「日常に戻っても」
月曜日の朝。
体育祭が終わった翌日の学校は、どこか空気が軽かった。
疲労は残っている。
足は少し重いし、声も枯れ気味だ。
それでも——校門をくぐると、自然と背筋が伸びる。
(……戻ってきた、けど)
何かが、確実に違う。
◇◇◇
「おはよー、優勝責任者!」
教室に入った瞬間、三浦の声が飛んできた。
「その呼び方やめろ」
「いやもう定着だろ!」
周囲から小さな笑い声が上がる。
それはからかいでも嘲笑でもない、単なる軽口だ。
黒瀬が眼鏡を押し上げながら言う。
「筋肉痛、来てる?」
「まあな」
「じゃあ、ちゃんと人間だな」
「どういう意味だ」
そのやり取りを聞いて、さらに笑いが広がる。
(……ああ)
前は、俺の席の周りで笑いが起きることなんてなかった。
少なくとも、俺がその輪の中にいることはなかった。
◇◇◇
前の席の影森が、振り返る。
「……おはよう、冬木くん」
声は小さい。
でも、逃げていない。
「おはよう」
それだけで、影森は少しだけ嬉しそうに頷いた。
その様子を、隣の神宮寺が横目で見ている。
昨日より、ほんの少しだけ柔らかい表情。
(……気にしなくなった、わけじゃねぇな)
でも、張り詰めてもいない。
“距離を保ちながら、ちゃんと見る”
そんな視線だった。
◇◇◇
一時間目が始まる前。
教室の後ろで、数人の女子が話している。
「冬木くん、昨日すごかったよね」
「走ってるとき、めっちゃ真剣だった」
「怖いっていうより……頼もしい感じ?」
俺は聞こえないふりをして席に座る。
慣れない。
でも、嫌じゃない。
神宮寺が、ノートを準備しながら小声で言った。
「……見方、変わりましたね」
「だな」
「でも」
彼女は一瞬だけ間を置く。
「無理に変わらなくていいと思います」
「……どういう意味だ」
「今のままで、十分だって意味です」
言い切る声。
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
◇◇◇
昼休み。
自然と机がくっつき、輪ができる。
体育祭前よりも、少しだけ大きな輪。
「なぁなぁ、リレーのときさ——」
「三浦、あそこで転びそうになってたよね?」
「うるせぇ! 踏ん張ったんだよ!!」
笑い声。
思い出話。
影森も、輪の中にいる。
まだ多くは話さないが、黙って聞くだけじゃない。
「……あのときの応援、すごかった」
ぽつりと、でもはっきり言う。
「声、ちゃんと届いてた」
三浦が笑う。
「だろ!? 俺の声量は全国レベルだからな!」
「自分の功績にするな」
影森が、少しだけ笑った。
それを見て、佐伯が安心したように頷く。
◇◇◇
午後の授業。
眠気と戦いながらも、教室の集中力は高い。
体育祭が“区切り”になったのかもしれない。
ひとつの山を越えたことで、
クラスが「次」に目を向け始めている。
(……この空気、長く続くといいんだが)
そう簡単じゃないことも、分かっている。
人間関係は、油断するとすぐに崩れる。
だからこそ——
◇◇◇
放課後。
俺が黒板を消していると、担任が声をかけてきた。
「冬木」
「はい」
「体育祭、よくやったな」
「……ありがとうございます」
「それでだが」
少し間を置く。
「来月の文化祭、クラス委員を決めるんだが——」
(……来たな)
「お前、やってみないか」
教室の空気が、また一瞬止まる。
「いや、さすがに——」
「無理なら断っていい」
担任は即座に言った。
「ただ、“向いてる”とは思ってる」
三浦が横で囁く。
「二大イベント制覇、いけるぞ冬木」
「黙れ」
黒瀬は、静かに言った。
「……冬木がやるなら、手伝う」
影森も、勇気を出すように口を開いた。
「……私も……できること、やる」
神宮寺は、何も言わなかった。
ただ——こちらを見て、ゆっくり頷いた。
(……参ったな)
断る理由は、もうなかった。
「……分かりました。
やります」
その瞬間、
クラスの中で、何かが“前を向いた”。
◇◇◇
帰り道。
「文化祭か……」
三浦が伸びをする。
「忙しくなるな」
黒瀬が言う。
「……でも」
影森が、小さく続けた。
「また、みんなで何か作れるんですね」
神宮寺が、横を歩きながら言った。
「“一度できた”という経験は、強いです」
「だな」
俺は空を見上げる。
体育祭の余韻が、まだ残っている。
(……日常に戻っても)
確かに、何かは変わった。
視線。
距離。
言葉の温度。
そして——
神宮寺の隣にいることが、
“特別じゃなくなりつつある”こと。
それは、近づいた証拠でもあった。
◇◇◇
家に帰ると、妹たちが聞いてきた。
「学校どうだった?」
「体育祭終わって、静かになった?」
「……いや」
俺は少し考えてから言った。
「次に進んだ」
二人は顔を見合わせて笑う。
「それ、いいね」
「うん」
◇◇◇
夜。
神宮寺から、短いメッセージが届いた。
『今日は、少し疲れましたね。
でも……前より、楽しいです』
返事を打つ。
『同感だ』
それだけで、十分だった。
日常は戻ってきた。
でも、元には戻らない。
友情も、信頼も、
そして——まだ名を持たない想いも。
静かに、確かに、続いていく。




