「帰り道、夕焼けの横顔」
翌日。
朝から、なんとなく落ち着かなかった。
制服はいつも通り着ている。ネクタイもちゃんと締めた。髪も寝ぐせなし。
鏡に映る自分は、いつもと変わらないはずなのに——胸の中だけが違う。
(……一緒に帰る、か)
神宮寺からのメッセージは、簡潔で、変に飾っていなくて、それが逆にずるかった。
あの短い文のせいで、昨日の夜は久しぶりに寝つきが悪かった。
マリアとイリアにからかわれたのも、まあデカい。
『やっぱり女の人だ!』『絶対きれいな人だよ〜。楽しみだね〜?』
何が“楽しみだね〜”だ。誰のことだと思ってんだ。
……いや、楽しみじゃないと言ったら嘘になるけど。
◇◇◇
一日は案外普通に過ぎていった。
英語、数学、国語。どの授業もそこそこ真面目に受けているつもりだったのに、気を抜くとペンが止まる。
「冬木ー、ノート見せてくれない?」
前の席の佐伯が身を乗り出してくる。
隣の黒瀬がそれを横目で見ながら、ノートを閉じそうな俺の手を止めた。
「冬木、今の聞いてなかったろ」
「聞いてた」
「じゃあ今の英語のポイント、教師なんて言ってた?」
……言われてみれば、覚えてない。
「……あとで復習すればいい」
「ほら、聞いてない」
「ね、なんか今日はぼーっとしてるよね?」
佐伯までそんなことを言う。
「別に、普通だ」
そう言ったが、黒瀬はじっと俺を見た。
メガネの奥の目は、妙に観察眼が鋭い。
「なるほどね」
「何がだ」
「いや。高校生活、順調でなにより」
言い方が含みありすぎる。
そのやり取りを聞いていた三浦が、前の席から振り返ってくる。
「おいおいおい、まさか早くも“恋の予感”ってやつか〜?」
「お前、声がでけぇ」
教室のざわざわが一瞬だけこちらに集中しかけて、俺は眉をひそめた。
幸い、教師がプリントを配り始めたおかげで話題は流れていく。
……危ない。
(まだ何も始まってねぇだろ)
ただ「一緒に帰りませんか」と言われただけ。
それ以上でもそれ以下でもない。
なのに、心臓が授業中も静かにしてくれない。
◇◇◇
放課後。
「じゃあまた明日なー!」
「ノートほんとありがと! 助かった!」
クラスメイトたちが一人、また一人と教室を出ていく。
日直だの部活だのと用事があるらしく、教室は思ったより早く空になった。
机に教科書をしまいながら、ちらりと前の方を見る。
神宮寺はまだ席に座っていた。
数枚のプリントをきれいに揃え、ペンケースを閉じ、鞄にしまう。その動作一つ一つが、無駄がなくて整っている。
(……声、かけるか? いや、約束してるんだから、向こうから来る?)
無駄に考えすぎて、鞄のチャックを閉めるタイミングを失ったとき——
「冬木くん」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、神宮寺が立ち上がり、こちらに歩いてきていた。
相変わらず背筋が伸びている。
教室のざわめきがほとんどない分、彼女の足音だけがやけに耳に届いた。
「……なんだ」
「一緒に帰りませんか」
昨日の文面と同じ言葉。
直接聞くと、少しだけ違う温度をまとって聞こえる。
「約束、してただろ」
「ええ。でも、ちゃんと改めて言いたくて」
そう言って少しだけ笑った。
その笑顔は、壇上で見せる“代表挨拶の顔”とは違う、年相応のものだった。
◇◇◇
校舎を出ると、外はちょうど夕焼けに染まりかけていた。
空はオレンジと淡い紫が混ざり合い、校舎の影が長く伸びている。
グラウンドでは運動部がまだ練習していて、掛け声と笛の音が遠くから聞こえてきた。
並んで歩き出す。
……と言っても、「並ぶ」の距離が難しい。
あまりに近いと意識しすぎて不自然だし、離れすぎると“たまたま同じ方向に歩いている他人”みたいになる。
結局、俺と神宮寺の間には、半歩分くらい、曖昧な距離が空いた。
静かな歩調。
俺はもともとあまり喋る方じゃないから、この沈黙はそこまで苦にならない……はずなんだが。
(神宮寺、大丈夫か? 退屈じゃないか?)
