「きっかけは、ノート一冊」
その週の真ん中あたりから、クラスの空気が少しずつ変わり始めた。
俺が何か特別なことをしたわけじゃない。
ただ授業を受けて、たまに三浦とバカ話して、黒瀬にツッコまれて、佐伯にノートを見せて——それだけだ。
それだけなのに、前よりも俺の席の周辺に“人の気配”がある。
「冬木ー、この問題どうやんの?」
「ここってさ、こういう解き方でもいいの?」
「体育のとき教えてくれた走り方、今度また教えてくれね?」
信じられないことに、“怖いから避ける”って空気じゃなくなっている。
(……慣れねぇな)
悪い気はしない。むしろ悪くない。
ただ、中学の頃とのギャップがありすぎて、感覚が追いついてないだけだ。
◇◇◇
そんな中、きっかけになったのは、放課後の何気ない一言だった。
「テスト範囲、そろそろ出るらしい」
帰りのホームルームで、担任がそう言った。
「一年最初の小テストだからって油断してると痛い目見るぞー。
お前らの成績はもう今学期からの積み上げだからなー」
クラスがざわつく。
「え、小テストって言ってたよね?」「ガチテストじゃん」「でも範囲広すぎない?」
教室のあちこちから不満と不安の声が上がった。
チャイムが鳴り、先生が出ていく。
途端に三浦がこっちを振り向いた。
「冬木……」
「いやだ」
「まだ何も言ってない!!」
黒瀬が笑いながら補足する。
「多分、“勉強教えてくれ”って言いたいんだと思う」
「知ってる」
三浦は机に突っ伏しながら叫ぶ。
「だってよぉー! 中学ん時マジで赤点ギリギリだったんだって!!
高校最初のテストくらい、ちゃんと点取りてぇの!!」
それを聞いていた周りの男子も、ちらちらとこっちを見る。
女子も、何人かは不安そうにプリントを見つめている。
「……まあ、やるか」
気づいたら口から出ていた。
「マジで!?」
「お、決断早いな」黒瀬が感心したように言う。
俺は教壇の方をちらと見てから言った。
「放課後、教室使わせてもらえるかどうかは先生に確認しねぇとだけど……
教えるだけ教える。来たい奴だけ来ればいい」
言った瞬間——周囲の空気が変わった。
「行く!!」「私も行きたい!」「数学苦手だから助かる……」
気づけば結構な人数が「行きたい」と口にしていた。
(……やべ、思ったより大事になった)
心の中で頭を抱える。
ただ三浦と黒瀬に教えるくらいのつもりだったのに。
でも、ここで引っ込めるのも違う気がした。
(どうせ勉強するなら、一人でやっても何人に教えても変わらねぇしな)
そのとき、前の方から静かな声がした。
「じゃあ——私も、手伝います」
神宮寺だった。
教卓の近くで鞄を閉めていた彼女が、こっちを向いている。
「生徒会の資料整理が早く終わった日は、こっちに顔を出します。
数学と英語なら、ある程度カバーできますから」
その言葉に、一瞬教室がしんとなった。
三浦が小声でささやく。
「やべぇ……“冬木&神宮寺の勉強会”とか、なんか名前つきそう……」
「つけるな」
とはいえ、実際に頼もしいことには違いない。
俺は軽く頷いた。
「助かる」
「いえ。こっちも助かりますから」
何が、とは聞かない。
聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
◇◇◇
その日の放課後。
最初の「ゆる勉強会」が開かれた。
教室の後ろ側の席を中心に、机を四つくっつける。その周りにぱらぱらと人が集まった。
「思ったより多いな……」
ざっと見て、十人くらい。
三浦、黒瀬、佐伯を含む、男女まぜこぜの小さな輪。
「多いってレベルか?」
「俺からしたら十分多い」
最初から大人数に向かって話すのは慣れてない。
