「旗を持つということ」
昼休みの出来事から一日が過ぎても、クラスの空気は完全には元に戻らなかった。
悪い意味じゃない。
むしろ逆だ。
誰かが困っていれば、以前よりも一歩踏み込む。
ひそひそ話をする前に、本人を見る。
そんな“間”が、教室の中に生まれていた。
(……居心地、悪くはねぇな)
むしろ、少しだけ安心する。
◇◇◇
五時間目の終わり、担任が教壇に立った。
「よし、来月の体育祭についてだが——
今日から準備を始めるぞ」
ざわっと空気が揺れる。
「各クラス、赤白に分かれるのはもう知ってるな?
それと、クラスごとに“競技責任者”を決める」
「えー」「めんどくさ」「誰やるんだよ」
担任は軽く咳払いして続けた。
「クラス全体をまとめる役だ。
運動得意かどうかより、“周りを見られるか”を重視する」
その言葉を聞いた瞬間——
嫌な予感がした。
そしてその予感は、外れない。
「じゃあ……冬木、どうだ?」
教室が、一瞬で静まった。
「は?」
反射的に声が出る。
「いや、体育での動きも見てるし、
この前の昼休みもな。
お前、周り見えてるだろ」
視線が集まる。
三浦は、もう笑っていた。
「決まりだな!!」
「異議なし!!」
「冬木なら安心!!」
「ちょ、待て——」
言い終わる前に、担任が黒板に名前を書いた。
《競技責任者:冬木 悠斗》
……決定事項らしい。
(……逃げ場ねぇな)
◇◇◇
放課後、体育館。
赤組と白組に分かれて集まる。
俺たちのクラスは白組だった。
「競技責任者は前に出てくれ」
前に出ると、他クラスの代表たちが並んでいた。
陸上部っぽい奴、バスケ部のエース、いかにも陽キャなやつ。
(……場違いだろ)
そう思った瞬間——
後ろから小さく手を振る影が見えた。
影森だ。
不安そうだけど、ちゃんと俺を見て頷いている。
さらに、隣の列には神宮寺。
目が合うと、彼女は小さく微笑んだ。
(……くそ)
逃げる理由が、一つ減った。
◇◇◇
説明が終わり、クラスに戻る。
「じゃあ冬木、どうする?」
黒瀬が聞いてくる。
「競技の配置とか、練習スケジュールとか、
全部冬木が決める感じ?」
「……俺が一人で決める気はねぇ」
即答した。
「三浦、お前は盛り上げ役」
「任せろ!!」
「黒瀬、全体の進行と時間管理」
「了解」
「佐伯、女子の意見まとめてくれ」
「うん!」
そして——
前の席に目を向ける。
「影森」
「……っ、は、はい」
「記録と連絡。
できるか?」
一瞬だけ、影森の顔が強張った。
でも——ゆっくり、深く頷いた。
「……やる。
やらせてください」
その声は、前よりはっきりしていた。
最後に、隣を見る。
「神宮寺」
「はい」
彼女は最初から分かっていたように姿勢を正した。
「全体の調整役、頼めるか」
生徒会で鍛えた能力。
人の感情を読む力。
「……任せてください」
その目は、迷っていなかった。
◇◇◇
その日の帰り道。
「なぁ冬木」
三浦が歩きながら言う。
「お前さ、
“前に立たないタイプ”だと思ってた」
「俺もそう思ってた」
黒瀬が淡々と続ける。
「でも、
誰かが前に出ないといけないときに、
逃げない人間が一番向いてるんだよ」
神宮寺は、少し後ろを歩きながら言った。
「……責任を背負う覚悟がある人、ですね」
俺は空を見上げる。
(覚悟、ね)
ただ——
守りたいと思っただけだ。
クラスも、
影森も、
神宮寺も。
◇◇◇
夜、家。
「体育祭!? 責任者!?」
マリアが目を輝かせる。
「お兄ちゃん、前に立つんだ!」
イリアも珍しく笑っている。
「……大げさだ」
「でもさ」
イリアが静かに言った。
「お兄ちゃん、
誰かの“一歩前”に立つの、
嫌いじゃないでしょ」
図星だった。
◇◇◇
翌日から、体育祭準備が本格的に始まった。
指示を出す。
意見を聞く。
衝突を調整する。
怒鳴らない。
押し付けない。
でも、曖昧にはしない。
気づけば、
クラスは自然と俺の声を聞くようになっていた。
影森はメモを取り、
神宮寺は人の間を繋ぎ、
三浦は笑わせ、
黒瀬は整える。
(……悪くねぇな)
ひとりじゃできなかった。
でも、ひとりじゃなくなった。
◇◇◇
放課後、最後に残ったのは俺と神宮寺だけだった。
「……大変ですね」
「まぁな」
「でも」
彼女は、少しだけ目を伏せて言った。
「冬木くんが前に立つと、
不思議と怖くないんです」
その言葉は、
“安心”と“信頼”の境界線にあった。
俺は答えない。
答えられなかった。
代わりに、静かに言う。
「……一緒にやろうぜ」
神宮寺は、少し驚いてから、
ゆっくり微笑んだ。
「はい」
◇◇◇
体育祭は、まだ始まっていない。
でも——
この準備期間こそが、
俺たちを“クラス”に変えていく。
そして、
神宮寺の胸の中で、
影森の中で、
俺自身の中で——
何かが、確かに育ち始めていた。