ちらりと横を見る。
神宮寺は、少しだけ空を見上げるように歩いていた。
制服のリボンが、夕日の光を受けてわずかに揺れる。
「……静かですね」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「うるさいよりはいいだろ」
「そうですね。私は、嫌いじゃないです。この静けさ」
その言い方に、ふわりと安心感が混ざっていた。
と、その時だった。
「ねぇ見てあれ」「え、生徒会長の妹じゃない?」
「隣……銀髪……」「あいつじゃね、“銀髪の死神”」
すれ違った二年生らしき女子たちのひそひそ声が聞こえた。
前から歩いてくる男子のグループも、露骨にこちらを見てくる。
「マジかよ……神宮寺があいつと並んでんの」「付き合ってるとか?」
「いやいやねーわ」「でもあの組み合わせ、なんか漫画みたいじゃね?」
聞こえないふりをするのは、さすがに限界がある。
耳が勝手に拾ってしまう。
(……あー、やっぱこうなるよな)
俺一人でも視線を集めるのに、相手が神宮寺なら尚更だろう。
“こっち側の人間”と“あっち側の人間”が並んで歩いてるように見えるんだろうな。
思わず、半歩だけ神宮寺から距離を取ろうとした、そのとき。
すっと、袖口がつかまれた。
「……っ」
神宮寺の細い指が、俺の制服の袖を遠慮がちに掴んでいた。
「離れないでください」
小さな声で、でもはっきりと。
「……目立つだろ」
「もう十分目立ってます」
確かに反論できなかった。
「それに、私、群衆の中で置いていかれるの、あまり好きじゃないので」
信号待ちで立ち止まったとき、彼女はぽつりと言葉を足した。
「さっきも、二年生に呼び止められそうになりました。『一緒に帰ろう』って。
でも、今日は冬木くんと帰るって決めたので」
「……断ったのか」
「はい」
それきり、彼女は袖からそっと指を離した。
けれど、さっきよりほんの少しだけ、俺の近くに立っていた。
信号が青に変わり、歩き出す。
周囲の視線は変わらず多い。
好き勝手な推測と噂が、そのうちクラスにまで届くだろうことも想像できる。
だけど。
袖に残る感触を思い出した瞬間——視線の刺さる痛みが、少しだけ鈍くなった。
◇◇◇
「……さっきの、気になる?」
歩きながら神宮寺が聞いてきた。
「さっき?」
「『付き合ってるのかな』とか『死神だ』とか、そういうの」
聞こえていたらしい。
思ったより、耳がいい。
「別に。今に始まったことじゃねぇよ」
本心だ。
熊の件よりもずっと前から、俺はずっとこうだった。
「……そう、ですね」
神宮寺は少しだけ目を伏せた。
「“銀髪の死神”という噂、最初に聞いたときはひどいなと思いました。
会ったことも話したこともないのに、髪の色と目つきだけで」
「世の中そんなもんだろ。見た目で九割決める奴もいるし」
自分で言っておきながら、心のどこかで冷めた笑いが浮かぶ。
そのとき、不意に神宮寺が立ち止まった。
俺も足を止め、振り返る。
「私は——」
夕焼けの光の中で、彼女ははっきりと俺を見た。
「“銀髪の死神”じゃなくて、“銀髪の、お兄ちゃんみたいな人”に見えます」
「……は?」
予想外の言葉に、思わず間抜けな声が出た。
「だって、自己紹介でも妹さんたちの話をしてましたよね。
料理も、勉強も、自分のためというより、誰かのために使ってる感じがしたから」
神宮寺の声は、どこまでも静かだった。
「熊の動画を見たときも思いました。
あれ、あの場にいたのが家族じゃなくても、あなたはきっと同じように走ったんだろうなって」
「……別に、あんたに褒められるためにやったわけじゃねぇけどな」
「知ってます。だからいいんです」
人の言葉って、こんなに真っすぐ響いたっけ。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
照れくさい。だけど、嫌じゃない。
「……お前はどうなんだよ」
つい、聞き返してしまった。
「私?」
「お前こそ、“生徒会長の妹”って枠で見られてんだろ」
あの自己紹介のときの、小さなため息を思い出す。
神宮寺は一瞬、口を閉じてから、ふっと息を吐いた。
「そうですね。昔から、『神宮寺だから』『会長の妹だから』って言われることが多かったです」
「めんどくさそうだな」
「めんどくさいですよ。
でも、だからこそ——噂じゃなくて、“ちゃんと見てくれる人”が、すごく貴重なんです」