神宮寺のあの堂々とした態度を思い出して、内心でため息をつく。
(あいつ、やっぱりすげぇな)
その“すげぇやつ”が、今は俺の隣に座っている。
教卓の方ではなく、あえて同じ列。
リーダーとして前に立つんじゃなく、横に並ぶ位置。
その選び方が、妙に彼女らしい。
「じゃあ、まずは数学からでいいですか?」
神宮寺の声が静かに教室に響く。
「範囲は一次関数ですよね。
冬木くん、ノート見せてもらえますか?」
「……別にいいけどよ」
差し出したノートを、神宮寺が丁寧にめくる。
途中で手が止まった。
「すごく分かりやすいですね」
「え?」
「まとめ方、きれいです。説明の順も、板書より整理されてる」
その一言で、近くの連中が一斉に身を乗り出してきた。
「見たい!」「私も!」
ノートがその場で取り合いになりそうになったので、慌てて机に置いた。
「順番に見ろ。破いたら殺す」
「物騒な冗談やめて!?」
三浦が半泣きでノートを抱える。
それを見て、神宮寺が少しだけ笑った。
「じゃあ、このノートをベースに説明していきましょうか。
私が口頭で補足しますから、分からないところがあったら、その場で止めてください」
役割分担は自然に決まった。
俺が板書と解説担当。
神宮寺が要約と補足、質問へのフォロー担当。
黒瀬はそのまとめ役として、別のノートに“要点だけ”を書き出していく。
三浦は——ひたすら「分からん!」と声を上げて場を回していた。
「ここ! ここの式の変形なんなん!? 魔法?」
「魔法じゃない。移項だ。プラスとマイナスの位置ちゃんと見ろ」
「うあああああぁぁぁぁ……脳が文系……」
佐伯が笑いながら言う。
「でも、さっきより分かるようになってきたかも。
先生の説明より、冬木くんの説明の方が……」
言いながら顔が赤くなった。
黒瀬が補足する。
「教師は全体向けの“正解”を言うけど、冬木は“今ここにいるメンバー”の顔見て話してるからな」
そんなこと、言われるまで自覚してなかった。
(……そうか、俺は)
分からない顔を見つけると、その人が分かるように言い換える。
妹たちに勉強教えるときと同じように。
それが、自然と身についていた。
神宮寺が少しだけ目を細める。
「やっぱり、そういうところ、すごいですね」
「お前、褒めすぎだろ」
「事実ですから」
やめろ。妙に意識するだろ。
◇◇◇
一時間くらい経った頃、ひとまずキリがついた。
「——よし。とりあえず今日のところはここまでだな」
教室の空気がふっと緩む。
「わかった気がする」「家でもっかい復習すればなんとか……」「ノートコピーさせて……」
三浦が机に突っ伏しながら叫ぶ。
「脳が……焼ける……!」
「それは働いてない脳には刺激が強すぎたんだな」
「黒瀬ぇぇぇぇ!!」
笑い声があちこちで上がる。
俺が立っていた前の方へ、ポン、と小さな拍手が聞こえた。
佐伯が手を叩いていた。
「ありがと、冬木くん。分かりやすかった」
それに釣られて、何人かが拍手し始める。
「助かった」「ありがと」「またやってほしい!」
こういうとき、なんと返すのが正解か分からない。
ただ、自然に口から出たのは——
「……俺も、助かったしな」
だった。
黒瀬が首をかしげる。
「助かった?」
「一人で勉強するより、こうやって教えながらやった方が頭に残るんだよ。
妹の宿題見てるときもそうだったからな」
言いながら、少しだけ照れた。
そのとき——教室の後ろから、静かな声が聞こえた。
「それに——」
神宮寺。
「こうやって一緒に勉強するの、悪くないですよね?」
彼女の一言で、空気がまた変わる。
悪くない、どころじゃない。
きっと参加している奴のほとんどが、心のどこかで「楽しかった」を感じていた。
◇◇◇
