ。
一瞬の後、思った通り彼女はむっとした顔でキッチンへと戻って来た。
「私だって暇なわけじゃないし、疲れてないわけじゃない。家事だってやってるんだけど」
「知ってる、ただ重さが違うって話だろ」
「仕事してる人が偉いの? なら私だって仕事してるよ」
「そうじゃないって……あー、ダメだ。今は何もうまく言えない」
「イライラしてるからね」
「させてんのは紗英さんだから」
――――違う。違う違う。こんな事が言いたいんじゃない。
そう思うのに、言葉はなんのためらいもなく、口を滑って全て出ていく。
「……今日はもう行くわ。喧嘩になる」
「なら最初から言っといてよ。作ったのに」
「言えるわけないだろ、言い合いになることなんて分からないんだからさ」
「分かってるけど……ほんと、大輔くんてああ言えばこう言うね。前の飲み会で帰ってこなかった時だって、結局丸め込まれた感じだったし」
「紗英さんこそ、都合が悪くなったら過去の話持ちだすのやめたら。あの時の事は丸め込んだんじゃなくて、飲みすぎて潰れたから近かった課長の家に泊まったって言っただけだろ」
「本当は分からないでしょ」
「はあ? 俺が嘘ついたってずっと思ってたのかよ」
いよいよ駄目だと立ち上がって、すぐにカバンを引っ掴んだ。しかし彼女は負けん気が強く、逃がさないとでも言うようにさらにまくしたてる。
「思うに決まってるでしょ! 仕事遅いのも本当は誰かと会ってるからなんじゃないかとか、飲み会では誰かに言い寄られてそのままお持ち帰りしてるんじゃないかとか……! 私は何回も言ってるけど、大輔くんみたいな若い子を相手に出来る年齢でもないんだって!」
「ちょっと待って、俺が真面目に仕事してんのを浮気だって思ってたわけ? んでさあ、若い子ってなんだよ、そんなもん前からずっとそうだろ」
「そうだけど、私だって悠長に遊んでる時間もないの!」
「俺は遊びだって言ったわけ?」
「それは言葉の綾だし……もう私三十五なんだよ。大輔くんには分からないかもしれないけど、私はもう将来考える年なの」
「俺はまだ結婚とかするつもりないよ。そんな焦ることないだろ」
「大輔くんは何も分かってない!」
「分かってないって何が、」
「何もかも、女の事情とかそういうの全然分かってない! 無神経だよね!」
「ああそうかよ! じゃあ早く別れりゃいいだろ!」
その言葉を最後に、場は静まり返った。
何を言われたのかが分からない、という表情で突っ立っている彼女の隣を、勢いのまま通り過ぎて玄関へと向かう。
自分が悪いとは思わない。だって疑われる意味が分からないのだ。
結婚なんて焦っても仕方がないし、俺は今そんな事を考える余裕もない程には忙しい。別に紙切れ一枚に縛られる関係にならなくても、今のままでも良いのではないか、とさえ思っている。
(あー、めんどくせえ)
外は、鬱陶しい程の晴天だった。
朝っぱらから無駄に言い合って無駄な体力を使ったなと、空を見上げてぼんやりと思う。
そういえば最近、喧嘩が多いかもしれない。生活もおおよそすれ違っているし、前ほどイチャイチャするわけでもない。セックスもない。どころか、キスやハグもない。労いもなければ、感謝も減った。楽しいと思う事も、嬉しいと思う事も、何かをしてやりたいという気持ちさえ薄らいで、まるで熟年夫婦のような落ち着いた空気に変わってしまって、いくらが経つのだろう。
――――あれ。
俺、なんで紗英さんと一緒に居るんだろう。
不意にそんな事を思った。
なんで俺は、あの人を選んだんだろう。
最初は何も思わなかった。親切な人、話を聞いてくれる人、隣に居て、すごく落ち着く人。ただ、それだけの認識だったはずだ。
だけど、そんな人は紗英さんでなくても多く居る。いや、居た。それでも何故か、接していくうちに可愛いところや弱いところが見えてきて、付き合いたいなあと、ゆっくりと心が傾いた。
紗英さんは当時二十九歳だった。年下の俺がはたして相手にされるのかと不安になりながらも気持ちを告げると、年上の女性に憧れる時期なだけだよとすげなく断られたものだ。
何度迫っても変わらなくて、それでも負けずに押して押せば、とうとう何度目かに頷いてもらえたのだ。
あの頃からずっと言われていた事だった。
大輔くんみたいな若い子の相手は無理だよ、遊び相手になれる年でもないの、と。
(……はー……別れる、かあ……)
もう紗英さんが居る生活が普通すぎて、別れ、がどんなものなのかが分からない。それでももういいんじゃないかと思っているのも確かで、なのになんとなく変化が怖くて強く踏み出せないのだ。
――――付き合って五年。同棲して、三年と半年。彼女との暮らしが「生活」であり「人生」になるには、充分な時間を共有した。
(めんどくせえー……もう後で考えよう)
どれだけ悩んでも答えなんか見つかりそうになかったために、紗英さんの事はひとまず考えないようにと頭の隅に追いやった。