その「貴重」の中に、俺が少しでも入ってるなら。
……そう考えた瞬間、自分で自分にツッコミを入れた。
(いやいや、何期待してんだ俺)
まだ知り合って数日だろうが。
「少なくとも、冬木くんは、“噂だけで人を判断する人”じゃないと思いました」
「……なんでそう思う」
「私の挨拶、ちゃんと聞いてくれていたから」
それだけで十分だと言わんばかりに、神宮寺は微笑んだ。
周りから飛んでくる「何あの二人」「お似合いじゃね?」みたいな声が、遠くに聞こえる。
本人たちは、そんなことを気にしてる余裕もないくらい、目の前の会話だけに集中していた。
◇◇◇
校門から駅までの道は、思ったより短かった。
駅前のロータリーには人が多く、さっきよりもさらに視線が増えた気がする。
それでも、さっきほどの居心地の悪さはない。
「ここで電車?」
駅の入り口で足を止めると、神宮寺が頷いた。
「はい。冬木くんは?」
「俺は逆方向だ。ここから先は別々だな」
「そうですか」
少し残念そうな声に聞こえた。
……気のせいかもしれないけど。
「一緒に帰ってくれて、ありがとう」
神宮寺は、ほんの少しだけ頭を下げた。
「こっちこそ。……多分、面倒な噂増えるぞ」
「もう少し増えても大丈夫です。どうせ、今までも似たようなものですから」
強いな、この人は。
そう思っていると、神宮寺がふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ。ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「妹さんたち——マリアちゃんとイリアちゃん、ですよね。
二人とも、お兄ちゃんが大好きなんですね」
「……なんで名前知ってんだよ」
「自己紹介で“妹たち”って言ってましたし、昨日のメッセージの文面にも出てましたから」
……そういえば、送ってたな。
完全に失念していた。
「機会があれば、いつか会ってみたいです」
さらっと、とんでもないことを言い出した。
「は?」
「ダメですか?」
困ったように首を傾げる。
「いきなりすぎだろ。……まあ、そのうち、な」
そのうち——。
今じゃない。でも、いつか。
そう答えると、神宮寺は満足そうに表情をゆるめた。
「その“そのうち”を、楽しみにしておきますね」
改札の方へ向かう前、彼女は一度だけ振り返った。
夕焼けに照らされた横顔は、どこか大人びて見えた。
「じゃあ、また明日」
「おう。また明日」
ありふれたやり取りなのに、胸の奥で何かが静かに鳴った。
電車に乗り込む彼女の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、俺はその場から動けなかった。
◇◇◇
家に着くと、玄関のドアを開ける前に、深呼吸をひとつする。
ドアノブに手をかける。
「ただいま」
靴を脱ぎながら言うと、すぐに二人分の足音が駆け寄ってきた。
「おかえりー!」
「お兄ちゃんおかえり」
マリアとイリアが、出迎えに飛び出してくる。
いつも通りの光景。だけど今日は、いつもより少しだけ胸に響いた。
「どうだった?」
「一緒に帰れた?」
「相手、どんな人だった?」
矢のように質問が飛んでくる。
「……普通のやつだよ」
「普通のやつと“一緒に帰る約束”なんてしないと思うんだけど」
イリアのツッコミが正論すぎて何も言い返せない。
代わりに、俺はぽつりとだけ言葉を落とした。
「……怖がらないやつだった」
それだけで、妹たちはすべてを察したように顔をほころばせた。
「そっか。よかったね、お兄ちゃん」
「うん。ちょっと安心した」
「何でお前らが安心してんだよ」
そう言いながらも、心のどこかで——俺も同じ気持ちなのを自覚していた。
銀髪の死神でもなく、噂の怪物でもなく、ただの「冬木悠斗」として隣を歩いてくれた人。
その存在が、今日の夕焼けと一緒に、静かに胸に焼き付いていた。
まだ恋じゃない。
でも、恋に変わるまでの“前段階”に、俺はもう足を踏み入れてしまっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はいつものようにエプロンを手に取った。
「で、今日の晩飯どうする?」
「オムライス!」「私はグラタン!」
「どっちかにしろ」
賑やかな声と、キッチンに響く鍋の音。
家の中はいつも通りなのに——
俺の世界には、確かにひとり、新しい色が増えていた。