解散して、各自が帰り支度を始めた頃。
俺と神宮寺は、机を元に戻しながら残っていた。
「お疲れさまです」
「お前こそ。……生徒会の仕事は大丈夫だったのか?」
「今日は早く終わりましたから。
それに、こういうのも“学校生活を良くする活動”の一つだと思ってます」
「……真面目だな」
「真面目なのは、お互いさまですよ」
そこまで言って、神宮寺は少しだけ言いにくそうに口を結んだ。
「それと……ひとつだけ、聞いていいですか?」
「なんだよ」
「今日のこと——妹さんたちに、話しますか?」
思わず瞬きをする。
どうしてそこで妹の話題が出るのか、最初は分からなかった。
でも、すぐにピンときた。
(……ああ)
きっと、あいつらはこう言うだろう。
『お兄ちゃん友達増えてきてるじゃん!』って。
『よかったね!』って、全力で喜ぶ。
「……話すと思う」
「やっぱり」
神宮寺は少しだけ笑った。
「妹さんたちの話をするときの冬木くん、顔が優しくなるから」
心臓の鼓動が、ほんの少しだけ速くなる。
「……そうか」
「はい」
それきり彼女はそれ以上何も言わなかったけれど、その一言が妙に胸に残った。
◇◇◇
帰り道。
今日は一緒に帰る約束をしていたわけじゃないのに、気づけばまた並んで歩いていた。
前みたいに周囲の視線はある。
“生徒会長の妹と銀髪の死神”という組み合わせは、どうやっても目立つ。
だけど——前より、気にならなくなっていた。
(……今ここで一緒に笑ってるこいつらの方が、目の前にいるからかね)
クラスの声も、三浦たちの笑い声も、勉強会のざわめきも思い出す。
世界は狭くて、意外と広い。
そんな当たり前のことに、ようやく気づき始めていた。
「そういえば——」
横を歩く神宮寺が口を開いた。
「今度の土曜日、午前中だけ学校の図書室、解放されてるそうです。
テスト前なので、自習に使っていいって」
「へぇ」
「もしよければ、そこでまた一緒に勉強しませんか?
……クラスの何人かも誘って」
“二人きりで”じゃないところが、彼女らしい。
急ぎすぎない距離感。
でもそれでも、十分だった。
「いいぞ。どうせ家でも勉強はするしな」
「じゃあ、みんなに声かけておきますね」
彼女の「みんな」の中に、自分の名前が含まれていることが——妙に嬉しかった。
◇◇◇
夜。
家に帰ると、いつも通り妹たちが迎えてくれた。
「おかえりー!」
「今日は何かあった顔してる」
「お前の“何かあった顔”の判定基準が知りてぇよ」
エプロンを着けながら笑うと、マリアがテーブルにノートを持ってきた。
「ねえお兄ちゃん、ここ教えて〜」
「おっ、一次関数か。タイムリーだな」
板書と同じように、ゆっくり説明していく。
今日クラスでやったのと同じように。
「……なんか、教え方うまくなってない?」
イリアがじっと俺を見る。
「勉強会でも開いてる顔だ」
「お前、なんでも“顔”で判断するな」
でも、その指摘は当たっていた。
今日教室で感じたこと。
誰かと一緒に何かをすることで、自分も少し変わっていく感覚。
それを、妹たちの前で少しだけ思い出す。
「なぁお兄ちゃん」
「ん」
「高校、楽しい?」
マリアの問いかけは、真正面からだった。
少しだけ間をおいて——
「……ああ。楽しいかもしれん」
ようやく、そう言えた。
マリアが嬉しそうに笑い、イリアが小さく頷く。
「そっか。じゃあ、よかった」
鍋の湯気が上がる。
いつもの家の匂い。
その中に、少しだけ新しい色が混ざっている気がした。
まだ、恋じゃない。
まだ、友達と言い切るには浅すぎる関係も多い。
でも——確かに少しずつ、何かが育ち始めていた。
俺自身も、俺の周りの世界も。
そのことに気づけただけで、今日は十分だった。




