「噂は静かに、刃になる」
その違和感に気づいたのは、四時間目が終わった直後だった。
昼休みのチャイムが鳴る少し前。
教科書を片付けながら、教室の空気がいつもより張りつめているのを感じた。
声が低い。
笑い声が少ない。
視線が、妙に散らばっている。
(……なんだ)
三浦はいつも通り騒いでいるが、どこか上滑りしている。
黒瀬は気づいているらしく、窓の外を見ながら眉をひそめていた。
前の席の影森は、背中が少し強張っている。
そして——隣の神宮寺は、何も言わないが、ペンを持つ指にわずかな力が入っていた。
(……嫌な予感しかしねぇな)
◇◇◇
昼休み。
「ねぇ、聞いた?」
「やっぱそうだよね……」
「でもさ、ちょっと……」
小さな声が、いくつも重なっている。
はっきりした言葉は聞こえないが、方向性は分かる。
——俺の周りだ。
「冬木」
黒瀬が、低い声で呼んだ。
「今、校内で変な噂が回ってる」
「……どんなだ」
黒瀬は一瞬だけ言いよどった。
「“影森が、冬木に取り入って成績を上げようとしてる”って」
思わず、箸を置いた。
「は?」
三浦が食い気味に続ける。
「あと、“神宮寺はそれを黙認してる”とか、“三角関係”とか……
マジで意味分かんねぇこと言われてる」
胃の奥が、すっと冷える。
(……くだらねぇ)
くだらない。
馬鹿げてる。
でも——こういう噂は、放っておくと一番厄介だ。
前を見る。
影森は、弁当をほとんど食べていなかった。
箸を持ったまま、じっと俯いている。
(……あいつに向いてる刃だな)
弱い立場。
目立たない性格。
“助けられた”事実が、歪められて利用されやすい。
神宮寺の方を見ると、彼女は静かにお茶を飲んでいた。
表情は変わらない。
だが——怒っている。
はっきり分かる。
あの静けさは、抑え込んだ感情の形だ。
◇◇◇
影森が、そっと立ち上がった。
「……あの、私……今日は図書室で食べるから……」
逃げる選択。
責められるより、消える方が楽だと知っている人間の動き。
その瞬間——
俺は立ち上がっていた。
「座れ」
教室が、一瞬で静まる。
影森がびくっと肩を跳ねさせる。
「……冬木、くん……」
「飯、残してどこ行く気だ」
声を荒げたわけじゃない。
ただ、低く、はっきり言っただけだ。
視線が集まる。
ヒソヒソ声が止まる。
「……ここで食え」
「でも……」
「でもじゃねぇ。
俺の前の席だろ」
逃げ道を塞ぐ言い方だ。
でも——必要だった。
影森は、唇を噛んでから、ゆっくりと座り直した。
◇◇◇
ざわつきが戻りかけた、そのとき。
「——噂話って、楽しいですか?」
神宮寺の声だった。
静かで、凛としていて、教室の端まで通る声。
彼女は立ち上がり、ぐるりとクラスを見渡した。
「確認もせずに、人の努力や関係を歪めて、
誰かを悪者にして……それで、何が残るんでしょうか」
誰も答えない。
「影森さんが勉強を頑張っているのを、
“ずるい”と切り捨てるのは簡単です。
でも、それって——努力した人を、二度傷つける行為です」
影森が、目を見開いた。
神宮寺は続ける。
「冬木くんが教えているのは、特別扱いじゃありません。
分からない人に、分かるまで説明する。
それだけです」
ここで、俺も口を開いた。
「……俺からも言う」
全員の視線が向く。
「影森が頼ったのは俺だ。
勉強が分からないって言われて、教えただけだ」
拳を握る。
力を入れすぎれば、空気を壊す。
だから——言葉だけで押す。
「それを“取り入った”って言うなら、
困ってる人間を助ける行為は全部そうなる」
教室が、完全に沈黙した。
「俺は、そういうクラスにしたくねぇ」
それだけ言って、座る。
◇◇◇
数秒の静寂のあと、
佐伯が、ぽつりと言った。
「……私も、冬木くんにノート借りたよ」
続けて、別の女子が。
「私も、数学のとこ聞いた」
「俺も……」
少しずつ、声が増える。
“影森だけじゃない”
“特別じゃない”
事実が、噂を削っていく。
三浦が腕を組んで言った。
「つまりさ、勉強教えてもらってるやつ全員、
“取り入ってる”ってことになるよな?」
笑いが起きる。
空気が、ようやく緩んだ。
◇◇◇
昼休みの終わり。
影森が、震える声で言った。
「……ありがとう……冬木くん……神宮寺さん……」
俯いたまま、でも逃げなかった。
「私……ちゃんと、ここにいていいんだって……思えた」
「当たり前だ」
俺は即答した。
神宮寺も、静かに頷く。
「ここは、あなたの席です」
影森は、初めて——
声を上げて泣いた。
◇◇◇
放課後。
「……正直、ヒヤッとしたな」
黒瀬が言う。
「でも、あれでクラスの空気、一段変わった」
三浦は大きく頷いた。
「完全に“冬木は怖い”から“信用できる”に変わったな」
「勝手に評価変えんな」
神宮寺が、少し遅れて口を開いた。
「……冬木くん」
「ん」
「さっきの言葉、ありがとうございました。
私が言う前に、守ろうとしてくれて」
「別に……俺は影森に言っただけだ」
「それが、守るってことなんです」
その言葉は、静かに胸に残った。
◇◇◇
この日を境に、
影森は“影”から一歩抜け出し、
クラスは“噂で人を裁かない”空気を少し持ち始めた。
そして——
神宮寺の中で、冬木悠斗という存在は、
ただの隣の席ではなくなった。
強さを振りかざさず、
声を荒げず、
それでも、誰かを守る。
その姿が、確かに心に刺さってしまったから。




